第三話
惣一郎が調の異変に気が付いたのは、教室の中で怒声を上げながら電話応対をする彼女の様子を目にしたのが理由だった。激昂した様子の彼女を見たことがある人間はその場所には居なかったらしく、彼女が荷物をまとめて教室から出ていくまでの数十秒間は誰しもが口を開かなかったらしい。
一日だけならまだしも、二晩を越してもなお冷めやらない調の怒りは、惣一郎の世話焼き癖を発露させるには十分なものだった。
困っている人がいたら見捨て置けない惣一郎の性格は美徳だと思う。だけどさ、予想されただろう厄介ごとを、否応なしに僕と七瀬へと共有するのはすこし違うと思うんだよ。
目の前の彼女は不機嫌な様子を隠すつもりなど一切なく、口の先を尖らせて窓の外を睨みつけている。怒りの矛先をどこか自分とは別の領域に向けなければ、今にも暴発しそうな具合だ。
長い授業からやっと解放された放課後。なおも教室に残りたいとする人間は稀有だが、テスト二週間前ともなれば存在しないわけではない。みな夏休みの補講は嫌なのだ。
だがしかしそれらの人間は、冷房の効いた集中できる環境を求めている訳で、現状の様な精神的に冷え切った環境を求めているわけではない。よって、惣一郎たちのクラスに残留していた少数の生徒は、調から醸し出されるオーラに耐え切れず、新天地を求めて泣く泣く旅立って行った。
横に二つ並べた机を挟んではす向かいに座る調は、一つため息を落とすと、先ほどまで空へと向けていた鋭い視線を卓上に向けてくる。
「なぜ私に関わるの。あなた達には関係のない話でしょう」
涼し気な目元や整った顔立ちは本来彼女の魅力になりえるが、こと現時点においては威圧感を感じさせる刃物となっている。彼女は右の横髪を触りながら、この場に居ることが不本意であることを暗に告げる。
それに負けず劣らず優れた器量を持つ七瀬は、彼女の剣呑な態度に不満を覚えたのか、少し怪訝な表情を見せる。
「あのな、俺達だって惣一郎に頼まれたからわざわざ来てやってるんだよ。じゃなきゃ、誰がお前みたいな礼節の無い女と会話するもんか」
「なんですって?」
今にも掴みかかりそうな姿勢を取る調を、隣に座る惣一郎が何とか宥めつける。
実はこの中で、バイト以前に知り合いではなかったのは僕と調の間だけである。惣一郎と調は住んでいる集落が隣であることによる家族同士の仲。そして七瀬とは去年の学園祭におけるミス・ミスターコンテストで面識がある。
しかし二人の性格は水と油。イベントを盛り上げようとする七瀬と、それを下らないと一蹴する調詩桜吏。程なくして壇上で言い負かされた七瀬は、泣き目のまま舞台袖へと消えていった。
観客として見る分には楽しめる内容だったが、アドリブ一本の喧嘩ということで、以降は台本の作成が命じられたらしい。
彼らの関係性を忘れていたわけではないが、当時から一年近く経ち大人に近づいた現在であれば大丈夫だろうという判断だった。先のバイトだって滞りなく進んだわけだし。だがそれは大きな勘違いだったようで。
「この人がいるのなら私は帰るわ。話したって時間の無駄だもの」
調は背中側に置いた荷物を抱えて席を後にしようとする。しかしそれを、惣一郎が再度止める。
「七瀬が挑発めいた言葉を放ったのは俺が謝る。だから、何も説明せずに帰るのだけは止めてくれないか」
七瀬の代わりに深く頭を下げる惣一郎の姿に何も感じないほど、調詩桜吏は愚かな人間では決してない。あの日見せた彼女の喜怒哀楽は、普通の人間よりも色彩豊かなものだったのだから。
彼女の昂った感情が急速に落ち着いて行くのが分かる。席に戻ると、対面に座る七瀬に向かって「私が悪かった」と一言告げる。
「七瀬もさ、何か言うことあるよね」
へそを曲げていた七瀬も流石に自身の幼稚さに感づいたのか、皆に聞こえるか聞こえないか程度の声で「俺も言い過ぎた」と呟いた。
小学教師の心労は計り知れない、とは、この場においてけっして口にしてはいけない台詞だろう。
白川能――水焔の能。その野外演目が中止となったのは、調詩桜吏の祖父、つまり上座長の体調が悪化したことが原因だった。最初のうちは、役所間や集落内で発生する雑務を代理である調が処理することで事なきを得ていたらしい。しかしそれも主役であるシテを務める座長が存在することが前提の話。徹底したシテ中心主義である能において、座長の欠番はありえないことらしい。
