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水焔の衝動  作者: 三斤 樽彦
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第八話

 春日神社にスマホを忘れてきてしまったということに気付いたのは、家に帰って夕飯を食べようと腰を下ろしたときだった。

 座布団の上で胡坐をかくと、スマホとパンツ生地の間で生まれる太ももの圧迫感が無い。いつもなら、ここで右ポケットからスマホを取り出して机の上に置くまでが一連のルーティーンだった。思い起こせば、家に帰ってからスマホを触った記憶はない。

 僕の家では、夕飯の時刻は七時と決まっている。スマホの画面を開いたのは、この時刻に間に合わないかもしれないと、神社の待機室で母に連絡をいれたのが最後だった。

 何度行動をトレースしても、これ以降にスマホを使用した記憶はない。


「まずいな……」


 もしかしたら、神社にいた何者かが、忘れ物として保管してくれているかもしれない。あるいは発見者が調であれば、僕らのうちの誰かの持ち物だと分かるかもしれない。

 だが調は最近学校を休みがちだ。稽古の都合だろうが、それゆえ、明日に学校へ来る確証がどうにも得られない。調が確保しておいてくれて、更に明日それを持って登校する。不確かな展開を二つ重ねるのは、あまりに自分にとって都合が良すぎる。

 調が学校に来るのかだけでも確認しようとするが、彼女へたどり着くまでの連絡方法が思いつかない。

スマホというのは手元に無いとそれなりに生活に支障をきたすものだ。現代病と呼ばれる依存症とまではいかない筈だが、メモ帳や連絡ツール、暇つぶし用にと大いに助けられている。現に、スマホに保存されている電話番号を頭で記憶していないから、皆と連絡を取ることさえ出来ない。便利すぎるというのも中々に考えものだ。

 時計を見ると時刻は七時十五分。陽もすっかり落ちて暗くなっている。

 ここから春日神社までは、自転車をとばせば二十分はかからない程度の距離だ。暗く、足元に不安が残る道ではあるけれど、目的地の場所も分からなかった夕方の行きに比べれば、ずっと早くたどり着けるだろう。

 あとは、上座の人々が一体何時まであの春日神社まで残っているかだ。急いでペダルを漕いで向かったものの、扉が閉まっていて骨折り損とは流石に勘弁願う展開だ。


「深裄、そわそわしてどうしたの」


「ああいや、夕方に行った春日神社に忘れ物してきちゃってさ。今日取りに行くか迷ってるんだ。まだ空いているかも分からないしね」


 質問をしてきたくせに、面白い返答をしてこなかった僕が悪いと言わんばかりにテレビのバラエティ番組へと視線の大半が移っている。いい大人なのに、息子の会話を広げようという努力が微塵も感じられない。


「気をつけなさいよ。というか、神社に向かう前に一本電話でもしておいたら?」


「いやだから、その電話をするためのスマホが無いんだよ。ととの……そこに居るかもしれない友達の連絡先も覚えてないしさ」


 母の反応は少し鈍く、噛み合っていないかのような表情を見せる。


「そういう意味じゃ……。ま、いっか。分かってると思うけど、面倒だから車は出さないから」


「はいはい、そんなの承知の上だよ」


 茶碗に盛られた白米を空にし、台所へと食器を運ぶ。

まあ腹をこなすにはちょうどいい運動だ。ほんの小さな誘惑で、簡単に横道に逸れてしまいそうな決心がまだ呼吸をしているうちに、僕は玄関の戸を開けた。



 いくら七月は中旬といっても、午後七時半ともなれば流石に日の光の面影はない。夏至などとうの昔に過ぎているし、これから陽は短くなっていく一方だ。

少し急ぎ目に自転車を漕いできた影響で、背中にはじとりとした汗が流れている。ポロシャツは少し張り付いており、決して愉快とは言えない。

 ぼくはいま、一週間前に人生で始めて訪れた白川の土地に一人で立っている。同じ市の中とは言え、この町に短期間で何度も来る想像など全く出来ていなかった。人生は全く分からないものだ。まあ今回に限って言えば、これまでとは違って能動的なものであるのだけれど。

