第九話
水焔の能で上演される『大江山』は今も作者が不明の能演目である。
日本で最も有名な鬼の一匹が住み着いている大江山へ、朝廷から勅命を受けた討伐隊が山伏に扮し接触を試みるところから物語は始まる。
そして主役であるシテは、日本全土に悪名を轟かせている大悪鬼、酒呑童子をその身で演じる。
目の前で舞い、謡をあげている調からは、故郷である比叡山を追われた酒呑童子の悲しみと怒り。そして、酒呑童子の隙をつくためとはいえ、討伐隊がみせる優しさに心を許した酒呑童子の喜びが伝わってくる。
物語が終盤へと差し掛かると、討伐隊は、気分を良くして眠りについた酒呑童子の首を狙うため、武具を身につけ寝床へと侵入する。
そこで一行が目にした酒呑童子は、先ほどまでの人畜無害な姿ではなく、京の都を苦しめた悪鬼の巨躯だった。
寝首をかかれた酒呑童子は、山を震わせるほどの怒りと共に、先ほどまで心を通わせていたはずの一行を迎え撃つこととなる――。
物語の前半で、酒呑童子は人々を無為に怖がらせることが無いように、その身を無害な少年の姿としている。
長年、男性の芸能として発展を遂げてきた能だが、事この場面においては、たおやかな女性らしさを醸し出せる調に相性の良い役目であると思えた。
永遠に続くかと思われた彼女の舞も、暫くすると動きに疲れが見え始める。
何度も繰り返される一幕の中で、彼女の足運びや腕の振り上げには鈍さが生まれていた。
彼女自身にもその自覚があったのだろう。演舞における一連の流れを終えると、イヤホンを耳から外して、腰に下げたタオルで汗を拭う。
「お疲れ様。はい、これ水」
「あ、どうもありがとう。そうだ、和田辺くんから見えた、今の悪かったところを教えて貰えると……ん、和田辺くん?」
彼女は手に取った未開封の水の蓋を開ける寸前で体を硬直させる。そしてそのまま、体力測定の反復横跳びの様な俊敏さで、一歩二歩と僕との距離を開けた。
「なななな、なんで和田辺くんが、こ、ここに……」
「えっとごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど。実は夕方ここに来た時にスマホを忘れちゃってさ、それを取りに来たんだよ」
ポケットから、先ほど回収したスマートフォンを調に見せると、どうやら彼女にもその忘れ物のデザインに見覚えがあったらしい。
「ああ、これ和田辺くんのだったのね。今日は人の出入りがいつもより激しかったから、誰の忘れ物か分からなくて。
まあそのうち持ち主が回収に来るとは思ってたけど、こんなに唐突に、それも空き巣みたいに入って来るとは思わなかったわ」
調は許可なしに親が自分の部屋に入ってきた子供の様に、少し睨みつけるように訝し気な視線を向ける。
「鍵だってちゃんとかけていたはずなんだけど、忘れていたのかしら……。というか、建物に入るなら声ぐらいかけたら良かったんじゃないの?」
「いや、ちゃんと入り口で誰か居ないか呼んだよ。でも返事が無かったし、もう夜遅い時間だから誰もいないのかと思ってさ」
「夜遅い時間って、まだ八時にも……って、もうすぐ十時じゃない。いつの間にこんなに経ってたのよ!」
正確には九時四十六分。母さんが見ていたバラエティの特番も大詰め。出演している俳優たちは、渋のこびりついた茶番をした後に、主演ドラマの番組宣伝をしている頃合だろう。
僕がこの春日神社に辿り着いたのが大体八時前。よって彼女は、少なくとも二時間ぶっ通しで一人稽古をしていたことになる。凄い集中力だ。
「そんなに前からこの部屋にいたなんて、あなた怪盗の才能があるわね」
「二十世紀ならまだしも現代日本では忌み嫌われる才覚だね。出来ればもっと有用なものが良かったよ。例えば役者と……」
僕はそう言いかけて、ひどく余計な言葉を口にしたことに気付く。
言いかけた、とは自分に都合が良すぎたようで。調には僕の言葉尻まで全て聞こえていたようだった。
