女王編:56 エウラリア・エクラドゥールという女
瞬間。
聞き覚えのある声がして、二人そろって振り返る。
そこにいることに気がつかなかった。声を掛けられるまで、俺だけでなく、シャルロットも。
そして背後に立っていたのは、ヒルデガルドだった。
――正確に言えば、ヒルデガルドと、その首に刃物を突き付けている、マントの女が一人。そして、その後ろにもう一人、男が――。
(……なんだ、あの男の、この圧は)
すごい、プレッシャーだ。
気圧されて、ろくに動けない。
見れば、シャルロットも青ざめて蟀谷から汗を流していた。聖女であり、確実に世界で五指に入る強さの彼女が、怯えている。――心の底から。
「ひ……姫様……申し訳ございません……」
俺たち二人が固まっているのだから当然、戦いの訓練など受けたこともないヒルデガルドは、もう意識朦朧といった様子だった。青ざめ、震え、今にも崩れ落ちそうである。
「一体、何者なの……? ヒルデガルドを離しなさい」
「あら……? わたしが誰かおわかりになりませんか。では、よほど上手に偽装なさったのね」
女が首を傾げる。そして――フードを、取った。
そこから、出てきた顔は。
「エウラリア・エクラドゥール――?」
「はい陛下。お久しぶりでございますわ」
目の前の女が、貞淑な乙女そのもののカーテシーをする。
(なんで……)
有り得ないと思った。
目の前の光景が、到底信じられなかった。
生きていたのか。本物か。
――それらの、思い浮かんで当然の質問よりも先に、強烈な違和感が脳を塗り潰す。
「騒がないでくださいましね。もしも声を上げられたらヒルデガルドを殺します」
「……っ」
目の前の女からは、男から感じられるような圧はしない。
気配も、俺の知るエウラリアのそれだ。
だが、俺の知るエウラリア・エクラドゥールは、戦いなど知らぬご令嬢だったはずだ。
ヒルデガルドを殺すなどと言ってのけることができるのは何故だ?
異常な存在感を発揮するマントの男の気配に、汗一つもかかないでいられるのは何故なんだ――?
「……生きていたの?」
それでも。
俺は――なんとか、声を絞り出した。「あなたは、本当にあのエウラリア様なのですか?」
彼女ははい、と頷いた。
「わたくしですわ。エウラリア・エクラドゥールです」
「そんなはず、ないわ。司法長官はあなたの顔をした死体が見つかったと言った」
「あら」
ぱちりと目を瞬いて、女は後ろの男を振り返った。そして驚いたような口調で言う。「本当に顔を偽装することなんてできたのですね。死体に変身魔術が掛けられるだなんて存じませんでした」
(死体に変身魔術……!?)
馬鹿な。
じゃあ、報告にあった死体は、偽装だったというのか。
「……まあ、上手くできていても、そうでなくても、あまり関係はなかったのですが」
「なんですって……?」
「だって、司法長官は元よりわたくしの手の者ですもの」
偽証などお手のものですわ、と、彼女は微笑んで言う。
「……ッ」
その笑顔が――彼女の父親である悪魔に重なり、怖気が走る。
……誰だ、これは。
俺の目の前にいるこの女は誰なんだ。
「ああ、誤解なさらないでくださいませ。お父様の手の者を受け継いだのではありませんよ? もともと、彼は、わたくしに忠誠を誓っていたのです」
「何……どういう……」
「ではわかりやすく、一言で申しますね」
もう一柱の悪魔が、
「この反乱を仕組んだのはわたくしですわ」
――嘲笑う。
「どうしても国を二つに割る内戦が必要だと思ったので、ダンネベルク公に催眠を掛けて、反乱を起こしていただきました。あなたに不満を持っていた貴族たちを焚き付け、わたくしの死を偽装することでエクラドゥール派の貴族を焚き付けました。あなたがたに特別な悪意を持つ方に、力を引き上げる呪印をプレゼントしたり。意外と手間がかかったのですよ。
ディアナ様が月の神子でないことは、父の研究対象がシャルロット様になっていた時点でおおむね察していましたから、それを使って不信を植え付けたり……。今捕まっている彼らが口を割らないのは、唆したわたくしに忠実だからです」
心臓が、高く音を打つ。
視界がぐらぐらと揺れる。
「そんな……馬鹿な!」シャルロットが動揺を隠せない声を上げる。「そんなことが可能なはずがありません! 人心を操る魔術は高位の闇の魔術! そうそう使えるものではないはず! しかも公爵などという大貴族相手なら尚更、」
「あらシャルロット様。そんなもの、簡単なのですよ? このお方――」
美しき魔女が楽しそうに言い、促すように後ろの男を振り返る。
男は黙って、フードを取る。
その顔は、
「魔王陛下の御力をもってすれば」
――アインハードに、瓜二つだった。