35~アナグラの朝、ふたりと一匹
夜と朝のあいだ――空がまだ群青色のまま、
森はひんやりとした静けさに包まれていた。
ジルコール近郊の針葉樹の森。その奥の土と木の根で組んだ粗末なアナグラに、かすかな光が灯る。
灰色のローブにくるまって寝ていたノーラが、ぱちりと目を開けた。
「……よし、今日もちゃんと朝はタダ」
いつもの冗談を、誰に聞かせるでもなく小声で呟く。
胸の前に手をかざし、掌に小さな魔法陣を描く。淡い光がきらめき、掌の上に清らかな水がぽたり、ぽたりと湧き始めた。
素焼きの鉢に水を溜め、ノーラは顔を洗い、口をすすぐ。
冷たい水が頭の芯まで目を覚まさせた。
アナグラの片隅では、ルチェアがワラ布団の上に毛布をかけ、丸くなって眠っている。その腕枕の中に、白い毛玉が一つ――ピョコマルだ。小さなシカのような顔に、猫のようなふわふわの毛並みをした魔法生物。鼻先だけちょこんとルチェアの腕から覗かせ、「ぴょ」と寝言のような声を漏らす。
(……よくそんな体勢で腕が痺れないわね)
ノーラは苦笑し、そっと毛布を掛け直した。
アナグラの天井には、乾燥させた薬草の束と、ルーンを書きつけた紙片、古い魔石のかけらを吊るしている。壁際には、小鍋とマグカップ、そしてくたびれた帳簿と羽ペン。どれも質素だが、ノーラにとっては十分すぎる道具だった。
「……さて、まずは日課」
入口近くの少し開けた地面に座り、ノーラは足を組んで静かに目を閉じた。
呼吸だけに意識を向ける。吸って、吐いて。周囲の気配が薄まり、腹のあたりに温かいものが少しずつ集まってくる感覚をつかむ。魔力の流れを整えるための瞑想――師匠レメディアに教え込まれ、三年間欠かさず続けている習慣だった。
しばらくして。
「ん……」
背後で、毛布の擦れる音がした。ルチェアが眠たそうに上体を起こし、あくびを噛み殺しながらノーラの背中を見る。
「ノーラさん、また座ってる……毎朝やるんですか?」
「毎朝やるの。これをサボると、そのうち命が安くつくからね」
「い、命……?」
「魔女の仕事って、だいたい命知らずな連中と関わるから。せめて自分の魔力くらい、言うこと聞くように躾けておかないと」
目を開けずに淡々と答えるノーラに、ルチェアは恐る恐る隣に座った。
「じゃあ……わたしも、やってみます」
「どうぞご自由に。寝落ちしても責任は取らないから」
ルチェアはぎこちなく足を組み、ノーラの真似をして目を閉じる。横でピョコマルも「ぴゃう」と小さく鳴き、二人の足元に丸くなって再び眠りに落ちた。
森の静寂。木々のざわめきと遠くの鳥の声。
薄明のひかりが、アナグラの入口から帯のように差し込む。
ノーラは呼吸のリズムで、およその時間を測る。
(……三十分。そろそろかな)
「はーい、瞑想終わり。腹減った」
目を開けると、ルチェアは半分寝落ちしていたところだった。ぐらりと前に倒れかけたところをノーラが襟首をつまんで支え、ため息をつく。
「最初はこんなもんね。続けてれば、そのうち慣れるわ」
「ふわぁ……お腹、すきました」
「はいはい。朝ご飯作るから、火の番お願い。ピョコマルは……寝てなさい」
ピョコマルは「ぴょ」と無邪気に鳴き、言われたとおり再び丸まった。
朝食は、昨日の残りの穀物粥を固めたルーンバーと、干し果物を少し。ノーラが魔法で作った水を沸かし、薄いハーブ茶で喉を潤す。
「贅沢は敵。だけど、空腹のまま働くのはもっと敵。覚えておきなさい」
「はい!」
簡素な食事のあと、ノーラはいつもの帳簿を広げた。
アナグラの入口近くに置かれた木箱には、小袋に分けた銅貨と銀貨がいくつか。大金は別の場所に隠してあるが、日々の出し入れはこの箱から行っている。
「えーと、ギルドの依頼報酬。忘れ谷の一件で……ここがプラス。宿代と、食費の立て替えでここがマイナス」
羽ペンが、紙の上を心地よい速さで走る。
その横で、ルチェアが興味津々といった顔で覗き込む。
「ノーラさん、毎日それ、書いてるんですか?」
「当たり前でしょ。お金の流れを記録しておかない商人なんて、目隠ししたまま橋渡ってるようなものよ」
「……目隠し、こわいですね」
「でしょ。だから数字は味方にしておくの」
ノーラは帳簿をぱたんと閉じ、ルチェアに向き直る。
