21~甘い香りの温厚魔獣
忘れ忘れ谷へと続く獣道は、しだいに森の色を濃くしていった。
針葉樹が増え、頭上を覆う枝葉の隙間からこぼれる光は細くなる。さっき別れた行商人マットンの荷車の軋みも、もう聞こえない。
「……なんか、お腹すいてきましたね」
ソルトがぽつりとつぶやいた。
まだ昼前だが、なぜか甘い匂いが鼻先をくすぐる。
「さっき干し肉つまんだばっかりじゃない。成長期?」
「いや、そういうのじゃなくて……なんか、こう……焼き立てのパンみたいな……」
言われてみれば、ほんのりとした甘さと香ばしさが混じった匂いが、森の奥から流れてくる。バターと砂糖、表面のカリカリとした焼き目――そういうものを思い出させる香りだ。
「……パンの匂いなんて、する?」
ノーラが眉をひそめたちょうどその時だった。
「――いましたわ!」
先頭を歩いていたフレアリスが、突然ぴたりと立ち止まる。
指し示す先、低い茂みの向こう。
そこには――丸くてふかふかした、奇妙な生き物が三匹、寄り添うように眠っていた。
羊のような形をしている。だが体毛はふつうの羊毛ではなく、全身がメロンパンの格子模様になっていた。こんがりきつね色の表面に、うっすらと砂糖を振りかけたような光沢。耳はちょこんと小さく、角も申し訳程度。
丸まって寝ている姿は、ちぎって食べたくなるほどに柔らかそうだ。
そして――ふわり、と甘い香りが辺りに広がる。
「……うわ、本当にパンの匂いだ……」
ソルトが素直に感嘆の声を漏らした。
「メロンパン羊……?」
ミントが眠そうな目をさらに細める。
ノーラは一歩前に出て、目を細めた。
「メメロン、ね。文献で名前だけは見たことがある。温厚で、草食で、人にもあまり害はないっていう――」
「魔物ですわね?」
フレアリスの一言は、いつも通り容赦がない。
「一応、魔物ではあるけど……」
「ならば先制こそ最善策! 森の安全はこの高貴なるわたくしが――」
「いや、待っ――」
ソルトの制止は、フレアリスの詠唱の方が速かった。
「――導火せよ、《フレイム・シュート》!」
指先から放たれた火球が、寝ているメメロンのすぐ横、地面を抉るように爆ぜる。
乾いた枯れ葉が燃え上がり、小さな火の輪がぱっと広がった。
「キュッ!? キュキュッ!?」
驚いたメメロンたちが一斉に飛び起きる。
丸い胴体がポヨンと揺れ、小さな蹄がバタバタと地面を蹴った。
「ちょっ、何してるのよ!!」
ノーラは叫ぶなり、無詠唱で水球を叩きつける。
燃え広がる前に、枯れ葉に水が広がり、「ジュウッ」と嫌な音を立てて火が消えた。
「ソルト、火元はもう消した! 他に延焼しそうなところは?」
「右側の低木です! ノーラさん、そこだけもう一回!」
「了解!」
的確な指示に従い、ノーラはピンポイントで水を撃ち込む。
冷水がほとばしり、火の気はあっという間に鎮火した。
「何ですの、その慌てようは。小さな火じゃないですの」
「森火事になったら依頼どころじゃなくなるでしょ!?」
ノーラが怒鳴り返したその瞬間――ふわり、と香りが変わった。
さっきまでの「パン屋の前を通りかかった時」のような優しい匂いではない。
甘さが濃くなり、鼻腔をくすぐり、頭の芯までじわじわと染み込んでくるような香り。
メメロンたちが、ぷるぷると震えながらこちらを睨んでいた。
丸い目は潤んでいるが、怒っているらしい。背を丸め、フウフウと鼻息を鳴らしている。
「……メロンの、匂い……」
ミントがぽやん、とした表情になった。
「メロンの香気だ……!」
ソルトが顔をしかめる。
甘い香りが、風に乗って一行を包み込む。
鼻から入るだけでなく、肌から染み込んでくるような感覚。
ジンジャーが一瞬、ふらりと足元をよろめかせた。
「……なんか急に、肩の力が抜けて……」
「これは、集中力を削ぐ香りですわね……ふ、ふふ……なんだか……優雅なお茶会のテラスでメロンパンと紅茶が欲しくなってきましたわ……」
「ダメよ、それ本格的に効いてる」
ノーラ自身も、頭の芯がぼんやりとしてきた。
意識が甘い香りに引きずられ、思考の輪郭が丸くなっていく。
(……くそ、これが温厚な魔物のやり方ってわけね)
メメロンたちは「キュキュ、キュー!」と鳴きながら、小さく足踏みをしている。
一匹が地面をコツコツと前足で掻くと、他の二匹も同じ動作を始めた。怒っている――と言うより、「これ以上近づくな」と警告しているようだった。
「ノーラさん! 深呼吸して、口から息、鼻から最小限! あんまり嗅がないで!」
ソルトの声が、どこか遠くから聞こえる。
「メメロンの香気、長時間吸うと判断力が鈍くなって、戦闘で致命的になります! でも基本は温厚な草食動物だから――攻撃をやめて、謝れば、怒りは収まるはずです!」
「じゃあ最初に火を撃った、そこの高貴なポンコツが謝るべきよね……」
「誰がポンコツですって……? わたくしは――」
「フレアリスさん喋らなくていいから、まず一回下がって!」
ソルトは思わず珍しく語気を強めた。
