女王編:58 どんなことをしても
「いいえ? 別に全てが嘘と言うわけではございませんわ」
エウラリアは震えるヒルデガルドの首に突き付けたナイフを、ゆっくりと頸動脈に近づける。 まるでチェロを演奏するように、血管を傷つけぬぎりぎりのところで、ナイフを左右に動かす。
命をもてあそぶようなその仕草が――やはり、父親と重なる。
「父は……父のことは、そうですわね。恐れていたというのは間違いないですわ。正確には、わたくしと父は、互いがずっと邪魔だったのです。だから、互いに排除する方法を探っていました。父にアーダルベルト様を殺されてしまい、王太子妃となる機会を失ったので、分が悪いと感じて逃げたのですよ」
でもアーダルベルト様のことはお慕いしていたのですよ、と彼女は言う。
ナイフを持ったまま、どこか恍惚とした目で。
「本当ですわ。あの方は……面白い方だった。わたくしの本性を、無意識に疑っていた。ディアナ様、覚えておいでですか? 殿下は、わたくしに母の形見のブローチをねだったあなたに、わざわざお茶会に突入してまで無理に謝らせたでしょう」
覚えている。
確かに変だと思っていた。あの品行方正なアーダルベルトが、無理に女子のお茶会に踏み入ってまで、俺に謝れと言いに来たこと。
他に方法があったのではないかと、思ったことはあった。
「あれはきっと、わたくしがあなたに報復することを恐れて、なんとか謝罪をさせなければと思ったからなのでしょうね。さすがに、報復を恐れていたのは無意識でしょうけれど」
「……そんな」
「でも、それほど類稀なお方でしたのに、お父様が殺してしまって。わたくしとても残念でした」
悲しかったのですよ、本当に、とエウラリアは言った。
「……ディアナ様。わたくしは、わたくしの人生に、何か決定的に欠けているものがあると、昔から思っておりました。アーダルベルト様を失い、父に追い詰められ、もう何もかもどうでもいいと、そう思って逃げた先で長く引き籠っていた。
けれどディアナ様を通して父を排除することができて、わたくしは少し生に希望を持ちました。それでもまだ自分の中の『欠け』が何か、わからなかったのですけれど――そこに、魔王陛下が現れてくださったのです」
エウラリアが、その整ったかんばせに。
満面の笑みを、刷く。
「――この方だと思いました。この方こそがわたくしの『欠けていた部分』だと」
ヒルデガルドの首に添えられたナイフが動き、つう、と血が一筋垂れる。
「やめ、」
「……ですから、わたくしは、この方の軍師となって、この方の支えになると決めたのですよ」
エウラリアが垂れた血をナイフを持っていない方の指で掬った。
鮮烈なまでに赤い――アインハードと魔王の、瞳の色。
「そういうことだ。理解したか、ディアテミス、ヘリオス」
「……っ」
「安心せよ。今ここでお前たちを殺す気はない。――暗殺してもすぐに次の月の神子が湧く。であれば徹底的に国を亡ぼしてからの方が、確実に太子とこの国が盟を結ぶことを阻止できると我が軍師が止めたのでな」
「そういうことですわ。今日はただお土産をお持ちするために参っただけです。騒ぎ立てられると面倒でしたので人質は取らせていただきましたが、もう人を呼ぶ気はありませんわよね」
エウラリアがナイフを仕舞い、とんとヒルデガルドの背中を押す。
ぐらりと倒れる彼女を慌てて抱き留め、俺はエウラリアを見上げた。
「……お土産というのは?」
「これだ」
――魔王の右掌の上に、大きな木箱が現れる。召喚魔術で呼び寄せたのだろう。
男の大きな掌であっても、片手で持つにはやや危うい大きさの木箱。魔王はそれを立ったままのシャルロットに投げ渡す。無言で受け止めるシャルロットの手元で、ごろん、と、何やら奇妙な音がした。木箱の中で、何かが転がったような音だ。
「検めてみるといい」
「……言われなくとも」
魔王を睨みながらも、シャルロットは上開きになっている木箱の蓋を開いた。
瞬間――彼女の顔色が変わる。
「……ッ、これは……!」
「どうしたの、シャルロット」
血の気が引いて、土気色になってしまった顔を、シャルロットはこちらに向けた。
そして、恐怖が滲んだ低い声で言う。「――軍務大臣閣下です」
「……は、」
「ここにいらっしゃいます。……、間違いございません」
ここにいると。
この木箱の中に。
シャルロットの言いたいことを理解する。俺は歯を食いしばり、魔王を睨んだ。
魔王は笑う。
「そう殺気立つな。東に往った軍はもう戻ってこないのだと、親切に教えてやっただけのこと」
(クソッ……!!)
「宣戦布告はもっと派手に行う。――せっかく目覚めたのだから、少しは我を愉しませることができるよう、用意をしておくのだな。ヘリオス」
血のように赤い双眸を糸のように細め、魔王は、酷薄に笑んだ。
……冗談じゃない。
俺はヒルデガルドを抱え上げ、立ち上がった。そして魔王を正面から睨みつける。
「――わたしはヘリオスではないわ。わたしはただの、この国の女王ディアナ。それだけ。神代の因縁に、興味はない」
「……」
初めて見た時、俺は魔王の顔も瞳の色も、アインハードとそっくりだと思った。
しかし違う。
あいつはこんな邪悪な笑みをしないし、瞳の色もこれほどどす黒い血の色ではなく、血のようではあるけれども血ではない、深い紅玉の色だ。
「この国を亡ぼし、アインハードを殺すと言ったわね。それで闇の神の再来を演じると」
似ていない。
こんな男と、あいつは。
「――やれるものならやってみろ!」
「……、ほう?」
俺は俺の、なすべき約束をなすために、国を滅ぼされるわけにはいかない。当然、アインハードを殺させるわけにはいかない。
(これ以上お前らの思い通りになんて、させてたまるかよ)
必ず止めてやる。
どんなことをしても。
これにて第二部本編終了となります! 残すはエピローグ。
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