22~忘れ谷の寒村到着
山あいの空は、さっきまでの青さが嘘のように色を失っていた。
低く垂れ込めた雲は鉛色に重く、やがてひとすじ、ふたすじと細い雨粒が落ちてくる。
「……あ、降ってきましたね」
ソルトが額に当たった冷たい滴をぬぐった瞬間、空が一気に暗くなった。
次の瞬間には、ざぁっと容赦ない雨脚に変わっていく。
「最悪のタイミングですわね……!」
フレアリスは濡れた地面を器用に踏み分けながら、不満たっぷりに顔をしかめた。
絹のマントにはすでに水滴が点々と付いている。
「山の天気は変わりやすいって言ったろ」
ジンジャーは肩で雨を受けながら、視線だけ前方の谷に向ける。
霧の向こうに、かすかに木柵の影が見え始めていた。
ノーラは油引きの上着のフードを目深にかぶり直し、ため息をつく。
「……装備の防水は万全だけど、気分までは防げないのよね」
「足元、気をつけて。ぬかるみで転んだら、今日一日中テンション落ちるから」
ミントは杖で前をつつきながら、淡々と釘を刺す。
だがその声には、いつもよりほんの少しだけ疲労が滲んでいた。
ぬかるんだ土道を抜け、ようやく視界に村の入口が現れた。
粗末な丸太を組んだだけの外柵。
雨に打たれ、半分腐りかけた木の門柱には、かろうじて村の名を示す古い札がぶら下がっている。
「……忘れられた谷の、忘れられた村って感じね」
ノーラは小声でつぶやき、村の中を見渡した。
家屋はどれも低く、屋根は苔むした板葺き。
煙突から上がる煙はまばらで、人の気配も薄い。
しかし、彼らが踏み込んだ瞬間――
雨音に混じって、複数の視線が一斉にこちらに向いた。
軒先で雨宿りしていた男たちが話をやめ、ちらりと様子をうかがう。
女たちは素早く子どもを家の中へ押し込み、扉を半開きのままこちらを監視する。
(……明らかに、よそ者慣れしてない顔じゃない。何かを隠している側の目)
ノーラはそう判断しながら、表情だけは疲れた旅人のものを崩さないようにした。
「とりあえず、ギルド依頼通り村の様子の確認……ね。まずは宿」
ソルトがうなずき、村の中央に建つ三階建ての建物を指さす。
他の家よりわずかに大きな、酒場兼宿屋。窓から漏れる灯りが、雨の帳の中でぼんやりと明滅していた。
扉を押し開けると、むっとした木と酒と湿気の匂いが鼻を打った。
薄暗い空間に、丸テーブルがいくつか並び、壁際には村の男たちが数人固まっている。
彼らはノーラたち五人の姿を見るなり、わずかに話のトーンを落とした。
(武装した冒険者五人。歓迎ムードからは程遠いわね)
ノーラはそう思いながらも、何事もない顔でカウンターへ向かう。
その背後で、フレアリスは濡れた裾を不満そうに摘まみ上げていた。
カウンターには、無精ひげを生やした男が肘をついて立っていた。
彼は面倒臭そうにこちらを一瞥し、短く言う。
「随分と、遠くから来たようだな。……大雨でまた運の悪い日だ」
ジンジャーが眉をひそめる。
ソルトが一歩前に出かけ――ノーラがそれを手で制した。
(こっちから依頼の話を切り出すのは、まだ早い)
「旅の途中で雨にやられただけよ。ひと晩、屋根と寝床と、できれば湯があれば十分」
ノーラは穏やかに言う。
宿主は彼女の濡れたローブ、フレアリスの上等なマント、ジンジャーたちの武具を順番に値踏みするように眺めた。
「部屋は二つ空いてる。一つは六畳、もう一つは八畳。
羽毛布団と毛布二枚ずつ。風呂は一階の共用、薪代は別。……朝飯は、まぁ付けてやる」
「十分ね。で、おいくら?」
「一晩20コル。風呂は薪代込みで一組10枚追加だ」
「ふむ……」
ノーラがわざと微妙な顔をする。
宿主の目が、じっと彼女の懐事情を探るように細くなる。
その横で、フレアリスが扇子をすっと開き、涼しい顔で口を挟んだ。
「この宿屋で一番良い部屋を、二つともお願いするわ。
高貴なるわたくしと配下たちが、野宿のまま凍死するわけにはいきませんもの」
「ちょっと、誰が配下よ」
「一番良い部屋だと、2フローだが払えるんですかい?」
ノーラがぼそっと突っ込む間に、フレアリスは財布から銀貨を出し音を立ててカウンターに置いた。
「二部屋分で4フロー、風呂込みで1フロー追加。合わせて5フロー……これで間に合いますわね?」
銀貨が置かれた途端、宿主の態度が目に見えて変わる。
「へい、毎度……! こりゃあ失礼しました、お嬢さん方。
雨の中ようこそ、こんな辺鄙な村へ。部屋の準備を急ぎますんでな!」
「現金なものですわね……」
フレアリスがぼそりと呟く。
ノーラはその横で、じとっとした目を向けた。
「……今の、完全に金を見て手のひら返しってやつよね。人間観察の教材としては優秀だけど」
「金と権威の前ではひれ伏す、それが庶民の性ですわ。ああ、ルクレール家の名が健在なら、今頃あの男も床に額をこすりつけていたでしょうに」
ミントが小声で「そういう物言いが庶民の警戒を買うんだと思う」と呟き、ソルトが苦笑いする。
「部屋割りどうします? 男女で分けます?」