「今日の予定は――午前中は市場で値踏み。昼は書籍商で立ち読み。午後はギルドに顔出し。そのあと、あんたの読み書きと計算の訓練」
「う、勉強……」
「嫌そうな顔しない。読み書きと計算ができないと、あんたは一生、誰かに搾り取られて終わるわよ。少なくとも、あんたの命を売ろうとした連中みたいにね」
ルチェアの表情が、はっとして引き締まった。
「……がんばります」
「よろしい。じゃ、行くわよ、ピョコマルも」
ノーラが肩をすくめると、ピョコマルは嬉しそうに跳ね、ルチェアの後をちょこちょことついていった。
ジルコールの街は、今日も朝からざわめいていた。
露店が並ぶ通りには、野菜、布、古着、魔道具のガラクタまで、ありとあらゆる品物が並ぶ。
「よーし、値踏み日和ね」
ノーラは市場の入口で立ち止まり、いつものように深呼吸した。人波の中にちらばる品物を一瞥し、視線を流しながら、頭の中でざっと値段を弾いていく。
ルチェアとピョコマルは、
その後ろをおずおずとついていった。
見慣れぬ街の喧騒に、ルチェアは少し緊張した面持ちだ。
「ルチェア」
「は、はい!」
「まず、人の声に飲まれないこと。市場の喧騒は、慣れれば風と同じよ。必要な声だけ拾う」
そう言ってノーラは、近くの魚屋の値切り交渉に耳をそばだてた。
「……ほら、あそこ。仕入れ値をうっかり喋ってる」
「え、どこですか?」
「今朝は港で安く仕入れられてねって言ったでしょ。つまり、今日の魚は全体的に安いってこと。別の店で、黙って値切る材料に使える」
ルチェアの目が丸くなる。
「市場ではね、ものを見る前に人を見るの。誰が焦って売ってるか、誰が強気か、それだけで半分は勝負がついてる」
そんな講釈を交えつつ、ノーラは今日も小さな差額を拾っていく。
古着屋の投げ売りから、質のいいインナーだけ抜き取る。
古道具屋の箱の中から、魔女でもない店主が気づかない小さな魔力を宿した留め具を見つける。
銅貨数枚で買った品を、別の露店で銀貨に変える。
ルチェアはそれを横で見て、ただただ口をぽかんと開けていた。
「……すごい。何もないところから、お金が増えていくみたい」
「何もないところじゃないわ。みんな、ちゃんと目の前に転がってるの。ただ気づいてないだけ。気づいた人間だけが、小銭を拾えるの」
ノーラは銀貨を一枚弾き、器用に指の間で回した。
「でもまあ、これも全部、次の大きな商売のための準備資金よ」
「次の……?」
「砕石魔石の市場、ちょっと匂いが変わってきたからね。近いうちに、でかい波が来る」
ルチェアには意味が分からないようだったが、ノーラの声には、ごくわずかに高揚が混じっていた。
昼前、ノーラはいつもの書籍商の店先に立ち寄った。
薄暗い店内。木棚に並ぶのは、図鑑、冒険譚、王都から流れてきた古い学術書、そして魔術書の断片。
ノーラは「今日は買う気はない」と店主に一言告げ、堂々と立ち読みコーナーに陣取った。ルチェアは端っこの椅子に座らされ、この世界の文字を練習させられている。膝の上には、ノーラが昨日買い与えたばかりの安い石板とチョーク。
「コルは銅貨、フローは銀貨、ソルは金貨。はい、十回書いて」
「うぅ……」
ピョコマルは足元で石板に鼻先を近づけ、「ぴょ」と鳴いて邪魔をする。
「ピョコマル、かじっちゃだめ。これはご飯じゃないの」
文字の線はまだ頼りないが、ルチェアの目は真剣だ。村で勉強の機会を奪われてきた分、今の時間を必死に掴もうとしていた。
ノーラはそんな様子をちらりと確認してから、別の棚に視線を移した。
(……再生魔術の記録はやっぱりないか。あっても断片か、教会側の検閲済み)
魔女狩りの時代に焼かれた知識の穴。その隙間に、どれだけの商機と危険が入り込んでいるかを考え、ノーラは薄く笑う。
(ま、だからこそ再生魔石みたいな現物の価値が跳ね上がるんだけど)
午後。冒険者ギルド。
いつものように、ジンジャーとミント、それからソルトがテーブルを囲んでいた。
「お、ノーラ。ルチェアちゃんも一緒か」
ジンジャーが軽く手を挙げる。ルチェアはまだギルドの雰囲気に慣れておらず、ノーラの後ろに隠れるようにしながらも、小さく会釈した。
