プロローグ
まず最初に足が空を踏む。
そしてミシッという音がして、首元に異物が食い込む。
元気だった喉がいきなり酸素を吸い込むことを放棄したので、脳は慌てて原因を取り除けと手足を動かす。
部屋に響くドヴォルザークの交響曲第九番は僕の声もしなる柱の音もかき消してくれている。
少しでも酸素が欲しくて口を開けば、ツツーと口の端から涎が零れた。自分の意思にそぐわない手が、首と天井の梁を繋いでいる荒縄を外そうと首元に手をかける。だけど酸素不足の筋肉は上手く動くことが出来ずに弛緩してしまって外せる気配はない。
頭に血が溜まって皮膚を押し上げ、目がとび出そうな程大きく開く。伝った涙が涎と混ざって顎から床に落ちた。頭の奥が白んできて指先がどんどん冷たくなってくる。交響曲が段々遠くの音になり、引き換えに心臓の鼓動がはっきりと伝わるようになってきた。
いける。これはいける。今度こそ死ねる。
身体中が発する悲鳴を無視して時の流れに任せる。このまま続けていけば確実に死ぬ。そう。死ぬのだ。今度こそ。
ブツン
上手く機能しなくなってきた耳に聞き覚えのない音が響いたと同時に浮遊していた体は一気に重力を感じ取った。そして衝撃。
「カッ……ハッ! カフッケホッ! ゲホッゲホッ! フゥツ……フゥッ……フゥ………………」
いきなり酸素を取り込めるようになった喉が驚いて激しく咳き込む。落下の衝撃から立ち上がることが出来ずに、何とか四つん這いの姿勢を取って噛むように酸素を取り込んで、足りなかった所に少しずつ送り出す。
しばらくの間深呼吸を続けて酸素を届ければ、安定を取り戻した身体があちこちに休んうでよいとの命令を下してしまい、何とか保っていた四つん這いも力が入らなくなって顔から床につっ伏す形になってしまった。
先程とはまた違う力の入らなさに抗うことが出来ずにそのまま意識を落として倒れる。
鳴り響いていたはずの交響曲第九番はいつの間にか終わっていた。
…………こうしてまた僕の自殺は失敗した。
「またやりやがった……このバカ……」
※※※
家族連れやカップル、スーツ姿のサラリーマンが目につく近くのファミリーレストラン。心温まる日常の光景が広がる場所の窓際に通された俺達は2人で反省会をしていた。
「なぁにが悪かったんだろ……やっぱ紐がボロなのが悪いのか……」
「家の梁が太くて紐が張ってたのと純粋に耐えきれない重さだったんだろ………ってそうじゃねぇよ! 」
「大きな声出さないのケンちゃん、他にもお客さんたくさんいるんだからさ」
気だるそうな空色の瞳をしながら俺の前に人差し指を立てるこの男。色素の薄い白金の髪は脱色ではなく天然物で、差し込んだ光を吸い込んでは吐き出しながらキラキラフワフワとしている。
凄くもみくちゃにしたい。じゃなくて。
長いまつ毛、シュッとした鼻筋に主張の薄い唇、髪と一緒で色素の薄い肌は火に透かせば骨まで見えてしまいそうなほど白く艶めいている。全体的な顔の評価は100点を超えて120点満点、初見で見れば女とも間違う程に整った容姿を持った青年。名前は一 恭。
身内贔屓を無しにしても素晴らしい容姿を持った恭は、運動こそ人並みだが頭も良い。
従兄弟である俺はそんな恭を誇りに思っている……がしかし、そんな恭が周囲の人々に溶け込む事が出来ない理由が今はとても顕著に現れていた。
首元に刻まれた赤黒い縄の跡。白い磁器の肌にいやが上にも悪目立ちするそれは明らかに人目を引いている。
「なぁ恭……せめてそれだけでも隠さねぇか……? 」
ドリンクバーで入れてきたコーラをストローでちゅるちゅると吸う恭は、今自分が何を言われているのか分からないと言った表情で小首を傾げた。
そんな仕草に呆れた俺はずいっと人差し指を突き出して恭の首筋に向ける。すると恭は指された首元に触れてあぁと納得した。