その様子にメメロンたちがびくりと反応し、一匹が「キュウッ!」と鳴いて、突進の構えを見せる。
「やば……!」
ジンジャーが前に出ようとしたが、ソルトが手を上げて制した。
「下がってくださいジンジャーさん。この子たち、興奮させない方がいいです!」
そう言うと、ソルトは慎重に一歩、また一歩と前に出る。
手は空っぽで武器も構えず、ゆっくりと掌を見せるように広げる。
「キュー……?」
先頭のメメロンが、首をかしげた。
「……こんにちは。さっきは、ごめんね」
ソルトはできるだけ低く、柔らかい声で言った。
背中にじっとりと汗がにじむのを感じる。
「ぼくたちは、君たちの縄張りがどこか知らなくて、近づきすぎちゃったんだ。
火を撃ったのも――その……あの人が、ちょっとバカだっただけで……」
「誰がバカですって!?」
「フレアリス、黙って」
ノーラとミントの声が見事に重なった。
メメロンたちは「キュ……?」と、わずかに香りの濃度を弱める。
ソルトは、ゆっくりと腰のポーチから、干した野草の束を取り出した。
苦味の少ない、家畜用の牧草だ。
「ねぇ、これ知ってる? 山の向こうで、君たちの仲間が好きだって言ってた草だよ」
干し草を地面にそっと置き、ソルトはさらに一歩下がる。
鼻先をひくひくさせながら、先頭のメメロンが恐る恐る近づいた。
ぺろり。
一束を一口かじる。
「……キュ?」
どうやら気に入ったらしい。
メメロンの目が丸くなり、つぎの瞬間「キュキュー!」と嬉しそうに鳴いた。
それを見た他の二匹も、もぞもぞと前に出て草をかじる。
甘いパンの匂いに、干し草の青い香りが混じり合った。
香気の濃さが、ゆっくりと薄まっていく。
「ふぅ……効いてきた」
ノーラは額の汗をぬぐい、大きく息を吐いた。
「ソルト、メメロンのなだめ方に妙に慣れてない?」
「本で読んだんです。『メメロンは驚かせたり毛を焦がしたりすると怒るが、謝罪と好物を示せばすぐに機嫌を直す』って。
あと――怒ってる時に頭を撫でると、逆効果なんですよ。耳の後ろとか顎の下が、正解です」
言いながら、ソルトは恐る恐る先頭のメメロンの耳の後ろを撫でてみた。
ふにっ。
驚くほど柔らかい感触が指先を包む。
メメロンは目を細め、「キュウゥ……」と喉を鳴らした。
「……かわいい」
ミントがぽつりと漏らす。
「でしょ」
ソルトは小さく笑い、他の二匹にも同じように手を伸ばした。
メメロンたちは完全に機嫌を直したらしく、「キュキュー」と鳴きながら、順番にソルトの手に頭をこすりつける。
「ほら、もう大丈夫だから。こっちもこれ以上近づかないし、君たちも森の奥でゆっくり昼寝しなよ」
ソルトが手をふると、メメロンたちは名残惜しそうに干し草の残りをかじり、それから森の奥へととことこ歩いていった。
丸いお尻が、揺れるたびにメロンパンの模様をぷるぷる震わせる。
その後ろ姿が見えなくなったところで――ようやく、一行は大きな息を吐いた。
「はぁぁ……心臓に悪い」
ジンジャーが胸を押さえる。
「フレアリス。温厚な魔物には、まず観察と情報共有って習わなかった?」
ノーラはじと目でフレアリスを見た。
「ぐぬぬ……魔物は魔物ですわ。油断は禁物でしょう?
それに、パンの匂いをさせるなんて反則ですわ。お腹が空いて冷静な判断が――」
「言い訳の方向おかしくない?」
ミントがため息をつく。
「でもまぁ……」
ノーラはソルトの肩を軽く叩いた。
「ナイスフォロー。あんたがいなかったら、甘い香りに包まれながらメメロンに体当たりされて、谷底まで転げ落ちてたかもね」
「い、いやぁ……たまたま本で読んでただけですよ」
ソルトは照れくさそうに笑う。
「本を読んで実践できる、ってのは立派な才能よ。
……それに、あの子たち、毛並みが焦げたら本気で恨んできそうだったし。無駄な敵は作らないに越したことない」
「次同じことしたら、フレアリスの寝起きに水ぶっかけるからね」
ミントがさらりと言い放つと、フレアリスはビクッと肩を震わせた。
「な、なんて野蛮な脅迫……! わたくしの繊細なお肌が冷水で――」
「その前に森が火事になったら、繊細なお肌どころじゃないのよ」
ノーラは呆れつつも、口元だけはほんの少し緩んでいた。
さっきまで甘い香りに満ちていた空気は、いつの間にか普通の森の匂いに戻っている。
少し湿った土と、苔と、針葉樹の青い匂い。
「……メロンパン、食べたくなってきましたわね」
「同感だけど、我慢しなさい。忘れ谷の寒村に、まともなパン屋があるかどうかも怪しいけど」
冗談を交わしながら、一行は再び歩き出す。
メメロンたちが消えていった森の奥からは、遠くかすかに「キュー」という鳴き声が聞こえた。
忘れ谷は、ただの寂れた土地ではない。
そこに住まうものも、人も、まだ見ぬ出来事も――甘くて、少しだけ危険な匂いをまとって、彼らを待っているようだった
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