18~紅蓮の女王、やむなくバイトをする
夕暮れどきのジルコールは、昼間とはまた違った匂いで満ちている。
香草を焼く匂い、油で揚げた魚の香り、スープに煮込まれた骨付き肉の匂い――
庶民の暮らしの底から立ち上る、温かくて、少しばかり騒々しい匂いだ。
石畳の通りを、長い金髪を揺らしながら一人の少女が歩いていた。
「ふふ……この街の良いところは、庶民ですら食の尊さだけは理解しているところですわね」
フレアリス=ヴァン=ルクレール。
赤と黒を基調にしたドレスの上には、いつものクロスケット。
昼間のギルド講習で「火魔法は隊長の許可制」となり、若干むしゃくしゃしているが――
それと食欲はまったく別問題だった。
「講習だの規約だの、ああいう灰色の時間のあとには、
舌と心を潤す高貴なる晩餐が必要ですのよ。
ルクレール家の血は、粗雑な麦粥では満たされませんわ」
そう言いつつ足を止めたのは、冒険者御用達の大衆食堂だった。
木の看板には《山鳥亭》と彫られている。
窓から漏れる灯りと笑い声が、道行く者を誘っていた。
「ここですわね……以前から噂は聞いていましたわ。肉の焼き方が絶妙と。
庶民の味の限界というもの、高貴なるわたくしが査定して差し上げますわ」
鼻高々に扉を押し開ける。
店内は、仕事終わりの冒険者や鉱夫たちで賑わっていた。
樽から注がれる麦酒の匂い、焼き台で跳ねる脂の音。
木製のテーブルが並び、その間を店主と若いウェイトレスが忙しなく行き交っている。
「いらっしゃ――あ、フレアリスさん」
店主の中年男が、少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
ギルド周りで“残念な美人の魔女”として有名な彼女のことは、もちろん知っている。
「席は空いてますよ。奥の窓際どうです?」
「ええ、ありがたく使わせてあげますわ。
今宵、この店の格は、わたくしの舌によって一段上がるのですから」
フレアリスは上機嫌で椅子に腰を下ろし、メニュー表を開いた。
目がすばやく料理名を走り抜け、ぴたりと止まる。
「香草焼き山鳥の丸ごとプレート、砕石鍋風ミネストローネ、白豆とベーコンのオーブン焼き、チーズ盛り合わせ……
ふむ、庶民の店にしてはなかなか悪くありませんわね。
――すみませんそこの店主! このあたり、一通り全部いただきますわ!」
「全部!?」
近くの席の冒険者たちがぎょっと振り向く。
「さ、さすがに量が多いですよ、お嬢ちゃん。一人じゃ食べきれ――」
「心配無用ですわ。ルクレール家の食卓は、もっと豪勢でしたもの。
これくらい前菜と言っても差し支えありませんわ」
店主は半ば呆れ、半ば感心しながら厨房へと戻った。
それからしばし。
香ばしい山鳥の皮がパリパリと音を立て、ナイフが入るたび肉汁が溢れ出す。
砕石鍋を模した鉄鍋の中で、根菜と豆と肉がとろりと煮え、香草の香りが立ち上る。
ハーブ入りのパンに、溶けかけのチーズをたっぷり乗せて――。
「……っ、これは……!」
フレアリスの瞳が、素で輝いた。
「山鳥の皮目の焼き加減、完璧。
香草はきちんと肉と馴染むよう下味の段階で揉み込んでありますわね。
砕石鍋の方も、根菜にきちんと二度火を入れて甘みを引き出している……
庶民にしては、いえ、これはもはや庶民レベルを越えていますわ!」
ナイフとフォークが止まらない。
ソースをパンでぬぐい、肉を頬張り、スープを飲み干す。
「ふぅ……見事ですわ。《山鳥亭》、わたくしの中で庶民店上位ランクに認定して差し上げます――では、そろそろ会計を」
フレアリスは優雅にクロスケットの内ポケットへと手を伸ばし――固まった。
(……あら?)
