第五話
踏み込むペダルはひどく重い。油を差してきた方が良かったか、などと考えている間にも集落近くの石橋は通り過ぎ、集合場所として指定された白川小学校の近くまでたどり着く。
惣一郎いわく、丁度良く目印になりそうなところが目的地周辺に無く、かといって総合運動公園は中継点として遠すぎるとしてこの建物が選ばれた。周囲をある程度見渡しても、まあ確かに一目で判別のつくシンボルスポットらしきものは、ここの小学校しかなさそうだ。
グラウンド沿いに設置された金網フェンスの向こうでは、休日の子供たちが数人でサッカーボールを追いかけまわして――七瀬もいます。
七瀬はどの小学生たちよりも楽しそうな顔でボールを鮮やかに扱っている。というか大人気ないほどの技術差だ。華麗なリフティングでボールを前線に運び、キーパーの頭上を抜けるループシュートがゴールラインを割る。ゴールパフォーマンスまで完璧だ。
七瀬は、フェンス際の木陰で観戦している僕に気付くと、大きく手を振りながら近づいてくる。
「いやあいつらさ、約束してた友達が一人揃わなかったらしいんだ。それで声を掛けたら混ぜてくれたんだよ」
「むしろ七瀬が入らない方がバランスを取れてたと思うけど」
現に今、七瀬が外れて人数が合っていない中でも、彼らは楽しそうにグラウンドを駆けまわっている。技術や戦術、人数などきっと関係ない。
僕らがそうこうしているうちに、惣一郎と調も集合時刻通りに到着した。
自転車を押しながら目的地に向かう道すがら、彼女は僕にだけ聞こえるように小さくつぶやく。
「来たんだ」
「まあその、一応ね」
なぜ、調詩桜吏を手助けするのか。あるいは関わるのかと言い換えても良い。一晩経っても、彼女の問いに対して解答を用意することは出来なかった。
体調不良だのなんだの、理由をつけて休むことも出来たが、結局そちらの方が体力のいる選択だと結論づけ、僕は今この場所にいる。彼女はそれ以上僕を問い詰めることは無く、先頭を歩いていた惣一郎の隣に歩をつける。
七瀬はそんな僕の異変に気が付いたのか、少し近寄り声をかけてきた。
「一体どうしたんだよ。お前と調ってそんなに微妙な感じだったか?」
「……別に大したことじゃないよ」
違和感程度のモノだったのか、七瀬も特に気にはしていないらしい。
僕としては、あれほどまでに仲が険悪だった七瀬と調が、この田んぼで挟まれた市道で共演を果たしていることの方に、違和感を覚えるんだけれども。
「そんなことよりもさ、なんで七瀬って当たり前のように人助けをするのかな。当人じゃないから程度は分からないけど、きっと大変だよね?」
僕の唐突な質問に対し、七瀬は少し頭を悩ませるようなしぐさを取って目を瞑る。しかしある程度は七瀬の中で事前に理由付けが出来ていたのかもしれない。
「俺もうまく言えないんだけどさ。なんていうか、周りの人間が不幸な思いをしているって気づいてしまった時点で、胸の奥がむず痒く感じるんだよな」
「それは正義感がゆえに、ってこと?」
いや、それは違うと七瀬は首を横に振る。
「正義感とかっていう大層な物じゃないんだ。ほら、深裄だって家族や友達が不幸な目にあってたら、嫌な気持ちになったり助けたいと思ったりするだろ?
