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水焔の衝動  作者: 三斤 樽彦
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第七話

 一週間後、通常通りの学校生活をおくっていた僕ら三人のもとに、調から突然連絡が届いた。内容は『今日の放課後、もし時間があれば記載した住所まで来て欲しい』とつづられている。彼女らしい余計な文章の無い簡素なメールだった。

 この一週間、欠席気味だった様子の調は、放課後になってもすぐに帰宅していた様子だった。直接話す機会が無かったため、現状がどうなっているのかの確認も取れていなかったが、文面を見る限りでは、演能の準備自体は滞りなく進んでいるらしかった。

 僕らは荷物を一度自宅に置き、再度集合するという手筈で学校を出る。集合場所は、調のメールに記載されていた住所に近く直近の記憶もある、白川小学校ということになった。

 白川の集落と僕の家では、帰り道の方向が反対という訳ではないものの、単純に距離がある。白川小学校に僕が付いたころには、外は暗くなりかけていた。


「この住所。さっき調べたら春日神社を指してたな」


 惣一郎の言葉に、なるほどと頷く七瀬だったが、恥ずかしながら春日神社がそれほどメジャーな施設であることは知らなかった。


「二人は行ったことあるの、春日神社にさ」


 僕の間の抜けた質問に対して、出鼻をくじかれた様子の七瀬が小さくため息をつく。


「お前よ、ここまで関わったんだから白川能の歴史ぐらい少しは調べろって。

 春日神社っていうのは、まあいうなれば白川能の本元なわけで。白川の氏子たちは春日神社にて奉られる神様に向けて能を演じてるんだよ。

 そしてそれらの演目はほとんど全て座長の当屋で執り行われてるそうだ。ほら、中野さんの家とかさ、かなり広く抜けた造りになってただろ?」


 確かに中野さんの家は、その襖をすべて取っ払えばかなり人が入るだろう造りとなっていた。今回の水焔の能が行われる総合運動公園の浮島。あの場所と比較しても遜色がない。

 最初の頃は僕よりも白川能について知識が無かったはずの七瀬だったが、生来の生真面目さなのか、はたまた知らないことは出来る限り知りたいという知識欲なのか、いつの間にか他人に説明できる程度の知識を頭に入れている。


「あれ、でもさ。じゃあ春日神社に僕たちを呼んだ理由って何だろう。七瀬の話の通りだったら、演能の練習は上座の座長の当屋、つまり調さんの家でやってることになるんじゃないのかな」


「まあそれは行ってみたら分かることだろう。調が用も無しにわざわざ俺たちを呼びつけるとは思えないからな」


 自転車のサドルに跨り惣一郎はペダルをこぎ始める。僕らは先頭の惣一郎と一定の距離を保ち後ろから追いかける。

 暫く進むと、右手の深く生い茂った藪と、左手の地平線まで伸びていくような田畑から挟まれた上り坂に差し掛かる。

 上り坂は蛇のようにうねっており、そのカーブを登り切った先からは煌々とした明かりの点いた神社が顔を出した。中からは、静かな町によく響く低い歌声と楽器の音色が聞こえてくる。

 神社への入り口付近に近づくと、黒いデニムに青麻のシャツといったラフな姿の調が石塀にもたれかかっていた。首には汗を拭くためのタオルがひっかけられている。

 僕たちが近づいてきていることに気付くと、彼女は手に持っていたスマホの電源を切り、こちらへ合図を送る。


「もうそろそろつく頃かと思っていたけど、意外と早かったわね」


「住所があったから迷わずに済んだ。なにやらそっちは忙しそうみたいだな」


 調としてはしたい話もありそうな様子だったが、まずは僕たちを奥の駐輪場へと案内してくれた。

駐輪場と言っても、神社が建築された当時にそんなものがあったわけもないので、大きく広がった砂利敷きの奥にある少しくぼんだスペースにいつも停めているようだった。

 僕らはそのまま調から促されるままに神社の屋内へと入っていく。本殿をくぐるとすぐに、稽古中の白川の人々達が目に入った。本番さながらの気迫のこもった舞に、楽器の演奏。よくよく考えれば、本番の八月頭まであと二週間そこらしか残されていないのだ。

 目を奪われるのは、大勢の役者の真ん中で大きく声を響かせている能面を被った男性。

シテ方であり、つまりこの演目の主役。

 しかしその姿にはどこか違和感があった。体調を崩した調の祖父の代役を受け入れてくれた中野座長にしては線が細いように見える。

 能面を被り衣装を身にまとえば人の印象が大きく変わるだろうことは分かるが、惣一郎と並んでも見劣りしない程の体つきだったことを鑑みれば、一回り小さい気がする。


「もうすぐ休憩の時間だから。それまで少しここで待っていて」


 僕たちは本殿の脇を抜けると、客間のようになっている小部屋に案内された。時間まで腰を下ろしているように指示される。見知らぬ顔が廊下を通るたび、床がミシリと音を立てる。正直居心地がいいとは言えない。調ぐらいはここに居てくれてもいいのに。