「これ目立ってる?」
「かなり」
「あちゃあ」
「さすがにマフラーは暑いよな」
「どうしても隠さなきゃダメかな」
「目立っちゃうだろ」
「ですよね」
どこか他人事に聞こえる恭とのやりとりは他人から見れば感情薄く見えることだろう。
それもそのはず、恭は今言われている跡の事になんて一切興味を持っていないし、その跡が着いた理由にしてもなんら感情を持っていない。
4年前、周辺一帯を巻き込んだ大火災に恭は両親共々巻き込まれた。
恭はその中から奇跡的に生還を果たしたのだが、両親は死亡。俺の両親である叔父夫婦に引き取られた。
だけどそれ以来恭は特異な体質と同時に理解し難い癖を身につけてしまい、恭たっての希望もあり俺との二人暮しをしている。
だが、恭が身につけた癖そのものが非常に厄介で。
「そろそろやめないか……? その癖」
「癖?」
「すぐに死のうとするところ」
「癖かな? これ」
「癖だろ。ぽんぽんぽんぽん自殺未遂しやがって」
「ウウン……でもさ、ただ死にたいだけなんだよね」
「ただ死にたいだけ……か」
「そ」
「いやわかんねぇよ」
「あれぇ?」
とぼけた声で会話を切り上げた恭がテーブルに置いてある紙ナプキンとアンケート用のボールペンを手に取って、何かをすらすらと書き始めた。真剣に手を動かす様子を暫く眺めながら口を開く。
「何書いてんだ?」
「自殺リスト」
「……は?」
「正確には今まで失敗してきたやつね」
「いやわからん」
「同じ死に方をするのはポリシーに反するからさ」
「何そのポリシー……」
「首吊りはダメ……リストカットもダメ……溺死……飛び降り……薬物……転落と飛び降りって一緒だったかな、よかったあれで死ななくて」
「聞いてねぇなお前……ていうか物騒な話するんじゃねぇよ。周りの客引いてんだろ……」
ちらりと反対側の席を見てみればぶどうジュースを入れて満足気にしていた少女が、不可解なものでも見るような顔つきでこちらの席を見ていた。
自分の右頬に引き攣りを覚えつつにこやかぁにヒラヒラと手を振ってみても彼女の表情は明るくならない。お手上げだ。
「次はどうやって死のうかなぁ」
「………恭、お前も明日から新学期だろ?」
「ん、そだっけ」
「学期初めくらい覚えてろよ…」
「ん…興味なかった」
「興味なかったってお前……」
「だってケンちゃん居ないでしょ?」
「……当たり前だろうが」
恭は俺と離れる時間を極度に嫌う。故に最初から進学も望んじゃいなかった。
叔父夫婦も金については気にするなといい、俺としても恭に楽しめるものがあって欲しいという願いを持って進学させたのだ。
しかし結果として一学期過ごさせた上での感想は
「ケンちゃんがいない場所なんて楽しくない」
と言うばかりだ。
「そうは言ってもな……学校に20過ぎた大人が生徒1人の見守りやってますって方が不審だろ」
「……」
「ほら、二学期からは楽しいことあるかもしれないだろ」
「……そうだね、家じゃできない死に方も出来そう」
「いや、そうじゃねぇだろ」
「だって他にないよね?」
恭の瞳に映る世界のグレーさに肩が落ちる。このままじゃ本当に校内で死にかねないと思わせる恭の様子に何とか高校生活を楽しませる方法をば……と頭が模索を始める。
……そしてふと、妙案を思いついた。
「……!そうだ恭!」
「ん」
「お前に死にたくない理由を作ろう!」
「……は?」
恭はストローから口を離して理解ができないものでも見るかのような表情であんぐり口を開けていた。こいつにそんな顔をされるのはちょっと納得がいかないがそれはひとまず置いておく。
「だから、死にたくない理由を作るんだよ!」
「理由も何も……僕ただ死にたいだけだし……」
「それだよ、それ!ただ死にたいだけってことはちゃんとした理由も分かってないんだろ?」
