第四話
退校のチャイムが鳴るまで続いた作戦会議を終えると、調は用事があるといってすぐに帰っていった。
僕はいったん自分の教室に戻り、荷物を纏めて校門前で二人と合流する手筈だ。その途中、部活を終えて帰宅する生徒達で下駄箱周辺が混雑する。久しぶりにこんな時間まで校舎に残っていたから忘れかけていた。
その中ですれ違った野球部員たちが、手首を境界線とした不自然なコントラストで定期考査の話をしているのが聞こえてくる。どうやら丁度二週間前を迎える今日から部活動が休止となるらしい。
彼らの発言にどこか焦燥感を駆り立てられた部分があるのだろう。待ってくれていた二人に断りを入れて、急遽、駅前の書店に向かうことにした。
別に怠けていたわけじゃないし、人並みに日々の勉強だってしている。だがどこかスイッチの切り替えが出来ていなかったのも確かだ。部活動に励んでいる人間とは違い、帰宅部である僕には、自身の判断でエンジンをかける必要がある。そのきっかけ作りのために、身銭を切って参考書を買うというのは悪くない手段だろう。
この書店は敷地内にカフェが併設されていることが特徴的でもある。目当ての本を見つけたら、すぐさま閉じ紐をほどくことの出来る環境が整えられている。駅周辺に建てられている諸学校から、徒歩でも程よい距離にあるためこの時間には様々な制服姿の学生が見受けられる。文房具コーナーにいる学生たちが着ている天鵞絨色の制服は東高のものだったはずだ。
少し奥まった場所にある参考書コーナーに向かいニガテな教科のものをいくつか見繕うと、その中から最も図解説の多い本を一冊選ぶ。こういうのは端的な分かりやすさより、長時間見ても苦痛を感じにくい方が結果的に身になるとは最近気が付いたライフハックだ。
選んだ一冊以外の参考書をすべて棚へと戻し、一直線にレジへ向かおうとする道中には特設された文庫本コーナーがあった。
頻繁と言うほどではないが、入用があるときには近場で一番大きなこの書店にお世話になっている。その記憶と照らし合わせてみても、こんなエリアが今までに存在して居た覚えはない。もしかしたら、新しくバイトとして、ポップ作成が得意な人間かあるいは熱意のある本好きが雇われたのかもしれない。
それら一冊一冊に対して手書きの簡単なあらすじが添えられており、見た者の購買意欲がそそられる。僕はその中で一つ、やけに目を引く装丁の本に目が留まる。表紙にこれでもかと明朝体で詰められた文字は、美麗でコンパクトな絵が描かれている他の本たちと比べて異様な雰囲気を醸し出していた。店員作のポップには『七月●日、最新作発売!』と、丁度今日の日付が書かれている。
――不快だった。ただただ羅列された文章は、込められた意味に関係なく際立たせている。誰が見ても目につくその表紙は、商業という側面から作品のフレームを歪に変化させ、先入観を植え付ける。
理解はしている。これはただの広告で、作品が多くの人の目に触れるための単なる手段に過ぎないことにも。
そして何より、外皮を曲解することで裏側に隠された本質が見えてくるのだと信じ切っている自分が、夏の夜に体に張り付くシャツのように、酷く不愉快だった。
「その本、買うの?」
不意に後ろから声が掛かる。何者かから突然仕掛けられたアクションに驚き、僕はすぐに返事をすることが出来なかった。そしてただ脊髄反射のもと、こわばった表情で声が聞こえてきた背後に振り返った。
そこでは、先ほど教室で別れたはずの調詩桜吏がレンズ越しに立っていた。きっと僕は、鳩が豆鉄砲をくらったかのような間抜け面をしたまま立ち尽くしていることだろう。
ああ、彼女のスマホからシャッター音がよく聞こえる。
「ありがとう、いくらだった?」
僕は、カップが二つ載せてあるトレイをローテーブルの上に置く。そのうちの片方、カフェラテを調の目の前にずらすのと同時に、彼女は学校指定のセカンドバックの中から三つ折りベージュの財布を取り出す。
「いいよ、これぐらい。この前に臨時収入もあったし」
「雇い主は私たちだから、それを言ったら元の木阿弥の様な気がするのだけれど……。まあいいわ、ご厚意は受け取っておくことにする」
彼女は財布をしまうと、そのままカフェラテに口をつける。僕はと言うと、レジの横に置かれたケースから取ったスティックシュガーを一つだけコーヒーの中に入れてから飲み始める。ブラックの苦味も良いけど、今は少し甘さを取りたい気分だ。
書店の特設コーナーで彼女に情けない姿を見せた後、彼女から少し話をしないかと言われ併設されたカフェへと入店する。
もし可能であれば今すぐにでも帰りたい気分だったのだが、逃げ帰るように誘いを断れば先ほどの緊張に更なる意味が含まれてしまうと思い、なんとか踏ん張る。そして何より、彼女のカメラフォルダに収められている写真が削除されたことを確認してからでなければ、今夜は枕を高くして寝られないだろう。
しかし彼女はそんな僕の思考など気にも留めず、書店で購入した数冊を手にして、落丁などが無いか確認している。
「あ、その本って……」
彼女が最後に取り出した一冊は、先ほどの文庫本コーナーに置かれたあの異質な本――の作者が書いた最新作だ。