 惣一郎はともかく、七瀬は僕と同じく落ち着いていない様子で、借りてきた猫のように部屋を見渡している。先週も似たような目にあったけれど、あの時は佐治さんがいたのだからまた勝手は違う。

 しばらくすると、春日神社全体に響き渡る声が止んで、張りつめていた空気が少し弛む。そうして少しすると、また廊下がきしむ音が聞こえる。

 この部屋に案内されてからの短時間ではあるが、床を踏む音の大きさや数で、どんな気の持ちようの人物が何人接近しているかを判別できるぐらいには体に馴染んできた。

 実は、この技能はついさっき手に入れたものというわけではない。子役時代に生き残るため習得した術であった。

 舞台役者として一通りの基本を教わったのち、父に更なる上達のコツを訊ねたことがある。そのとき父はにやりと笑って、『上手くなりたいなら上手な役者の技を盗め』と、そう告げた。

 技を盗む。言っている意味は分かっても、そのための手管は教えて貰えなかった。しかし、暫く他人の演技を観察していくうちに、僕はある一つの事実に気付いた。それは、その人間特有の動きというものは、足音に表れると言うことである。

 舞台という、全身を使って演技をする場において、体重移動や歩幅は役を表現する上で非常に重要な要素である。そしてそれらの演技は、末端である足音として無意識に出力される。

 僕はその事実に気付いてから、同業者の足元を注意深く観察するようになり、足音一つ聞けば、その人物が今どのような感情を抱いているのか、大まかではあるが理解できるようになった。

 僕が役者としてのステージから降りて数年。精度は流石に落ちているが、癖としてその技は抜けていない。

 そして、今しがた聞こえてきたこの足音は、調が稽古をひと段落して落ち着きを取り戻し、一人で戻ってきたものだろうと。

 しかしながら、低くなった部屋の入り口から頭をかがめて入ってきたのは調一人だけではなかった。深いしわの入った翁の能面をつけた男性は、服装から察するに、先ほどシテ役として演舞の中心にいた人物だ。


「ほら、お爺様。この人たちが私を手伝ってくれた同級生の皆さんよ」


 お爺様と呼ばれた男性は、顔をくくった能面の紐を頭の後ろで外す。そこから顔を出したのは、どこか温和な表情な、能面と少し似ている老人男性だった。


「これはどうも、よく来てくれたね。身内のごたごたで孫がとてもお世話になったようで、お礼を言いたくてお呼びさせていただいたんです」


 老人は、能面の表を上向きにして近くの物置台に慎重に置いたあと、こちらへ向きなおして頭を下げる。


「おや、君は……」


 男性は僕と目が合うと少しばかり目を細める。しかしどうやら何か彼の勘違いであったようで、すぐに目をそらし、調と並んで僕らと向かい合う位置に腰を下ろす。

 調清兵衛、御年七十一歳。白川能上座の座長にして、調の祖父に当たる人物である。惣一郎とも一応面識はあるようで、家族は元気かどうかなどの簡単な挨拶を交わしていた。

 僕は、彼の柔和な会話もほどほどに、先ほどから得も言われぬ威圧感を覚えていることに気付く。

威圧感、あるいは威厳とでもいうのだろうか。

 体つき自体は、隣に座る調とほぼ同じぐらいに見えるのだが、こうして対面すると異様に気圧される。険しい顔つきで威圧しているとか、前のめりであるとか、そういうわけでは決してない。むしろ物腰は穏やかな方だ。

 中野座長を、その体躯と闊達さから剛の者とするのであれば、清兵衛さんは柔と呼ぶにふさわしい。下座とは対になる立ち位置であるという僕の認識は、座同士で別に対立している訳でもないらしいから、きっと間違ったものなのだろうけれど。

 彼が見せる、長年の人生の中で培われてきたのであろう流麗な所作や呼吸の一つ一つから、人間としての豊かさの違いを思い知らされる。

 そんな彼に対して、まずは聞かなければいけないことがあるのだと思い出す。


「あの、詩桜吏さんからはお身体の調子が悪いと聞いていたんですけど」


 僕が口を開くのと鼻先ほどの差で、七瀬が先に質問を始めた。考えていることは、どうやら同じだったようだ。

 調の祖父の欠役。そして上座と下座の不和。この二つの解決が、二週間後に控える水焔の能・野外演舞の実施のために必要だった事実に間違いはない。

 そして先日、僕たちはその両方を解決するべく下座の座長である中野耕三氏の家を訪ねた。話し合いは何とかまとまり、上座の座長の謝罪のもとで、下座が上座へと協力の姿勢を見せる。ここまでが、僕らが理解している話の流れだった。

