エピローグ
魔国オプスターニスは大陸の北にある。極点に近づけば近づくほど寒くなるのは北も南も同じと言うが、アインハードはオプスターニスよりも寒い場所を知らなかった。
否、幼少期、貧民街で過ごした最悪の日々――孤児の仲間たちがバタバタと死んでいく毎年の冬も、寒かった。恐らくは、北にあるとはいえ温かな寝床がある城で暮らすよりも、ずっとあの日々の方が寒かったはずだ。
しかし九歳の頃、冬になる直前に迎えたあの日、アインハードは温かな光に触れた。――その光が、それまでに覚えた貧民街の冬の寒さの記憶を封じてしまった。だからアインハードは、自らの居城、あるいは父魔王の城こそが最も寒い場所だと思っている。
暑さにも寒さにも人より強い魔族にとって、それらの感じ方は、要は気の持ちようだ。
――だからか。
「城主。無事のご帰還を、家臣一同お慶び申し上げます」
「……ああ」
不要と言われて放逐されたも同然の我が身が、こんなに寒く感じるのは。
――アインハードが自身の領土にある城に帰ってきた数日後、彼は王都近隣の都市シェルトにて反乱軍対女王軍の戦いが勃発したことを知った。
「戦いは五日間。辛くも女王軍が勝利したとのこと」
「そうか」
どうやら上手くやったらしい。
僅かに安堵するも、彼女の身を守ったのは誰かということまでを考えると、苦々しいを通り越して昏い怒りさえ覚える。
「しかしこの愚臣めは意外に思います。貴方様が敵国の女王の身の安全を気になされるとは」
「……父の敵であるならば味方になる可能性がある。あの女王は甘いが話がわかる。役に立つかもしれない存在が生きていたか気になった、ただそれだけのことだ」
「左様でございますか。……しかし城主」
なんだ、と振り返る。
――アインハードの城に仕える家臣たちは、決してアインハードを殿下とは呼ばない。 アインハードが王太子などというなんの意味もない肩書きに、毛程も価値を置いていないことを知っているからだ。
「あの女王――あの国が城主のお役に立つとは、思えませぬが」
「……ほう」
「反乱によって女王は名家の大臣を軒並み失いました。新体制を整えるだけで精一杯でしょうな。しかも女王は、東の者のせいとはいえ魔国が原因でその武力を大きく失った」
「何……? 魔国のせいとはどういう意味だ。痛手を負ったのは反乱のせいではないのか」
眉を寄せたアインハードに、彼が十の時から仕えてくれている老齢の侍従長は、重々しく応えた。
「――王都より東部に派遣されたというルネ=クロシュの軍勢。まるごと、主上に蹂躙されたと」
「……、なんだと……?」
ノヴァ=ゼムリヤ警戒のために、わざわざ軍を分けて東へ向かったであろう手勢が、魔王の手にかかったというのか。
それが本当であれば、確かにルネ=クロシュの戦力は半減だろう。今女王は、オプスターニスやノヴァ=ゼムリヤどころか、近くの小国にも攻め入られておかしくない苦境に立たされていることになる。
(……先に潰そうとしてきたか)
アインハードがルネ=クロシュと組もうとしていることを、やはり察知されていた。
だからこそ魔王はルネ=クロシュ弱体化を計画したのだろう――恐らく、王国内部に詳しい者を味方につけて。
「やってくれる……」
仕掛けてきたということだ。
今度こそ、目障りになってきたアインハードを殺すために、魔王が。
恐らく近いうちに戦争になる。東魔国と、ルネ=クロシュの全面戦争だ。下手したら東にはノヴァ=ゼムリヤがついている。
早く対応せねば手遅れになる。
「……」
アインハードは、自分が盲目的に慕っていると自覚する女王の顔を思い出す。
誰も信じられないと、疑心暗鬼に溺れた哀しい金の瞳を脳裏に思い浮かべる。
アインハードにとっても原点であるあの約束を覚えていてくれたのは、純粋に嬉しかった。そして、自らの素質までを疑い、その約束を守れないものと諦めてしまいそうな彼女に憤った。
……しかしあの目を改めて思い出せば、自分が重すぎる荷物を背負わせすぎてしまっているのではないかという気がして、罪悪感に苛まれた。
アインハードを見て心を寄せ、国を良くすると誓ってくれた、あの日の彼女の言葉は確かにアインハードの光芒だった。しかしあの約束が、他ならぬ彼女を苦しめているのであれば――。
(結局、身勝手な理想を、俺は彼女に押し付けていたのだろう。浅はかで愚か。捨てられて当然だな)
――もはやこの身には、彼女との契約さえ残っていない。
契約の性質を逆手に取られて、破棄されてしまったからだ。
「……いや。彼女にやってもらうのではなく、俺がやればいいのか」
「城主?」
彼女があの約束を誰かに託すというのなら、いっそ自分が果たしてしまってもいいかもしれない。
ルネ=クロシュが魔王に倒され、女王も国も全てが消えてしまうのなら、いっそその前にあの国をよく知る自分が奪ってしまえば――。
侵攻だけならば、アインハードはきっと魔王に先んじることができるだろう。――そして魔王よりも先にルネ=クロシュを掌握し、月の神子の力を押さえる。シャルロットは、彼女に頼まれれば、たとえアインハードの命令であっても聞くだろう。
そうなれば魔王に対抗するには十分だ。
魔王を殺して魔国を統一した後、ゆっくりと奪ったルネ=クロシュをよい国にしていけばいい。
(そうすれば、あなたに重荷を背負わせなくて済む。……責任感の強いあなたなら、やむを得ない理由以外で何かを人任せにするというのは、嫌だろうが)
だが、わかっていた。
ディアナは優しい。けれども繊細だ。
そもそも本来ならば、王の重責など背負わずに生きていけるはずだった人なのだ。尊敬する兄を支えて生きるという人生を、突如として悪魔に奪われただけの。
なら、その『兄』を、アインハードに変えてくれればよい。
王の重責はアインハードが背負うので、その隣で支えてくれれば。
(彼女を妃、などというのは抵抗があるが、仕方がないな)
アインハードにとって彼女は、不要とされた今でも、仕えるべき尊い存在だ。……だがルネ=クロシュ滅亡の危機に比べれば、呼び方などは些細な問題だろう。自分が最大級に敬意を払っていれば、それで済む。
そうすれば約束を二人で果たしていくことになる。何も悪いことはないじゃあないか。
「――侍従長」
「はっ」
アインハードは微笑んだ。
「家臣団を呼べ。――これより、魔王を殺す策を練る」
「かしこまりました。わが主」
その微笑みは。
――奇しくも同時期、魔王がディアナに見せていた酷薄な笑みと、よく似ていた。
これにて第二部完結です。第三部で完結予定でしたがまとめられる気がしないので四部構成になるかも。
また第三部開始までにIF短編や番外編を載せますので、それを読んでお待ちくださいませ。