俺は多分、そう感じる対象範囲が普通の人より大きいんだろうな」
確かにその気持ちは分かる。僕だって、家族や友達が苦しんでいて、助けられる立場に居るとしたらきっと手を差し伸べるだろう。
でもそれだって、僕に可能な範囲であるならば、の話だ。どの手段を講じても難しい事案や、自分にも不利益が出るかもしれないとしたら、僕はきっと戸惑うことなく手を引いてしまう。だから、彼女が僕に投げかけた質問に対して七瀬の考えをそっくり流用できるようには思えない。
何故そんな質問をしたのかと、七瀬が不思議そうにこちらを見るのとほぼ同時に、先導してくれていた調と惣一郎の足が止まった。
彼女がそう指さす先には、土塀で囲まれた日本家屋が悠然と建っている。
集合場所だった小学校から伸びた国道沿いを歩いてきたが、現代の洋風住宅に見られるタイトなコンクリート造りの家は次第にその数を減らしていた。そしてその最奥たる現在地に、この見事な和風建築があるというのは当然の摂理ともいえる。
「ここが下座長の家よ。みんな……特に七瀬君は失礼のないように」
「なんで俺だけに言うんだよ」
七瀬の質問はどうやら調には届かなかったようだった。
彼女は入り口左側の壁に取り付けられたインターホンのボタンを押し、その場から一歩後ろへと下がる。
玄関の戸の鍵が開かれた音がすると、その先からは見覚えのある人物が顔を出した。
「やあみんな久しぶり。待ってたよ」
「佐治さんじゃないすかっ、お久しぶりっす」
昨日の電話の相手であり、この場を取り付けてくれた人物。どうやら僕たちの到着を目的地で待っていてくれたらしい。
実家然とした立ち居振る舞いから親縁関係にあるのかもとも思ったが、どうやらそういうわけでも無いらしい。
「昔から中野のじっちゃん……、座長には良くして貰っていたからな。まあ俺たちに限った話ではないが、同じ座の氏子同士は大体家族みたいなものさ」
居間に通された僕らは、机を取り囲むように腰を下ろした。良く冷えた麦茶と個包装に入れられた菓子は、僕たちが来ることを見越して準備してくれていたのだろう。廊下を挟んで向こう側に見える台所には、この家の住人と思われるお婆さんの足だけが時折見える。
「悪いな、少し前の用事が長引いているみたいで。もう暫くしたら来ると思うからそれまでここで待っていてくれ」
楽にしていてくれて良いから、と佐治さんは言うと、僕たちを茶の間に残して台所へと消えていく。
しかるに他人の家というのは、その家族特有の生活感がみられて、どうにも居心地がいいとは言えない。しかし、こうも住居人との関係性がかけ離れて過ぎていると、そういった緊張感すら湧かない自分がいることに気付く。
座布団の上から家の中を見渡すと、僕らがいるこの茶の間は隣の部屋と襖でのみ隔てられている。これらの襖や障子をすべて開けば広く抜けた一つの部屋となる。親戚など大人数で行われる催事が多かった昔は、自由に間取りを変化させられる家が好まれたらしく、この家もその例から漏れていない。
縁側に取り付けられた深い庇と葦簀は、照り付ける日光が直接室内に入らないように調整されており、空調機が無くとも暑さを緩和している。
そんな開放感のある家屋の中でどこか落ち着かない様子の調は、背筋を伸ばして正座を崩さない。肩肘を張っているというよりかは、遠足のバスで酔ってしまった同級生に近い印象を受ける。
「顔色悪いけど、どこか体調でも悪い?」
「い、いえ。気にしないで。ちょっと慣れない場所で緊張しているだけだから」
調は親指をこぶしの内側に入れて握りしめ、浅く呼吸をする。緊張しているときの、彼女なりのルーティーンであるのかもしれない。
そんな調の精神はつゆ知らず、はす向かいに座る七瀬は机の上に置かれた茶菓子に手を伸ばす。
「そういえば今更ながらに確認しておきたいんだけど。
今日この場所に来た目的は、下座の座長に調の爺ちゃんの代役をお願いする、ってことでいいんだよな」
七瀬の質問に対し、調は軽く頷き肯定の意を返す。