予感が、脳裏をかすめる。
(――今日、服、着替えましたわね)
ギルド講習に出る前、煤で汚れた冒険服から、お気に入りの外出用ドレスへ。
その過程で。
財布の入ったポーチを――すっかり、別の上着に置きっぱなしにしてきた。
「…………」
フレアリスの笑顔が、かすかにひきつる。
店主がちょうど皿を下げに来たところだった。
「お味はいかがでした?」
「最高でしたわ。文句なく、ですわ。
――ところで、その、会計の方なのですけれども」
「ええと、山鳥丸ごとが銀貨3フロー、砕石鍋と白豆オーブンで2フロー、チーズ盛り合わせで1フロー、飲み物入れて……合計6フローになりますね」
「6フロー……なるほど、破格ですわ。量と質を考えれば妥当、いえむしろ良心的。
で、その……ですわね……」
ここで黙るのは、ルクレール家の誇りとして許されない。
フレアリスはぐっと胸を張った。
「……手元に、1フローもありませんの」
「は?」
店主の笑顔から、色がすっと消えた。
「いやいやいや、あんた、さすがにそれは――」
「誤解なさらないで? わたくし決して無銭飲食などという下賤な真似をするつもりはございませんのよ?ただ、その……本日は上着を替えた事情がありまして。財布は、わたくしの部屋に」
「……ツケでもいいよ」
「ルクレール家は代々、借金の名義というものを何より嫌いますの。払えぬなら、その場で何かしらの対価を――」
店主は頭を抱えた。
「じゃあ皿洗いでも――」
「それは嫌ですわ」
「即答!?」
「この繊細な手は、炎と料理と扇子のためだけに使うもの。
油まみれの皿洗いで荒らすわけにはいきませんわ」
「じゃあ……厨房で手伝って――」
「それも却下ですわ。庶民の厨房は狭すぎますの。わたくしの真の実力を発揮できませんわ」
(この子、ダメだ……!)
店主は深くため息をつき、考えた末、顔を上げた。
「……分かった。じゃあ、客引きとウェイトレスをやってもらおう。
今夜は混みそうだし、手が足りない。人手代として、6フロー分働いてもらう。それでどうだ?」
フレアリスは目を瞬かせた。
「客引きと……ウェイトレス?」
「店の顔ってやつだ。あんた顔はいいし、声もよく通るしな」
しばしの沈黙。
やがて、フレアリスの口元がにやりと吊り上がった。
「よろしいですわ。その役目、引き受けて差し上げます。
この高貴なるわたくしが店先に立てば、客などいくらでも――」
(いやな予感しかしない)
店主は心の中で頭を抱えた。
「さぁさぁ庶民ども! 今日の夕餉は、そこの寂れた屋台ではなく、こちらの《山鳥亭》に決まりですわよ!」
日がすっかり落ちた通り。
店の前に立ったフレアリスは、胸を張り、扇子を広げて高らかに宣言した。
「ここで食べれば、あなた方のような俗物の舌でも、一晩だけは貴族の食卓を疑似体験できるのですもの! なんと幸運な庶民でしょう! さぁ、感謝しながら入店なさいな!」
通りすがりの人々が、ぴたりと足を止め……そして、そろって引き返した。
「……今、客、減ってない?」
近くの屋台の親父がぼそっと呟く。
「庶民どもって言われた瞬間、なんか急に行きたくなくなるんだよな……」
「言ってる内容は悪くないのになぁ……」
店主はこめかみを押さえながら、半泣きになっていた。
「お、お嬢ちゃん! 客に庶民どもはやめよう、お客様って言って!」
「え? なぜですの? 事実を述べているだけですのに」
「事実でも言っちゃいけないことがこの世にはあるんだよ!!」
結局、客引きは早々に諦めさせられ、フレアリスは店内のウェイトレス業務に回された。
店主は不安な面持ちで、フレアリスの様子を眺めていた。
「ではご注文を伺いますわ。
あなたのような疲れた顔には、この香草焼き山鳥がよろしいでしょうね。
本当はもっと上等なソースが似合いますけれど、あなたの財布事情ではこれが精一杯。残念ですわね」
「え、えっと……俺、ただの煮込みスープでいいんだけど……」
「ダメですわ。わたくしの美学に反しますの」
「いや、こっちの懐事情を優先してくれよ!?」
別のテーブルでは――
「そちらのご婦人。そのドレスの色合いですと、白豆とベーコンのオーブン焼きは少々重たすぎますわ。もう少し控えめな皿にしておかないと、後で後悔なさいますわよ? 鏡を見るたびに」
「そ、それは……じゃあ……」
「香草焼き山鳥をお勧めしますわ。追加で砕石鍋スープもどうぞ。
いえ、これはわたくしの善意ですのよ?」
「なんか売りつけられてない?」
店主はますます青ざめていく。
「お、お嬢ちゃん、客の注文勝手に変えないで! あと余計な一言を減らして!」
「ですから、わたくしは善意で――」
「善意が刃物みたいになってんだよ!!」
店の空気は、妙な緊張と笑いに包まれていった。
そんな騒ぎのさなか。
扉の鈴がちりんと鳴り、小柄なフード姿の少女が入ってきた。
「……なんか、店の中の空気が騒がしいわね」
たまたまノーラは用事があり、この店
彼女は一歩踏み込み、店内の様子を一望し、すぐに状況を察した。
客のテーブルから飛び交う「庶民」「残念」「財布事情」という単語。
店主のこめかみに浮かぶ青筋。
そして――エプロンをつけたまま、妙に優雅な姿勢でトレイを持つ金髪の魔女。
「……フレアリス?」
「はっ!?」
フレアリスがびくっと振り返る。
「な、なぜここに……!」
「こっちの台詞よ。
で、その格好は何? 新しい趣味?」
店主が半泣きでノーラに駆け寄った。
「ノーラさん……! 助かった……!
