暗黒の淵
館の入口に近付くと腕輪が青白く光り、重そうな扉が音を立てて開く。
むせ返るようなリュウゼンコウの甘い香りが立ちこめ、ユキは息苦しさを覚えた。
ロウゲツが所持していたものよりも、ずっと香りが強い。
全員が館の中へ入ると扉が勢いよく閉まり、周囲は暗闇に包まれた。
「出でよ、鬼火」
暗がりの奥から声がして、いくつもの火の玉が出現する。
不気味な灯火に照らされて、人影が浮かび上がった。
艶めく長い黒髪。
妖しく光る大きな瞳。
ユキと同じくらいの年頃の女の子が、大きな杖を手にして立っている。
人形のように美しいその姿に見惚れながらも、ユキは恐ろしさに身が縮む思いだった。
このまま見つめ続けたら、魂まで奪われてしまいそうだ。
だけど、目を逸らすことができない。
ハヤテが前に進み出て、沈黙を破る。
「ヒカリ、『空飛ぶ種の翼』を持って来たぞ」
そう言って、ハヤテは大きな布袋を彼女の前に放り投げた。
ドサリと音を立てて落ちた袋の口が開き、半透明の翼が床にこぼれだす。
ヒカリと呼ばれた少女は、空飛ぶ種の翼には目もくれず、シグレの顔を見ている。
「お前のいるべき場所は、ここではない。島に戻って役割を果たせ」
ヒカリの冷淡な声が響き渡る。
「トコヤミにさらわれたユキの母親を探しに来た。見つけ出したら、すぐに帰る」
シグレの言葉に、ヒカリはユキの方へと視線を動かした。
「アレは、まだ人間の世界にいる。トコヤミに呑まれし者達を暗黒の淵から救い出したら、冥府の王の力を借りて封じる予定だ」
「……アレって……お母さんのこと? 妖魔の国じゃなくて人間の世界にいるの? 封じるって、どういうことよ!」
ユキは声を震わせながらも、最後は怒鳴るように言葉を投げつけた。
「お前と同じように、アレも妖魔を惹きつける力を持っている。それも、お前などよりずっと強大な力だ。アレの体が重い病に蝕まれ始めた頃から力が覚醒し、暗黒の淵からトコヤミを呼び寄せてしまった」
「お母さんをアレって呼ばないで! それに、お母さんは病気になんて罹ってない!」
「お前が知らないだけだ。アレの命の灯火は、今にも消えようとしている。暗黒の淵の奥底に蠢く邪悪な妖魔どもは、トコヤミを媒介にして半妖や妖魔から妖力を集め、アレの肉体を出入口にして人間界を侵食しようとしている」
話を聞いているうちに、ユキは混乱してきた。
ヒカリは鋭い視線でユキの目を射抜くと、冷ややかな声で告げた。
「トコヤミは、お前の母親の肉体を通じて人間界に出入りし、村人達を呑み込んだ。アレはもう、人間ではない。邪悪な妖魔どもの僕であり、道具であり、人間の世界への扉だ」
信じられない話を聞かされて呆然とするユキに、ヒカリは淡々とした口調で話を続ける。
「今、シグレの父親が村の周囲に結界を張り、アレを押さえつけている。暗黒の淵の底では、妖魔の長が精鋭を率いて邪悪な妖魔達と死闘を繰り広げている。仲間の妖魔と人間達を救い出した後、冥府の王の力を借りてアレを封じる」
ヒカリはそう宣言すると、ハヤテとヒサギに向かって
「今すぐ、空飛ぶ種の翼を持って暗黒の淵へ向かえ」
と命じた。
ハヤテは先ほど放り投げた袋を拾い上げると、ヒサギと共に館の奥へと進んで行く。
「待って! お願い! お母さんを助けて!」
ユキは悲痛な声で訴えたが、ハヤテとヒサギは振り返ろうともしない。
彼らの後を追いかけようとするユキを、シグレが止める。
「無駄だよ」
「でも!」
「ハヤテとシグレは、たぶん最初から半妖の長の目的を知っていたんだと思う。そうだろう? 母さん」
シグレの呼びかけに、ヒカリが薄っすらと微笑む。
自分と同じくらいの年頃にしか見えないヒカリが、半妖の長であると同時にシグレの母親でもあると知って、ユキは衝撃を受けた。
ヒカリはユキの目を見ながら
「お前もいつか、アレと同じように邪悪な者に利用され、周囲の者を危険にさらす日がくるかもしれない。そうならないように、今すぐ魂ごと封じてしまいたいところだが……」
と言って、反応を窺うようにシグレの方へと視線を移す。
「ユキには何もするな」
シグレはユキの前に立ちふさがり、怒りに燃える目でヒカリを睨む。
ユキは、先ほどからずっと自分がどうするべきなのかを考えていた。
ヒカリの話によると、暗黒の淵からトコヤミを呼び寄せたのはユキの母で、彼女は邪悪な妖魔に利用され、人間の世界を危機に陥れようとしているらしい。
さらに、母は重い病に侵されていて、余命いくばくもないのだという。
もし、生命の危機によって母の強大な力が覚醒したのならば、母の血を引くユキにも、同じことが引き起こせるのではないだろうか。
だとしたら、ユキが瀕死の状態に陥れば、母の体を通じて人間界を侵食しているトコヤミを、妖魔の国へ呼び戻せるかもしれない。
そうすれば、母は妖魔の僕として封印されることなく、人間に戻れる。
たとえ余命が残りあとわずかだったとしても、人間として最期を迎えられる。
これは賭けだ。
勝率など無いに等しい、馬鹿げた賭けだ。
でもユキは、どうしても母を助けたかった。
事業の失敗によって借金を抱えた父が、酒に溺れて荒れ狂い、暴力をふるおうとした時、母は身を挺してユキを庇ってくれたから。
何があっても、どんな時でも、ユキのことだけは守ろうとしてくれたから。
「ヒサギ!」
ユキは、館の奥の暗がりに向かって叫んだ。
「私の心の声が、聞こえたでしょう?」
ユキを死の淵に追いやり、その上で蘇生させることが出来るのは、ヒサギだけだ。
「ハヤテ! あなたはそのまま暗黒の淵に向かって、巻き込まれた人達を助け出して! シグレは私の腕輪を外した後、冥府の王のところへ行って助けを求めて!」
ユキは早口で告げると、ヒサギに頭の中で呼びかけた。
『ヒサギ、お願い。私の望みを叶えて。そうしてくれたら、私もあなたの望み通り、シグレに「必ず戻ってくる」と伝えるから』
暗がりの中から、ヒサギが勢いよく飛び出してきた。
そして、太い牙でユキの喉に噛み付いた。




