灼夏の定型は目に浸み込む雫のように
蝉の声が、灼けたアスファルトを削る鋸のようだ。聴覚から直接、脳の表層を苛むその音は、世間が合意形成した『夏』という名の巨大な感情パッケージに含まれていない。パッケージの中身は常に清涼で、感傷的で、消費に適した形に整えられている。肌にまとわりつく湿気、思考を鈍らせる熱波、冷房の低く唸る強迫観念。そういったありのままの生理的現実を、人々は巧みに無視する。
炎昼は私たちを蝕んでいく。創られ崩れる円柱はただ君達を磔する無機物とは別なのだから。
入道雲、向日葵、ラムネ瓶のビー玉、線香花火の儚さ。あるいは、汗を光らせて笑う横顔と、その先に広がる青い海。メディアと商業主義が幾度となく反芻し、大衆の網膜に焼き付けたそれらのイメージは、一つの約束された記号と変わらない。私達はその記号を目にするたび、ノスタルジアという名のパブロフの犬になることを強いられる。
感動してね、
懐かしでしょ、
――そしてその感情を共有しようね、と。
それら灼夏の定型は、ずっと私らの精神を侵食する。
それは暴力的な侵略ではない。むしろ、目に浸み込む一滴の雫に似ている。
最初は無視できるほどの違和感。睫毛に触れた、ただの水滴。だがそれは留まり、体温に温められながら、ゆっくりと眼球の縁を伝い始める。やがて視界はゆっくりと滲み、焦点がずれて戻すことができなくなる。世界が、大衆の望む感傷的な風景に歪んで見えてきてしまうのだ。蝉の声はいつしか「夏の風物詩」という空き額縁に収められ、不快な粘り気さえも「青い春の証明」という便利な言葉に変換されてしまう。
私達の抗う術は、瞬きをしないことだけだ。雫が角膜を覆い尽くす前に、現実の輪郭を、その不快なまでの鮮明さを見失わないこと。
『 ―「」 素晴らしい夏』を経験しなかった者は、まるで人生の落伍者のように扱われる。この国では、季節さえもが同調の道具となる。君達はその圧力に抵抗するために、今日も窓を閉め切り、灼熱がもたらす本質的な孤独と向き合う。誰にも理解されない、この焼け付くような焦燥だけが、君達にとっての唯一の真実なのだから。目に染みた雫が塩辛いのは、それが汗ではなく、涙ですらないからだ。それは、世界が私に強要する定型の夏そのものの味なのだ。
だから……
その雫は拭ってはいけない。
歪んで見える世界が今の真実の世界なのだから。
灼熱の中で、涙ではないその塩辛い雫に視界を灼かれながら、君は初めて、本当の世界の色を見る|— 「空き」「空き」「空き」「空き」「空き」「空き|
9月ってそういうこと