「んん……まぁ?」
「てことは死にたくないって思える何かが見つかれば、お前のその考えも変わるかもだろ」
「そう……かなぁ……?」
「そうなの。つーわけでとりあえずさ、二学期の目標は友達を作って仲良くする!なんてどうよ!?」
目の前で怪訝な表情を浮かべていた恭はそこまで聞いた所でズルズルと力をなくしていった。どんだけ嫌なんだコイツ。
「仲良くとか……ていうかそもそも仲良くの基準とは……論理的に……」
「ごちゃごちゃやかましい。めんどくせぇオタクみたいなこと言ってないで素直に聞け」
「……うへぇ」
完全にダメそうだ。どんなに見た目格好が良くなろうと所詮はまだ子供である。ここはイケメンナイスガイなお兄様がまた1つ更なる妙案を考えてやろうじゃないか。
そうだな……コイツが喜びそうなこと……。
「分かったぞ恭」
「……? 」
「お前に友達が出来たら俺のとこに連れてこい」
「………は?」
「お前が友達を連れてきたらお兄ちゃん喜ぶ」
「どうしたのケンちゃん……疲れてんの?」
やる気の失せた表情から一変してさっきよりも尚のこと酷い唖然顔を向けてくる恭に流石のお兄様も流れる汗を止められない。
流石に適当すぎたか……。
「……ただそれをしてなにか得は?」
「俺が喜ぶ。めちゃくちゃ喜ぶ」
「はぁ……」
「つまるところ俺の為になる」
「ケンちゃんの為」
「俺の為って思うならやる気出るだろ?」
「それなら…まぁ…」
あまり乗り気そうに見えないが俺の為と言えばコイツが折れることぐらい周知の上だ。
まぁ何かしらのきっかけでも無いとコイツは人との関わりなんて持とうともしないし、独特の雰囲気が故に関わろうとする人も少ないように思う。
どうにか上手いように転がってくれるといいのだが……。
「とりあえずやってみるよ。やれるだけね」
「よく言った!……ていうか首のそれ!どうすんだよ悪目立ち過ぎるだろ」
「んー、明日には治るでしょ。これくらいなら」
「……それもそうか」
特異体質。自殺癖。悪目立ちする風貌。
正直心配事をあげればキリがない。だとしても。
義理の兄である俺からしてみれば可愛い弟が同年代の友人と幸せな青春を送っている姿を見守りたいのだ。
そして出来ることなら、俺よりも大切にできる誰かを見つけて欲しいとも思っている。
きっと全てを丸く収めるにはそれが一番だから。
そろそろ帰ろうと2人揃って席を立ち上がれば、ぶどうジュースの少女だけに限らず周囲に座っている客の殆どが俺たちの席を怪訝な目で見ている。
ただでさえも人目を引く恭が自殺がなんだ死に方がどうだと騒いでいるのだ。そりゃあそんな顔もされるってもんなのかもしれないが同行人の俺としてはちと視線が痛い。
「き、きらきらぁ〜……なんちって……」
どうにかこの少女だけでも笑顔を取り戻したいと全力スマイル作戦に出る。が、結果的に少女は表情を変えることなく無言で見つめられるだけとなった。無念だ。
「……何遊んでるの? いくよケンちゃん」
「あ………はい……すんません……………」
尊厳に似た何かを傷つけながらとぼとぼと恭に続いて店を後にする。
ガラスのドアを開けた恭の首元から、少しの湿っぽさを持つ秋の風が吹き込んできた。時刻は夕暮れ、赤い陽の光が白い恭の肌を朱に染めながら反射している。澄んだ空色の瞳には一体どんな世界が広がっているんだろうか。
それを確かめるのは少し怖くて。今はとりあえず前を歩く恭について行こうと思えた。
初めまして。丸井と申します。
書き溜めにはなりますが少しずつマイペースな更新をしていこうと思いますのでよろしければ読んでいただけると幸いです。
拙い文章になりますので、誤字脱字の報告等して頂けると助かります。
どうかよろしくお願いいたします。