「……実はずっと前から聞かなければいけないと思っていたの。現役舞台役者を父に持ち、若干十歳にしてその高い演技力が評価されて、主演の全国ツアーが組まれたこともある超が付くほどの人気舞台子役。しかし、少年はある日を境にメディアからその姿の一切を消した。
そしてその少年が、引退後に人知れずこの土地へ引っ越してきてるって。
確か名前は……左右田深裄」
左右田は父親の旧苗字で、結婚する以前からの苗字をそのまま息子にもつけた形となる。ある程度メディアに顔を出していたこともある僕が、この土地で白い目線で見られない理由はここにあった。
「そんなに大層な人間じゃない。役者を引退した理由だって、若さだけが取り柄の僕の演技が年齢に見合った実力に成長しなかったからってだけ。ネットを調べればきっとすぐに出てくるよ」
実際のところは、メディアの評価を自分で調べた試しは無い。自ら古傷をえぐるようなことはしたくないし、どんなに誇張された描かれ方でも、事実が根幹にあることに違いは無いのだから。当時は母さんたちも、僕の前でテレビを点けないようにしてくれていた。
僕は、自らの素性を隠していたことに対して、決して悪気があったわけではない。僕の過去を知っている七瀬や惣一郎に口裏を合わせて欲しいと願ったこともない。だがそれでも、心のうちのどこかに、弱みとなる部分を調に見せたくないという感情があったことは確かだ。
またきつい言葉を吐かれるかもしれない。
そんな僕の雑多な感情を後目に、調は黙々と帰り支度を始めていた。
「怒ってないの?僕が昔役者をしていたことを黙っていて」
「なんで怒るのかしら。程度は違えども、みんな隠したい自分の過去は一つ二つあるものでしょ。勿論私にもあるけど、それを喋るつもりは全くないわけだし」
彼女はこちらを振り返らず、さも当然の事かのように意見を述べる。
分かっている。過去や内情なんて、どれほど近しい間柄のソレであろうと、結局は他人事に違いない。僕だって、彼女の過去を根掘り葉掘り探りたいわけじゃない。
彼女は言う。今相対している相手の見えている姿だけに思いを馳せればいいと。
でもなんだか僕には、そう彼女の目に灯る強い焔が眩しくて――深く、落ちていきそうで。
「そんなことより、和田辺くん。この部屋にずっといたのだから、私の動きも少しは見てたわよね」
荷物をバックに詰め終えかけた、彼女の突然な問いかけに対し、僕は小さな頷きをもって肯定の意を返す。
正直いえば、少しなんてものではなかった。約二時間、飽きずに見ていられるぐらいには、彼女の舞には人を惹き付ける力があった。
さっと身を翻した彼女は、僕の胸元に人差し指を向けてこう続ける。
「貴方、幼い頃は曲がりなりにも優秀な舞台役者だったのでしょう。だったらその経験をもとに、私の動きの悪かったところも分かってるはずよ。なんでもいいわ、改善点を教えてくれないかしら」
彼女の視線は、僕の顔を捉えて離さない。
思えば僕は、彼女と視線を交じわらせた試しは一度もない。ともすれば、その身すら焼き尽くしてしまいそうな燃え上がる瞳。何の意思も能力もない僕が、無意識に目をそらしてしまうのは自然な道理だった。
「何もないよ。調さんの舞は完璧だったし、僕から言えることがあるとすれば……」
僕はそこまで言って、また自分が失言を繰り返していることに気付く。
「貴方のその含みがありそうな言い方、誤解を招きかねないから直した方が良いわよ。
それに何か勘違いしている様ね。さっきの私の言葉、あれはお願いではなく命令のつもりだったのだけれど」
「本当に何も無いんだってば。素人に毛が生えた程度の僕が言えることは何もないよ。それにもし命令だったとしても、僕にはそれを聞き入れる義務はないはずだよね」
それ程に彼女の動きは良かった。能のことなど、一朝一夕で仕入れた知識程度しか持ち合わせていない僕でも、どれだけの時間をかけて磨いてきたのかは分かる。