「当然ですわ。女性陣は広い部屋、男どもは狭い方。これが文明社会の最低限の礼儀ですわ」
「ちょっと待ってフレアリス、今それ決めたでしょ」
ノーラはあきれながらも、宿主に向き直る。
「じゃあ、八畳の方を女三人、六畳を男二人。……それで」
「へいへい。……おい、誰か客室の準備だ!」
宿主が声を張り上げると、奥から年若い娘が慌てた様子で出てきて、タオルと鍵を抱えて階段の方に消えていった。その顔にもまた、一瞬で消える怯えの影があった。
(……この村の運の悪さが、ただの天候の話だとは思えないわね)
ノーラは心の中でそう呟きながら、差し出された鍵を受け取った。
案内された三階の八畳間は、質素ではあるが清潔だった。
壁は粗い木板、床には薄い絨毯。小さな暖炉と、窓際には簡素なテーブルと椅子。ベッドは二つ――ひとつは二人でも寝られそうな広さだ。
「ふぅ……とりあえず、雨風をしのげるだけで上等ね」
ノーラは油引きの上着を脱ぎ、テーブルの上に広げた。
黒のロング丈のキュロットスカートは、雨で足にぴったり張りついている。
「……見るからに寒そうですわね。風邪をひかれても面倒ですし、早く着替えなさいな」
「言われなくてもそのつもりよ」
ノーラはさっさとベルトを外し、濡れたキュロットを脱ぎ捨てると、備え付けの椅子の背にバサリとかけた。下着姿のまま、暖炉の前で火起こしの準備を始める。
「……んまぁっ!」
遅れて部屋に入ってきたフレアリスが、盛大な声を上げた。
「な、なんですのそのはしたない格好は!?
ここは浴場でも更衣室でもありませんわよ!?」
「服が乾かないと困るでしょ。女同士なんだから別にいいじゃない」
「大アリですわ!」
フレアリスは扇子をパタンと閉じ、仁王立ちになる。
「高貴なるレディは、人前で下着姿など晒しませんの。
例え相手が同性であろうと、ですわ。……まさか普段からそんな格好で湖や川で水浴びを?」
「してるけど?」
「即答ですのね!?」
ノーラは暖炉に拾ってきた松ぼっくりと枝を組みながら、肩をすくめる。
「人目のなさそうなところは選んでるってば。冒険者なんて、みんなそんなもんよ」
「それは男の冒険者の場合ですわ!
はぁ……もう、文化レベルの差を感じて眩暈がしますわね。仕方ありません、センスの塊たるこのわたくしの予備の着替えを貸して差し上げますわ」
「ありがと。でも正直、サイズ合わなそう」
「サイズのことを言うのは禁止ですわ。精神に来ます」
フレアリスはややむくれ顔で自分のトランクを開き、予備のワンピースを取り出した。
ノーラはそれを受け取りつつ、ふと尋ねる。
「そういえばさ。さっき、当然のように女三人で広い方の部屋って決めたけど?」
「当然ですわ。高貴なるルクレール家の末裔たるこのわたくしが、狭い部屋で男どもと肩を寄せ合って寝るなど有り得ませんもの」
「男どもって言うけど、ジンジャーはともかくソルトは?」
「ソルトは男どもですわ。さっきから村娘の視線に微妙に緊張してましたわよ。あれは放っておくと変な誤解を生みますわ」
「変な観察力だけは鋭いのよね、あんた」
ノーラは半笑いになりながら、暖炉に火を灯した。
ぱちぱちと木がはぜ、じわじわと部屋に暖かさが広がっていく。
「……で、ノーラ」
フレアリスが、ふと真面目な声色になる。
窓の外の雨音を背に、こちらを振り向いた。
「さっき宿の主が言ってましたわね。今日は運の悪い日だって」
「聞いてた?」
「ええ。ああいう時の声は、妙に耳に残りますのよ。
マットンとかいう行商人も、この村の空気を妙に警戒していましたし……」
フレアリスの視線が窓の外へと流れる。
闇と雨に滲む村の光は少なく、どこか沈んだ色をしていた。
「この村、ただの貧しい寒村じゃありませんわね」
「でしょうね」
ノーラは火の揺らめきを見つめたまま、静かに答える。
「砕石魔石の採掘、妙な貴族、いなくなった若い労働者。
ギルド依頼:状況確認って、だいたいロクな状況じゃないもの」
「……魔女狩りの頃と、何も変わっていないのかもしれませんわね」
フレアリスの口元が、かすかに引き結ばれる。
「支配する側が形を変えただけで、搾取される側はずっと同じ。
だからこそ――私は、いつか変えてみせますわ」
「世界を?」
「ええ。魔女も民も、ただ踏みにじられるだけではない世界に、ですわ」
ノーラは一瞬だけ黙り込み、それから小さく笑った。
「……じゃあ、その世界を作るまで。私はその財布事情を見守ってあげるわ。
ちゃんと帳簿が黒字になるようにね」
「頼もしい金の亡者ですこと」
フレアリスの口元にも、ようやくいつもの高飛車な笑みが戻る。
外では、雨がまだ冷たく降り続いていた。
忘れ谷の寒村に渦巻く気配は、静かだがたしかに重く、二人の胸のどこかをざらりと撫でていく。
それでも、暖炉の火と、乾き始めた服の温もりだけは――
束の間の安らぎとして、彼女たちの背を支えていた。
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