23~人身売買
その夜――。
忘れ谷の雨は、夜更けになってもやむ気配を見せなかった。
屋根を叩く音が、村全体を覆うようにざあざあと鳴り続けている。
男部屋は二階の六畳。
床はきしみ、壁は薄く、窓の隙間からはときどき冷たい風が吹き込んだ。
「……さむっ」
ソルトは掛け布団を鼻のあたりまで引き上げ、丸くなっている。
ジンジャーは鎧を外し、簡素な寝間着姿でベッドの端に腰掛け、窓の外の闇をじっと見ていた。
「ジンジャーさん、寝ないんですか?」
「もう少ししたらな。……なんか、気持ち悪い夜だろ」
「気持ち悪いって、どういう?」
「静かすぎる」
ジンジャーは耳を澄ますように目を細める。
「雨音の割に、人の気配がねぇ。酒場も早く閉まった。普段からこうって感じじゃない。よそ者を早く寝かせておきたい夜って雰囲気だ」
「……言われてみれば」
ソルトは喉の奥がひやりと冷えるのを感じた。
ギルドに貼られていた依頼書――忘れ谷にて砕石魔石採掘の異常。人員の失踪と負傷者。状況確認――が頭をよぎる。
「でも、ここで焦っても仕方ないですし。明日、村長の話をちゃんと聞けば……」
「そうだな。俺たちの仕事は確認だ。暴れに来たわけじゃない」
そう言いつつ、ジンジャーの表情は油断なく引き締まっていた。
「お前は先に寝ろ。体力が資本だろ、学者志望」
「バイト感覚の冒険者ってちゃんと言ってくださいよ……」
軽口を叩き合いながらも、どちらも笑みは薄かった。
やがてソルトは瞼を閉じ、そのまま浅い眠りへと落ちていった。
一方その頃――。
女部屋では、暖炉の火が静かに揺れていた。
ノーラは乾きかけたスカートを暖炉から少し離れた位置に掛け直し、椅子に腰を下ろして帳簿を広げていた。
フレアリスは髪を軽く梳かし終え、ベッドの上にうつ伏せになって頬杖をつきながら、じっとノーラの手元を覗き込んでいる。
「……そんなに数字を見つめて楽しいんですの?」
「楽しいわよ? 支出と収入が綺麗に噛み合った瞬間とか、かなりの快感なんだけど」
「理解不能ですわ。火の舞いと蒸気の匂いの中で魔力を練る方が、よほど高貴な愉悦ですわ」
ミントはというと、ベッドの端で丸くなり、小さく寝息を立てていた。
寝顔は案外、年相応に幼く見える。
ノーラは一度ペンを置き、窓の外を見た。雨音は変わらない。
――だが、その下に微かな別の音が混じった気がした。
(……馬車? こんな雨の中で?)
耳を澄ます。
車輪の軋み、低い男の怒鳴り声。宿の真横、裏手の方だ。
「……ちょっと、様子見てくる」
「え? こんな時間に?」
フレアリスが上体を起こす。
ノーラは指を一本立て、静かにと制した。
「大丈夫。正面から突っ込むわけじゃないわ。ちょっと水の耳を使うだけ」
ノーラは部屋の隅に置かれた木桶をそっと引き寄せ、掌をかざした。
微量の魔力が流れ、桶の表面に薄い水の膜が広がる。
――水は、振動をよく伝える。
床板越し、壁越しの音も、上手く拾えれば少し鮮明なささやきになる。
ノーラは水面にそっと指を触れ、その波紋の揺れに意識を合わせた。
ざあざあという雨音の奥――
男たちの声が、ぼんやりと、しかし言葉として聞き取れる程度にはっきりしてくる。
『……今夜も、出すのか? こんな天気で?』
『予定は変えられねぇ。金を払うのは向こうなんだ。こっちが口を出す筋合いじゃねぇよ』
『だがギルドの連中が来てるって話だ……さっきも宿に――』
『知るか。俺たちは村長様に言われた通りに荷を運ぶだけだ。
余計なことに首突っ込んだら、次は自分か家族が箱に入ることになる』
水面がぶる、と震えた。
ノーラの眉がわずかに寄る。
(……荷?)
