34~ルチェアの魔法修行
朝の森は、まだひんやりとしていた。
背の高い針葉樹の枝のあいだから、薄い光が何本も差し込み、地面にまだらな模様を落としている。湿った土の匂いと、どこか甘い草の香りが混じり合い、鳥のさえずりが遠くでこだましていた。
その静寂を、ノーラは好んでいた。
土と泥と枝で組み上げた粗末なアナグラ。その入口の前、平らに均した地面の上に、ノーラとルチェアが並んで座っていた。
ノーラは胡座。ルチェアは、姿勢が崩れないようにぎこちない正座だ。
その膝の上には、鹿のような顔立ちに猫のような毛並みをもつ小さな魔獣――ピョコマルが丸くなって乗っている。「ぴゃう」と一声鳴いたきり、気持ちよさそうに目を細めていた。
「――じゃ、今日も三十分ね。喋らず、動かず、呼吸だけ数えて」
ノーラは淡々と告げる。
ルチェアはこくりとうなずき、胸の前で手を合わせると、目を閉じた。
ノーラも同じように目を閉じ、静かに息を吸い込む。森の空気が肺の奥まで満ちていき、吐く息とともに余計な思考が遠ざかっていく――ような気がする。
瞑想。魔力の流れを整え、自分の内側にある「コア」を感知する訓練。
師匠から叩き込まれて以来、ノーラはほぼ毎日のように続けてきた。魔法の才覚こそあるが、天才ではない自分が魔女としてやっていくために、地道な基礎だけは欠かさないと決めたのだ。
そして今、その習慣にルチェアを付き合わせている。
(さて、どこまで集中が持つかしらね)
横目でちらりと盗み見たくなる誘惑をこらえ、ノーラは自分の腹の奥――へその少し下あたりに、温かい球体をイメージする。そこからじわじわと、優しい熱が広がっていく。
その感覚に意識を合わせるように、吸う、吐く。吸う、吐く。
膝の上のピョコマルも、ルチェアの呼吸に合わせるように小さく胸を上下させていた。ふわふわの毛並みが、朝の光を受けてほんのりと金色に揺れる。
ルチェアは最初、足の痺れや背中のこわばりが気になって仕方がなかった。しかし、数日も続けるうちに、わずかに――本当にわずかにだが――腹の奥でぽうっと灯る何かを感じる瞬間が出てきた。
(あ……あったかい……)
その温かさは、ピョコマルの体温とも、焚き火の熱とも違う。もっと内側で、骨の隙間を流れるように静かに広がっていく感じ。
同時に、手の甲に刻まれた印が、かすかにむず痒くなるのを、ルチェアは感じていた。
祝福印――教会では「神の導き」だと言い締めた。ノーラは眉をひそめて「便利そうな特異体質」と言い、フレアリスは「高貴そうな模様ね! わたくしの紋章の隣に刻んであげましてよ!」と意味不明なことを言った。
今、その印が心臓の鼓動に合わせて、ぽうっと淡く熱を帯びているように感じる。
(……これも、魔力、なのかな)
ルチェアが問いかけても、印は答えない。ただ、腹の奥の温かさと同じリズムで脈打っていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
ノーラは体内時計で「そろそろ三十分」が来たと判断し、静かに息を吐いて目を開いた。
「――はい、そこまで」
声をかけると、ルチェアはぴくりと肩を揺らし、慌てて目を開く。
「は、はいっ……!」
「どう? 途中で寝てなかった?」
「ね、寝てません! たぶん!」
「たぶんの時点で怪しいわねぇ」
ノーラは肩をすくめるが、口調は柔らかい。
「でも、前より顔色は良くなってる。腹のあたり、じわっとあったかく感じたでしょ?」
ルチェアはおそるおそる自分のお腹に手を当ててみる。
「……なんか、ふわっとして……胸のあたりも、ちょっとドキドキしました」
「それね。あんたの魔力コアと、印の反応。ちゃんと繋がってきてる証拠よ」
ノーラはルチェアの手の甲に目を落とす。そこに刻まれた紋様――細い線が渦を巻き、小さな風車のような形を描いている。
精霊だの星だのについては詳しくない。ただ一つ確かなのは、この印が「風」と妙に相性が良いことだ。
(印持ちのくせに、魔女みたいに回路が開いてる……ホント、珍しい子を拾ったわよね)
「よし、じゃあ次はルーン。朝飯前に一枚だけ、集中して覚える」
「は、はい!」