 だがしかし、今目の前にいる男性は、その話の中心にいた中野座長ではない。

行動に一切のよどみを見せず、正中線を崩さない。古武術の達人然とした立ち居振る舞いを見せるこの人物は、自らを、上座の座長である調清兵衛と名乗ったのだ。


「お恥ずかしながら、一時の気の病だったようでしてな。すっかり具合も良くなって、今じゃほら、この通りですわ。いやはや、身内事であるのに、皆様に迷惑をおかけして申し訳ない」


 口にする清兵衛さんは腰を上げ、軽やかにその場で大腿を上下させる。兎のように軽快なステップからは、彼の言う通り、体調が悪い中で無理をしている訳では決してないことが分かった。

 でもそれじゃ質問の本質には辿り着いていない。僕たちが聞きたいのはそこから更に奥の事。下座との約束は、取引はどうなったのかということだ。

 でも、この場に清兵衛さんが居て、下座の人々がいないという事実。その事実こそが、僕たちの質問に対する清兵衛さんなりの答えなのかもしれない。

 想像で補完するべきなのか。でも直截的に聞くのも忍びないし、これはどうしたものかと頭を悩ませていると、調の表情が、一瞬弱弱しく歪んだ。

 以前までの彼女には、揺れ動く感情は垣間見えても、こういった自らの不安定さを露呈するような表情はなかった。

 見間違いかとも思った。惣一郎をみても七瀬を見ても、彼女の表情の変化に気付いている様子は少しもなかったから。だけど、僕は確かにその変化の様子を見逃さなかった。

 清兵衛さんは言った。この場に僕ら三人を呼んだのは自分だ、と。つまり、今回の事の顛末について聞かれるのは重々承知の上だとも言える。

 だが改めて考えれば、僕たちにそれを糾弾する権利は無い。

 彼は重ね重ね、今回の一件は『身内事』であると言っていた。

 ああそうだ。これはあくまで白川の氏子達の中で解決するべき事案で、本来、部外者である僕らが介入するべき内容では無い。

 目の前に座る清兵衛さんが、下座との確執を生んでまで上座のみで水焔の能を決行しようとする理由は分からない。その想いは、これまでの歴史の末に生まれているものだろうことは理解できる。

そして、上座と下座、両座の関係性は僕らの様な子供がどうこう出来るものではなく、大人の間の話し合いで解決されるべきものなのだから。

 だから、ここで僕らが「貴方は下座との関係を修復するために、彼らへ謝罪はしたのですか」などと口にすること自体、言ってしまえば世間知らずの子供が、弱い立場に胡坐をかいて不躾な発言をしているに全く違いない。

 清兵衛さんは、談話気分で学校での調の生活について尋ねてくる。孫が友達を家に連れてきているのを見たことがない、とのセリフから、彼女の他者を寄せ付けないとする立ち居振る舞いは小さな頃からだったという事実を知る。

 今となっては少しばかりの雑多な会話もこなせるようになったけれど、やはりこんな機会でもなければ彼女と会話をすることは三年間で一度もなかっただろう。

 途中、七瀬が気の強い調の発言に納得がいっていないことを口にしたけれど、清兵衛さんにはそれすら気の置けない間柄の証拠であると受け取られたようだった。

 会話の最中、廊下から大きな足音が聞こえてくる。どこか焦っている様な、それでも急を要するほどではない程の焦燥が伝わってくる。

 入り口から顔を出したのは五十代ぐらいの女性だった。


「あ、詩桜吏ちゃん。ちょっと女性陣に手伝ってほしいことがあるの。急いで水場にきてくれる?」


 僕はふと、入ってきた女性が僕ら三人へと訝し気な視線を向けてきたのが気になった。知らない人間が近親者のみの領域に入ってきたのだ。当然の態度ではあるのかもしれないけど。


「わかりました。すぐに行きます」


 調が簡単に返事をすると、壮年の女性はこちらを一瞥もせずに部屋から出て行った。


「ごめんなさい、私はここで。皆はまた学校で」


 そういい、彼女は急ぎ足で部屋から出て行った。廊下を行きかう人々の様子から見ても、どうやら稽古の合間の休憩時間もそろそろ終わりらしい。


「ううん、もう少し時間のある時にもてなせれば良かったんだけどもね。なにぶん本番まであまり時間が無くて」


 清兵衛さんは自らの不甲斐なさを悔いるように、小さく笑みをこぼす。

彼は僕らに手のひらを差し出し、ぼくらはその握手に応じる。しわがれてはいるが、ごつごつとした逞しい手のひらだった。


「ぜひ、本番を見に来て欲しいものだ。白川の名に恥じない演能にしてみせるよ」


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