妖の森
妖の森には神様がいる。
この地には、そんな言い伝えがあった。
ユキは十五の春、緑豊かな山間の村に引っ越すことになった。
両親が離婚して、母親に引き取られたからだ。
結婚してからずっと専業主婦だった母に経済力はなく、遠縁の親戚を頼ってこの地に辿り着いた。
「意外と良いところじゃない」
無理に明るい声を出しながら肋屋の掃除に取り掛かる母を、ユキは冷めた目で見ていた。
馬鹿みたい。
良いところなんて一つもないじゃない。
携帯は圏外だし、最寄りの駅までは徒歩で一時間以上かかる。転校先の中学校は、山を一つ越えたところにあるという。
高校受験を控えた大事な学年なのに、こんな田舎のボロ屋で暮らすことになるなんて。
「最悪」
ユキは小さな声で呟くと、そっと家を抜け出した。
畦道を歩きながら鼻歌を歌う。
幼い頃に父親の運転する車の中で聴いた、古い曲の数々が頭の中で鳴り響く。
年月を経ても色褪せないそのメロディーと歌詞は、今もユキの記憶に刻まれたままだ。
気が付くと、鬱蒼とした森の前に立っていた。
「危ないよ」
背後から突然声をかけられて、悲鳴を上げそうになる。
恐る恐る振り向くと、自転車に跨った青年がこちらを見ていた。
「そこは『妖の森』って呼ばれていて、神様が住んでいるんだ。近づかない方がいい」
神様?
そんなのいるわけないじゃない。
言葉にはしなかったが、表情には出ていたのだろう。
青年が肩をすくめて苦笑いする。
「別に信じなくてもいいけど、その森に一人で入ったら、無事に出てこられないかもしれないよ。沼に落ちたり、蛇に噛まれたりすることだってあるからね」
ユキは少し怖くなり、元来た道を引き返すことにした。
「後ろに乗っていきなよ。送ってあげるから」
「結構です」
「警戒しなくても大丈夫だよ。玉響さんとこの親戚の子だろ?」
どうして知っているのだろう。
ユキは訝しげに青年を見つめた。
「村の人なら誰でも知っているよ。ここでは隠し事なんか出来ない」
青年はそう言って、自転車の後ろの荷台を指差した。
「もうすぐ日が暮れる。街灯なんかないから、足元が見えにくくなるよ。畦道を踏み外して田んぼに落ちたくなかったら、乗りなよ」
ユキは荷台に横座りして、遠慮がちに青年のシャツを掴んだ。
「そんなんじゃ落っこちるよ」
彼はユキの腕を自分の腰に巻き付けると、自転車を漕ぎ出した。
両腕に青年の体温が伝わってくる。夕暮れの風が、心地よくユキの頬を撫でていった。