「ええ。それと……出来れば運営の手伝いもお願いできたらと思っていて。現状だと、貴方達の様な町の外の人たちにも協力を要請しなければならない状況だから」
一般市民である僕たちからしてみれば意識の及ばない部分ではあるけれど、多分この白川能という催事自体、部外者が関与すること自体があまり望ましくないのかもしれない。
だがそれならば少し疑問が残る。この町に住む人間は、座という括りが違うだけで同じ神社の氏子たちの集まりであるはずだ。
であるなら、設営などを手伝っていてもおかしくはないし、現に佐治さんはあの場に居て仕事をこなしていた。わざわざ協力を頼む必要などあるのだろうか。
「……正直言って、今回の訪問で私たちの要求が通るとは考えていない。そういった意志が、こちら側にあると言うことが伝わればいいの」
「えっと、調さんが言ってる意味が――」
言葉を挟もうとした瞬間、僕たちが同様に入ってきた引き戸が勢いよく開かれる。
そこから現れ出たのは、老年ながらにして精強な背の高い男性。下から見上げているが、多分僕らの中で一番体つきのしっかりとした惣一郎と並んでも、決して見劣りのしない体格を兼ね備えている。
その後ろから、手伝いをしていた佐治さんが台所から出てきている。
「あ、丁度良かった。こちらが中野のじっ……中野耕三さん。ここの家主だよ」
佐治さんの紹介を聞くと、中野耕三と呼ばれた男性は太いため息を吐く。
「はあ……勲よぉ。ふらっとどこかに行って何年も姿を見せないと思ったら突然帰ってきて、また人の家を我が物顔で歩き回りやがる。ここはお前の家じゃないって何回言ったらわかるんだ」
佐治さんが数年間この土地から離れていたという話は初めて聞いた。目が合った惣一郎は、小さく首を縦に振る。
中野さんの強い語気の中には、いたずらをした息子を窘めるような感情が含まれている。きっと彼らの間ではいつも通りのやり取りなのだろう。佐治さん、改め佐治勲氏は中野さんの小言を軽く受け流し、僕らの方へ寄る。
「そして彼らが昨日話してた子たちです。と言っても、詩桜吏ちゃんと惣一郎くんのことは分かりますよね」
「まあな。久しぶりだ、詩桜吏ちゃん、惣一郎くん」
「お世話になっています」
重ねて惣一郎も中野さんに向けて会釈をする。調に限らず、惣一郎もこの白川の町とは縁深い。どこかで面識があったりするのだろう。
僕と七瀬はその後に続いて立ち上がり、頭を下げる。四人分の自己紹介をするのも手間だろうし、そもそも今回の件に限って言えば、正直調の顔と名前が一致していればそれで話は進む。あくまで僕たちは彼女を奮い立たせるためのお飾り付き添いであればいいのだ。
「ああいい、楽にしてくれ。勲、俺にも麦茶を頼めるか」
佐治さんは再度台所へ向かい、中野さん用のグラスに氷を入れて茶の間へと戻ってくる。
上の位置に座った中野さんは、室温で少しだけ温くなった麦茶をグラスに注ぐ。中の氷は膨張し、パキパキと冷たい音が鳴る。
「それで、話と言うのは何だったかな」
中野さんからの問いかけに対し、調は座りを整え直して向かい合う。
「単刀直入に申し上げます。本日は、下座の皆さんに水焔の能への協力をお願いしたく、佐治さんにこの場を用意していただきました。
ご存じの事かと思いますが、私の祖父である清兵衛は先週から体調を崩し、一か月後に控えた演能が困難な状況となっています。
白川能の伝統を絶やさない為にも、中野さんに今回のシテ方の代役をしていただけないでしょうか」
伸ばした背筋は丸めないまま、先ほどとは違って深く頭を下げる。僕らも慌てて中野さんの方へ向き直し、礼儀ばかりの低頭を見せる。
歳は大きく離れていようと、調は上座の座長代理としてこの場に来ている。年相応の青さで言葉を交わそうという甘えは許されない。
頭を下げるときにちらと見えた相手方はと言うと、グラスの麦茶を軽く含み、その口の端を引き結んでいた。
「やめてくれ。子供に頭を下げさせるのは趣味じゃないんだ」
白髪交じりの後ろ頭を掻きながら、立派なヒノキの生えた庭に面した縁側へと歩いていく。