だからこそ、彼女の望みを、僕なんかが彼女の努力に対して一言口にする無礼を、受け入れるわけにはいかない。
「……そう、分かったわ。貴方が拒むのであれば、私もそれなりの対応策に出ます」
そう言う彼女は、ポケットからスマホを取り出して短く三回、人差し指を動かす。
「誰に電話を?」
「そんなの警察に決まってるじゃない。建造物侵入の実行犯で貴方を捕まえてもらうの」
淡々と、さも当たり前のように話す調の人差し指は、画面に映る赤いダイヤルボタンに掛かっている。
「い、いやいや、そんなの誰が信じるんだよ。僕は忘れ物を取りに来ただけだし、それに建物の中に人が残ってるか確認のしようがなかったから、仕方なく入っただけじゃないか。警察だってそれぐらいの事情は……」
やれやれ、と首を振り、調はダイヤルボタンを押す。その後すぐに、静かな春日神社一帯に響き渡るほどの大きなベルの音が聞こえてくる。
「貴方は知らないかもしれないけど、ここは国の文化遺産にも選ばれている白川能の本元なの。県の観光地としても割と有名だし、一般連絡用の電話が通っているのも当然じゃないかしら」
記憶をたどれば、出発前にあった母との会話の食い違いは、これが原因で生まれていたのかもしれない。よくよく考えれば、あの時の母が僕と調の関係性を認知していたはずが無いのだ。
彼女は再度、僕へみせつけるようにダイヤルボタンを一つずつ押していき、今度は正しく三つの数字を並べ、画面を差し向けてくる。
「今度は脅しじゃないわ。この先の人生を前科者として過ごすか。それともそのちっぽけなプライドを捨ててさっさとアドバイスを……。
いやこの際だから、私の専属指導役として働いてもらおうかしら――。そうね、それが良いわ。私ってば今日は中々に冴えてるわね」
「指導なんて、アドバイスってだけでも分不相応なのに。そんなの無理に決まってるよ」
喉にひどく近い位置から絞り出すような僕の言い訳なんか、今の彼女には全く聞こえていないようだった。
彼女はちっぽけなプライドと言った。才能も適正も無かった役者の過去を捨て、僕は只のちっぽけな人間であると確かに自認していたはずなのに。
少なくとも、彼女からはそう見えているのかもしれないと感じて。
「分かったよ。僕の見立てなんかで良けれ「あ、ごめんもうかけちゃった」」
一瞬の逡巡すらも許されないだろう制限時間の通りに、彼女は電話口を耳元へと押し当てている。
まずい。このままでは本当にお縄に掛かってしまう恐れがある。
少年法という盾は、僕を実刑からは守ってくれるだろう。だがしかし、狭い町に流れる噂の風を消し飛ばす能力も義務も持ち合わせてはいない。
事態を上手く処理できていないのか、電話を切る方法に手間取っている調に駆け寄るように僕は距離を詰める。
しかし、長時間座っていた影響か、あるいは長年の摩耗による床の材質によるものだろうか。僕は彼女の右手に握られたスマホを取り上げる寸前で大きく足を滑らせた。
そのまま大きく体勢を崩した僕は、覆いかぶさるような形で調の方へ倒れ転げる。
すんでのところで右手を床につき、調へと体重を重ねるような事態は免れる。
眼を回した僕の意識を覚醒させたのは、こちらの上半身へと向けられたカメラによるキレの良いシャッター音だった。電話のダイヤル音は、いつの間にか途切れている。
「これで強引に襲われたって証拠も取れたわね。まさか押し倒すまでの度胸が和田辺くんにあるとは思わなかったけれど。
嘘で適当にあしらおうとしたら警察に突き出すから」
「……たくましいね」
言葉尻にはこれでもかと嫌味を込めたつもりだった。しかし立ち上がる彼女の表情は、そんな僕の小細工なんか全く意に介していないほど良い笑顔だった。
「ありがとう、よく言われるわ」
この事態が彼女の計算通りだったのか、あるいは不慮の結果だったのか、それはもはや知る由もない。
今わかることはただ一つ。僕にはこれからしばらくの間、彼女の命令に従順する生活が待っているという簡単な事実だけだった。