森島山門。数年前までは新進気鋭の作家として名を馳せ、現在は新作を出せばすぐに重版出来の人気作家だ。綴られる文章は常に新鮮で技法に富み、それでいて読者にはどこか郷愁を思い出させる、とは評価でよく聞く文言だ。メディアには一切姿を出さず、この全人類マスコミ社会においても、その面が外に出たことは無い。
そして僕があの日、オーディションで落とされた舞台の原作者でもある。
作者に恨みはないし、そもそも落選理由だって単なる僕の実力不足に過ぎない。役理解のために過去作を含めて読み込んだりもした。だが、僕自身これらの本を今となっては一切手に取らないのは、きっと無意識のうちではない。
そんな偏り極まる知識で、目の前の本が既知の物であるかのような反応を取ってしまったことに、僕はすぐさま後悔する。
「和田辺くんも森島先生の本が好きなの?」
先ほどまで椅子に深く腰掛けていた彼女はすぐさま前のめりの姿勢を取り、目を煌めかせる。だがここで無理に彼女と話を合わせる必要はない。申し訳ないが知らないものは知らないのだし。
「ごめん、実は昔少し読んだことが有るだけで、詳しくは知らないんだ」
嘘はついていない。森島山門の作品を見なくなったあの日から、五年は経っている。速筆でも知られる彼の著書は、過去に数冊読んだだけの僕が何かを語れるほど浅くはない。でもどうやら、僕の返答は彼女の予想の範囲内だったようだった。
「やっぱりそうよね。さっき声をかけたとき、あなた酷く思いつめた表情をしていたから。好きな物を見つめる人間は、あれほど眉間にしわを寄せないだろうし」
同胞を見つけられなかったことに対して、残念そうな表情をみせる彼女は、それでもなお熱量を持って語りを進める。
「実は、今日は森島先生の新作の発売日だったんだ。皆に協力してもらう立場で先に帰るのは申し訳ないと思っていたのだけれど、この日だけはどうしても譲れなくて」
ははっ、と片手を後頭部に回して反省するそぶりを見せてもなお、本懐を遂げたことに対する達成感のようなものが彼女から滲み出ている。余程のフリークなのだろう。
「通販で済ませるのは駄目なの?」
「ほら、私の家は少し辺鄙な場所にあるでしょう。それで昔、痛い目にあってね。いつまで経っても配達業者が来ないもので、連絡したらどうやら別の家に置いてきてしまったとのことでね。
その日以来、森島先生の新作発売日には自分の手で買うことにしているんだ」
アルバイトの日に聞いた限りでは、調家は運動公園から更に奥まった場所にあるらしい。その土地の人間ならまだしも、たまに配達に来る程度では家を間違えるのも致し方ない気がする。まあそのリスクを排除したいのであれば自分で買いにくるに越したことはない。ただ本屋に寄るだけなのだし。
「そういえばさ、僕に話したい事ってなんなの?
もしも白川能についてのことだったら、惣一郎と七瀬がいるときに一緒に聞いた方が効率的だと思うんだけど」
僕の質問に対して彼女は即答することは無く、トレイに載せられた予備のスティックシュガーをカップに入れ、ラテの中に一の字を数回描いていく。
口に含み、まだ足りないと今度はガムシロップを注ぐ。ほどよく混ぜながら、そのトルクに沿うように、彼女は伏し目のままゆっくりと口を開いた。
「無理に手伝ってくれようとしなくても良い。気持ちだけでも、ありがたい」
ぽつりとこぼした彼女の言葉に、先ほどまでの力感は無い。気の抜けた、それでいて期待という感情からは程遠いような、小さな子供に諭すような、そんな。
「い、いや。いきなりどうしたのさ。僕だってあの二人と一緒で、調さんの力になりたくて……」
「なぜ君が、私に協力したいと思えるのかしら。
言葉にするのは無粋かもしれないけれど、二人には明確な動機がある。隣人関係や自身の美学。そのベクトルは関係ない、だけどそこに『在る』ことだけは分かる」
彼女の目線を感じる。コーヒーカップへと落とされた僕の視線は、今ある彼女の表情を捉えることは出来ない。
「だが君はどうかな。正直言って私には、君自身の意思があの場に介在しているとは思えなかった」
決して責め立てるような語気ではなく、滔々とありのまま感じたことを伝えるような誠実さを、彼女の言葉から感じられた。
きっと彼女はこう言いたいのだ。君が私を手伝うメリットは何なのだ、と。
「無論、世の中には困っている人を見捨て置けないという人間が存在することは知っているよ。でも私には、君がそういった類の人種であるとは思えない。それは君たちの中で言うと七瀬君の役回りだ。まだ出会ってから一週間しか経っていないけどね」
机の上に載せられた数冊の本は、余裕のある大きめのレジ袋に再度入れられたあとに、彼女のセカンドバッグへとしまわれる。
自問自答は得意じゃない。脳内で行われる弁論大会は、いつも一人のスピーチ会場になり果てる。
僕だって、困っている人をみたら助けてあげたいという気持ちが生まれないことは無い。しかしそれは人並みの範疇だという自覚もある。そして同じように、面倒ごとに巻き込まれたくないという感覚も常人のソレだろう。
友達が手伝っているから、とかも違う気がする。今までだって、七瀬はその正義感で困っている人間を助けてきたけど、傍観者であったことばかりだ。
僕は、この胸にある仄暗い靄に、名前をつけられないことに気づく。
やっぱりお金は払うわ、と彼女は言い、定価よりも少し多い金額をトレイの上に載せる。立ち上がる彼女を引き留める間も理由も、僕の手元には無かった。