 県道沿いに進んでいくと、明かりと呼べるものは一軒家の居間から漏れ出る光、それと一分に一度通るか通らないかの車のライトのみだ。街灯もなければ信号機も見当たらない。

 だがそれゆえとても静かで、鳥と虫の鳴き声がよく響く。

 しばらくして、今日通ったばかりのうねり路を登ると、右側の藪の中からみえる春日神社から、かすかに光が漏れ出ていることに気付いた。

 良かった、まだ稽古中だったんだ。とも思ったが、夕方訪れたときには藪を突き抜けて響いてきた歌声が聞こえてこない。人の気配も全くと言っていい程、感じられなかった。

 僕は砂利に車輪を取られないようにと、サドルから降りて敷地内に入っていく。夕方には止まっていた車は一台もない。

奥の自転車置き場まで行っても良いのだが、別にここまで人気がないのであれば多少横着しても良いだろうと思い、僕は本殿の入り口前でスタンドを上げる。

 どうにも人が残っているようには思えない。しかし確かに明かりはついており、入り口の扉も開いている。田舎特有の戸締りに対する不用心さが、忘れ物をした僕にとって表目に出ているのだろうか。


「すみませーん、誰かいますか」


 何がしかの用事で人が残っていないかどうか、確認するために放った少し震えた声は、薄暗い木造建築に吸収されていく。人工的に生み出される反響もどうやらない。


「あの、勝手に入りますよ」


 自身の罪悪感を打ち消すためだけに口にする独り言は、誰に謝るための物でもない。

 悪いことをしたらお天道様もとい神様が必ずみているとはよく言ったものだ。神や霊を信じているわけでは無いが、それでもこういった厳かな場所では第六感で居心地の悪さを覚えてしまうのが人間というものだと思う。


「一度入ったことがあるから不法侵入ではないよね」


 自分に都合の良いように、事象を拡大解釈することは不得意ではない。何より、誰かから行いの是非を追及されたとしても、忘れ物を取りに来ただけですと言えばそれほど怒られないだろう。多分。

 逡巡の後、靴を脱いで本殿の脇にある廊下を抜けた先、記憶通りの待機部屋に入る。僕らが囲んでいた机の上には、僕が高校入学祝に買ってもらったスマホが置かれてあった。


「良かった、ここにあった……」


 目的も達成して、さて帰るかと思った矢先。廊下の奥から小さく物音が聞こえてきた。おいおい、まさか本当に幽霊でもいるのか?

 そう余計な考えが流れた矢先、その物音が一定のリズムを重ねる足音であると気付く。

日本の幽霊に足はない。亡人を黄泉から呼び寄せる反魂香の煙で足が隠れるからである、という一説を思い出す。そんな思考を巡らせられるぐらいには冷静だ。

 こっそり侵入したのを見つかっても具合が悪いと思い、そのまま抜け出そうとするが、響く足音にはどこか聞き覚えがあった。

 普通に生活している上では聞くことが無いであろう、能特有の運足から生まれる足音。

 誰かが残って練習しているのだろうか。

 廊下の先にある部屋から漏れ出ている光を頼りに、僕は薄暗い廊下を忍び足で歩いて行く。

 僕は、少し開いた扉から顔を半分覗かせる。


 ――それはいつの日か見た光景。まるで空間が切り取られているかのような感覚。


 周りに民家など無く自然に囲まれた春日神社の静けさをもってしても、ひとり幽玄に舞う彼女から生み出される静寂の深さには到底及ばない。

 小さな物置小屋程度のスペースでしかないにも関わらず、彼女の一挙手一投足からは、あたかも周囲に大勢の役者がいるかのような錯覚を引き起こす。

 少し、あと少しだけで良いから、彼女を近くで見たい。


 ――キィッ。


 経年で少し錆びついていたのであろう開き戸は、前のめりになった僕の身体と触れ合った瞬間に、場に似つかわしくない歪んだ音を立てる。

 これはまずいと彼女の方を見るも、目を瞑りながら舞う彼女の集中は微塵も崩れていなかった。

現世から切り取られた空間には、音も光も、誰かの意思さえも届かない。


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