聞いてくれよ、今日に限って“財布を忘れた高飛車魔女”が来ちまって、働いて返すっていうから客引きとウェイトレスをさせたら、この有様で――!」
「説明の順番が雑よ」
ノーラはこめかみを押さえ、フレアリスに向き直る。
「……つまり、こういうこと?」
「少しばかり、会計に必要な小銭を所持していなかっただけですわ。
ですので、わたくしの尊い労働力で対価を――」
「尊いかどうかはともかく、店にとっての実害は出てるわ」
ノーラはため息をつき、腰の小袋を叩いた。
「いくら?」
「6フローだ。いや、もういい……半分は働いてくれたってことで――」
「いいえ、きっちり払うわ。
損してまで貸しを作るのは、商売人として一番やっちゃいけないことだからね」
ノーラは銀貨を6枚、カウンターに並べた。
「これでチャラ。料理の代金は私が立て替える」
フレアリスが目を丸くする。
「なっ……そんな、屈辱的な――!」
「拒否権はないわ。
――その代わり、そうね」
ノーラはにやりと笑い、フレアリスの方へ一歩近づく。
「さっきギルドで決まったばかりだけど、
依頼中の中級以上の火魔法は隊長の許可制――覚えてるわよね?」
「うっ……!」
「今、私はあなたの夕食代を払った。つまり、貸しが一つできた。
これから先、ここぞという時にあなたの火力を使わせてもらう権利――
それを、銀貨6枚で買ったと思えば悪くない投資よ」
フレアリスの頬がかあっと赤くなる。
「か、火力を、権利として売買なさるおつもり!?
ルクレール家の炎は、銀貨6枚などで――」
「じゃあ返す?」
ノーラは銀貨の一枚をひょいと摘まみ上げた。
「今すぐ家まで走って財布取ってきて、ここまで戻って、店主にさっきの会計をやり直してくださいって土下座するなら、それでもいいわよ」
沈黙。
店内の客たちが、固唾を飲んで見守っている。
やがてフレアリスは、ぎりぎりと奥歯を噛みしめ――扇子をぱんと閉じた。
「……認めますわ。
今日のところは、ノーラに借りができたと」
「今日のところはね」
ノーラは満足げに頷いた。
「代わりに。
いざ本当に危ない時には、遠慮なく撃ちなさい。
その時の相談料は――今回の6フローで前払いってことで」
「……っ」
フレアリスは顔を背けたまま、小さく呟いた。
「……庶民のくせに、回し方だけは巧妙ですわね……。
いいでしょう。わたくしの炎で、あなたの商売に華を添えて差し上げますわ」
「それでこそ。
――じゃ、店主。もうフレアリスを働かせなくていいから。
その代わり、次に来るときは紹介割引くらいつけてね」
店主は心底ほっとした顔で頷いた。
「もちろんだとも。ノーラさんにはいつも世話になってるしな。
フレアリス嬢、皿洗いじゃなくて済んでよかったな」
「……わたくしに、皿洗いなんて似合いませんもの」
フレアリスはふいっと横を向きつつも、どこか安堵したように胸を撫で下ろした。
ノーラはそんな彼女を横目に見ながら、カウンター席に腰を下ろす。
「ところで、さっき食べてた山鳥。そんなに美味しかったの?」
「ええ、最高でしたわ。
……少しだけ、ルクレール家のレシピを思い出しましたわね」
その一言に、ノーラは興味深そうに眉を上げた。
「ふぅん。
じゃあ、今度野営するとき――
あなたの百五段工程の野営料理術とやら、じっくり見せてもらうとしましょうか」
「望むところですわ。その時こそあなた方庶民は、真の高貴なる食卓というものを知ることになりますのよ!」
店内の客たちから、クスクスと笑いが漏れる。
ジルコールの夜は、強欲な魔女とポンコツ貴族のおかげで、
いつもより少しだけ賑やかで、少しだけ温かかった。
閲覧いただきありがとうございます。