「今日は依頼は受けないわ。市場の様子見と、ギルドの情報だけ借りに来た」
「相変わらずだなぁ、依頼より情報と金勘定優先か」
「そっちも相変わらず、命張る割に報酬安い仕事ばかり選んでるじゃない」
軽口を交わしながら、ノーラは掲示板を眺める。
魔物討伐、荷物の護衛、行方不明者の捜索。紙の端に、ちらほらと「砕石魔石の安定供給ルート確保のための調査」という依頼が増え始めていた。
(……ほらね。砕石魔石の流れが、どこかで詰まりかけてる)
その隣には、ルチェアの名が小さく追記された書類――忘れ谷の件の報告書と、彼女の保護に関する覚書が収められている。
「ルチェアちゃん、ギルドには慣れた?」ソルトが優しい声で問いかけた。
「えっと……まだ、ちょっと怖いです。でも、ノーラさんがいるから」
ルチェアがそう答えると、ミントが腕を組んでうなずいた。
「正解。あの人はお金にはがめついけど、子供を売るような真似だけは絶対しないから」
「なんでだけがつくのよ」
ノーラが眉をひそめると、三人は揃って笑った。
夕暮れ。森へ戻る道。
ルチェアは抱えていた布袋を下ろし、ふぅと息をついた。袋の中には、ノーラが値切って買った安い豆と、小麦、それから端切れの布が入っている。
「疲れました……市場って、こんなに歩くんですね」
「お金って、足で拾うものだから」
ノーラは肩をすくめ、森の奥にある自分のアナグラを指さした。
「さ、戻ったら勉強の続き。あと、お風呂代わりの水くらいはサービスしてあげる」
「ほんとですか!?」
「水を出すだけなら、タダだからね」
ピョコマルが先に駆け出し、
アナグラの入口でちょこんと待っている。夕陽がその毛並みを金色に染めていた。
夜。
アナグラの中。小さな焚き火の炎がゆらゆらと揺れ、灰のローブが壁際に掛けられている。夕食を終えたあと、ルチェアは石板の前で文字の練習。ノーラはその横で、簡単な水魔法のルーンを土の床に描いて見せていた。
「いい? これは一番基本の水呼びのルーン。急に大きな魔法なんて使わなくていいから、まずはコップ一杯ぶんだけ水を呼べるようになりなさい」
「コップ一杯……」
「それができれば、旅先で喉が渇いても死なない。そのうち桶一杯、樽一杯って増やしていけばいいの」
ルチェアは真剣な眼差しでうなずき、震える指先で土にルーンをなぞる。ピョコマルはその上をうっかり踏みそうになり、「ぴゃっ」と慌てて飛び退いた。
「ピョコマル、そこ危ない」
「ぴょ~……」
ノーラは笑いながら、ピョコマルの頭をひとなでしてやる。
焚き火のそばには、今日一日で増えた小さな利益を記した帳簿が開きっぱなしになっていた。消費した銅貨。増えた銀貨。新しく知った商会の噂。砕石魔石の値が、じわりと動き始めていること。
ギルド掲示板の違和感。
(――平穏な日常って、案外、次の商機の前の間なのよね)
ノーラは火を見つめながら、無意識に灰のローブの裾を指先でつまんだ。そこには、まだ自分でもよく分からない古い魔力の気配が宿っている。
隣では、ルチェアが石板に小さく文字を書き連ねていた。
「ノーラさん、ルチェアってこの書き方で合ってますか?」
「うん、そこは上手。あとはフローの字が丸すぎ。お金はもっと角ばってていいの」
「お金が角ばってるって、変な感じですね」
「世の中、お金が角になって刺さることの方が多いのよ」
軽口を交わしながらも、焚き火の周囲には穏やかな時間が流れている。
外では風が森を渡り、遠くでフクロウが鳴いた。
ノーラはふと、アナグラの天井を見上げる。
(……しばらくは、こんな日々が続けばいいけど)
だが心のどこかで、知っていた。
穏やかな日常の裏で、砕石魔石を巡る争いの火種が、静かに大きくなりつつあることを。そして、再生魔石がその火種に油を注ぐ存在であることも――まだはっきりとした形にはならないまま、彼女の直感が告げていた。
焚き火が小さくはぜ、ピョコマルが「ぴょ」と寝言を漏らす。
ノーラは帳簿を閉じ、光を弱めるために手をかざした。
「ほら、今日はもう寝るわよ。明日も朝はタダなんだから」
「……はい!」
こうして、強欲の魔女の一日は静かに更けていった。
――嵐の前の、ささやかな平穏として。
閲覧いただきありがとうございます。