さらに別の声が混ざる。今度は、鼻にかかったような、妙にねっとりとした男の声。
『そちらの心配は無用ですよ。ギルドですか? ええ、砕石魔石の事故を気にしているだけの善良な方々じゃありませんか。見せたいものだけ見せればいい。見せたくないものは、今夜のうちに谷を出ればいい』
『……あんた、本当に貴族なのか?』
『肩書きなどどうでもよろしい。金と商品の流れだけが、世界を動かすんですよ』
フレアリスの表情が険しくなる。
彼女にも、ぼんやりと声は聞こえているようだ。
「……商品、ですって?」
水面の揺れは、やがて遠ざかっていった。
車輪の音が小さくなり、雨のカーテンに溶けていく。
ノーラは静かに手を引き、水の膜をほどいた。
「……砕石魔石の荷じゃないわね、今の口ぶり」
「ええ。砕石ごときに箱に入るなどと言いませんわ。
あれはもっと、生々しい何かですわね」
フレアリスは扇子をぎゅっと握りしめた。
「この村、やはり腐った匂いがしますわ。わたくしの鼻はごまかせませんわよ」
「鼻はお菓子とワインにしか効かないんじゃなかった?」
「今は真面目な話をしていますの!」
フレアリスが珍しく語気を強める。
その横顔には、ルクレール家の亡命と放浪の歴史を知る者ならではの、険しい影が差していた。
「……でも、ここで正面から飛び込むのは悪手よ」
ノーラはあえて淡々と告げる。
「今の私たちはギルドの調査隊。
やるべきは、明日、公式ルートで村長に会い、砕石魔石の事故の話を聞くこと」
「けれど――」
「それで十分、ボロが出るわよ。裏で人身売買なんてしながら、フツーに話を繕えるほど優秀な村長と貴族なら、とっくにもっと栄えてる」
ノーラの瞳が、琥珀色に冷たく光る。
「急ぎすぎると、証拠ごと荷を消される。
明日の昼までに、正面から揺さぶって、どこでほころぶか見る。……それが一番、安くて確実なやり方」
フレアリスは一瞬だけ唇を噛み、それからゆっくりとうなずいた。
「……分かりましたわ。
なら明日は、わたくしが完璧な外面を演じてみせましょう。高貴なる貴族の令嬢としてね」
「頼もしいわね。村長が相手なら、あんたの嫌味な貴族ムーブは最高の情報収集道具よ」
「嫌味な、は余計ですわよ!」
そんなやり取りの中でも、ミントは布団に顔を埋めたまま、くしゃみだけ一つした。
「……うるさい。寝る。明日、村長ぶん殴りたくなったらどうするの……」
「暴力担当はジンジャーに任せて、あなたは冷静に回復をお願いね」
ノーラは苦笑し、帳簿を閉じた。
外の雨音は、不穏さを孕んだまま夜明けを待っているようだった。
翌朝――。
雨はあがり、薄い霧が村の周囲を覆っていた。
空気は冷たいが、昨日よりはわずかに明るい。
宿の一階では、簡素な朝食が用意されていた。
大麦粥に、塩気の強い干し肉、酸味のある漬け物が少々。
「味はともかく、……量はギリギリ及第点ですわね」
フレアリスがそんな評価を下している横で、ソルトは遠慮なく二杯目の粥をよそっている。
カウンター越しに、宿主がそれとなく話しかけてきた。
「今日は砕石場を見に行くのかね。あそこはもう、ろくなもんじゃねぇが」
「ええ。ギルドからの依頼ですから」
ソルトが丁寧に答えると、男は鼻を鳴らした。
「あんなとこ見ても、死人と潰れた岩しかねぇさ。
若いのが何人も足をやられちまった。……運の悪い村だよ、まったく」
「失踪した人もいると聞きましたけど?」
ノーラがあえてさらりと言う。
宿主の顔に、一瞬だけ強張りが走った。
「……出稼ぎだよ。こんな村に未練はねぇってな。谷の外に出て、二度と戻っちゃ来ねぇ。若いのはみんなそうだ。今にゃ爺と婆と、しぶとい連中だけだ」
「そう。じゃあ、その出稼ぎ組がどこへ行ったのか、教えてもらえる?」
「さぁな。賢そうな顔してたからな。どっかの街で上手くやってんだろ」
宿主は肩をすくめ、皿を拭く手を早めた。
(……嘘。目線が泳ぎすぎ)
ノーラは内心でため息をついた。
「村長さんには、あとでご挨拶に伺います。ギルドの仕事ですから」
「ああ、村の一番奥の大きい家だ。あんたらのことは、もう話は通ってる、昨夜のうちにね」
フレアリスが意味ありげに呟くと、宿主は聞こえなかったふりをして奥へ引っ込んでいった。
朝食を済ませた一行は、装備を整え、村のメインストリートを抜けていく。
通り沿いの家々からは、相変わらず冷たい視線がのぞいていた。
畑はところどころ耕されたまま手が止まり、家畜小屋の前には、古びた柵だけが寂しく立っている。
「……働き手が、いなくなった村って感じだね」
ソルトが小声で言う。
「夜逃げしたにしては、畑が中途半端だ。
途中で手を止めさせられたって空気だな」
ジンジャーは周囲の足跡や、道端に残る荷車の轍を眺めながら、低く呟いた。
その時だった。
村の外れ、やや立派な造りの家の前で、声がした。
「――本当に、これで村の借金が全部帳消しになるんだな?」
「ええ、もちろん。書状にもある通り。
この子一人で、砕石魔石三年分の穴埋めができますよ。立派な祝福印ですからね」
ノーラの足が、ぴたりと止まる。
家の前には、粗末だが他よりは装飾のある門扉。
そこに、旅装の男と、ずんぐりした中年の村人が向かい合っていた。
そして、その陰に――
薄い麻布のワンピースを着た、痩せた少女が立っていた。
肩までの髪は手入れが行き届いておらず、頬はこけている。それでも瞳だけは、不思議な光を宿していた。
右手の甲には、淡く光る紋様。
星のようにも、花のようにも見える、小さな印。
(……祝福印)
ノーラの脳裏に、瞬時に知識の断片が浮かぶ。
隣で、フレアリスの目も細く鋭くなった。
「あの子を、荷として谷から出すつもりですわね」
声には怒りと冷笑が入り混じっていた。
男は少女の肩を乱暴に掴み、馬車の方へ引きずろうとする。
少女は唇を噛み、何も言わずに耐えていた。
ジンジャーが半歩、前に出ようとする。
ノーラはその腕をさっと掴んで止めた。
「……まだ。ここはギルドの依頼に乗せる」
そう囁きながら、ノーラはにっこりと、いつもの商人の笑みを浮かべた。
「おはようございます、村長さん。
――砕石魔石の件で、ギルドから来ました。少し、お話を伺ってもよろしくて?」
その声はあくまで穏やかで、琥珀の瞳だけが、村の闇と貴族と商人の腹を、これでもかと値踏みしていた。
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