ノーラが立ち上がると、膝の上のピョコマルが「ぴゃう」と鳴いて転げ落ちた。丸い体をくるんと回転させて着地すると、名残惜しそうにルチェアの足に頭を擦りつける。
「ごめんね、ピョコマル。ちょっとだけ待っててね」
ルチェアが笑いながら頭を撫でると、ピョコマルは「ぴょ」と短く鳴いて、アナグラの入り口で丸まり直した。
ノーラはアナグラの横の、土がむき出しになっているスペースにしゃがみ込み、小枝で地面にさらさらと何かを書き始める。
∽ のような曲線と、縦線、三本の小さな羽のような記号。
「これが今日のルーン。風」
「……あ、なんか、見たことあるような……」
「自分の印と似てるからじゃない? ほら、ここ。この羽根みたいな部分」
ノーラはルーンの一部を指で示す。確かに、ルチェアの印の外縁に刻まれた模様と、どこか似ていた。
「ルーンは魔術師の言葉。魔女は感覚的に魔力を動かせるけど、あんたは印持ち。ルーンを覚えれば、魔女とも魔術師とも違う、自分のやり方を作れるわよ」
ルチェアは真剣な顔でうなずき、枝を受け取った。
「はい……!」
「じゃ、一日三十回。線の向きが逆にならないように気をつけて」
その言葉通り、ルチェアは膝をつき、ひたすら同じ記号を土に描き続けた。まだ線は歪みがちだが、何度もなぞるうちに少しずつ形が揃ってくる。
ノーラはそれを横目に見ながら、アナグラの中で簡単な朝食――固くなったパンを水魔法でふやかして煮込んだ簡易ポリッジ――の準備を始めた。
しばらくして、ルチェアの「線がぐにゃっと」ミスをする音が減ってきた頃、ノーラは顔を出す。
「ルチェア。ちょっとこっち来て」
「は、はいっ。……いま何回くらい書けましたかね」
「二十五ってとこかしら。まあ上々。で――ちょっと応用編」
ノーラはルーンを描いた場所の前に立たせ、ルチェアの右手を軽く持ち上げた。
「今度は土じゃなくて空中。指で、さっきのルーンをなぞるイメージで書いてみて」
「ゆ、指で……?」
「そう。指ルーン。魔法陣が描けない状況でも、最低限形になる術式を組み立てる方法。魔女はこれやらないけど、魔術師と印持ちは、これができると世界が変わるわよ」
ルチェアはごくりと喉を鳴らし、指先をじっと見つめる。
そして、ゆっくりと空中に線を描き始めた。
なぞる順番を間違えないように。「羽根」の部分と縦線を頭の中で組み合わせるようにして。
線そのものは見えない。ただ、空気の抵抗と、指先に集まるかすかなざわめきが、ルーンの輪郭を教えてくれる。
「……か、描けました……たぶん」
「じゃ、さっき教えたとおり。五・七・五で簡単な詠唱を乗せて。風のルーンに魔力を流しながら」
ルチェアは目を閉じ、深呼吸を一つ。
少し考えてから、恥ずかしそうに口を開いた。
「か、風さんよ……
……そっと優しく……
……ここを撫でて……」
どこか田舎の詩のような、素朴な言葉。
その瞬間――ルチェアの指先で、ふわりと小さな風の渦が生まれた。
アナグラの入口付近の枯葉が数枚ふわりと舞い上がり、ピョコマルの額の毛がくすぐったそうに揺れる。
「ぴゃう?」
「や、やった!? 今の、見ましたかノーラさん!」
ルチェアは目を見開いて跳ね上がる。
ノーラは腕を組み、満足そうにうなずいた。
「うん。ちゃんと風になってた。……初日にしちゃ上出来」
「本当ですか!?」
「ただし、今のは印が勝手に補助してくれた感じ。あんたの詠唱とルーンが五割、印の補正が五割ってとこね」
ノーラはルチェアの指先をつまみ、そこに残る魔力の残滓を確かめるように撫でる。
「このままだと、興奮したり恐怖を感じたときに、印の方が勝手に暴走する危険がある。だから――今のうちに自分で操作する癖をつける」
「……暴走、ですか」
「そう。あんたが怖いと思った瞬間、周りにいる人間がまとめて吹き飛ぶみたいなね」
ルチェアは青ざめた。
「そ、そんなの絶対いやです……!」
「でしょ。だったら、訓練あるのみ。今日は午前中、市場で手伝いね。そのついでに、簡単な風魔法の“実地テスト”もやる」
ノーラはそう告げると、小鍋を掲げた。
「とりあえず、その前に朝ごはん。腹が減ってちゃ魔法どころじゃないわ」
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