そしてどの団体においても、主役が立たないことに対するモチベーションの低下というのは、どうしても避けられないようだった。半端な内容を披露するぐらいであれば、いっそのこと今年の野外演能は中止するべきである、という声が大きくなるのは時間の問題であったらしい。
そもそもが、神に奉ずるための能として発展してきた手前、無理を推してまで執り行う必要はないという判断なのだろう。
「でもさ、こういう不測の事態に備えて代役を用意しているものじゃないの?」
「もちろん、後見と呼ばれる役目の人物がいるわ。小道具の受け渡しなどの補助進行役で、シテに何か有ったときには代役を務めなければならない。でも今年は人手不足で、後見は経験の薄い私が勤めることになってしまっていたの」
調の祖父は今年の水焔の能を担当する上座の長で、昨年古希を迎えたらしい。しかし、調のスマホに映し出された、半年前の演能の動画を見る限りでは、その歳を全く感じさせない生命力と悠然さを兼ね備えていた。彼の説得力は、幼い頃に舞台袖から見たベテラン舞台俳優に感じたそれに等しい。
だからこそ、上座の人間たちは誰しもが自分の役の練度を最大限仕上げることに注力し、後見の役目は調に任せていた。そして座長が健在であったならば、歴代の水焔の能でも随一の完成度になるだろうことは氏子達の中でも話題になっていたらしい。
「実は祖父の体調が悪くなりつつある段階で、下座の方たちにも出演の協力をお願いしようとしたの。でもそれには祖父がなぜか反対していて」
座は違えども、同じ春日神社を奉る氏子の仲間たち。協力要請を仰ぐことは何らおかしいことでは無いように思える。
だがなぜか、調のお爺さんはその要請を出すことに否定的な様だった。そしてその理由もなぜか、関係者たちには伝えていないらしい。
彼女はうつむいたまま、言葉を繋げる。
「でも、それでも。私にはこの事態を何とかしてみせる自信があった。座長が執り行う必要のある雑務や
氏子間での連携は全て引き受けて、取材も必要最低限のみに留めた。祖父には療養に専念してもらって、万全の状態で演能を行ってもらうつもりだった。
でもそれは所詮、年端もいかない子供の自己満足だったのかもしれない」
机の上に置かれた彼女の両の掌は、一度硬く握りしめられた後、ふっと力が抜けたように弱弱しく開かれる。そこには、先ほど七瀬と言い争いをしていたときに見られた怒りとはまた違う、無力な自分に対しての自嘲が見て取れた。
彼女のように、必死に事を成そうとしても、時として行動以外に傾斜をつけられることは往々にして存在する世の中だ。突然、集団の顔が入れ替わって、はいそうですかといかないのも理屈としては分かる。そうして上手く立ち行かなくなってしまった団体を、僕は小さい頃に何度も見てきた。そして、それは――。
「そんなの、あまりにも自分勝手すぎじゃねえのかよ」
七瀬はそう言い放ち、怒りの感情をのせた拳を目の前の机に叩きつける。彼は続ける。
「面倒ごとは全部調に任せて、いざ主役が出られないかもしれない、ってなった途端やる気を失くしただなんてあまりにも都合が良すぎるんじゃないのかよ」
「か、勘違いしないで。うちの人達も決して悪気がある訳ではないの。わたしにも彼らの不安な気持ちは分かるから」
七瀬を宥める調の口調は、先ほどよりもかなり落ち着いている。自分よりも感情的になっている人物を見ると、自らを省みることが出来るとはよく聞く話だ。今の調はきっとそれに近い状態なのだろう。
彼女の隣で、目をつぶりながら天井を仰ぎ考え込んでいた惣一郎がゆっくりと腕組みをほどいて口を開く。
「まだあきらめるのは早いんじゃないのか。下座には確か佐治さんもいたはずだ。本番まで一ヶ月しかないが、今からでも協力を仰げば十分間に合うはずだ」
「そりゃあ良い。佐治さんだったらきっとこっち側の力になってくれるはずだ」
先日のバイトの時に懇意にして貰った佐治さんの名前を聞くと、七瀬はパッと、にこやかに笑顔を作る。
「あなた達、手伝ってくれるの?」
七瀬と惣一郎の間で進んでいく会話を横目に聞いていた調は、遠慮がちに二人へと問いを投げかける。
「仕方ないだろ。ここまで詳しく内情を聞いちまったら手を貸さないわけにはいかないしな」
「ああ、同じバイトを手伝ったよしみだしな。それに白川能は誇るべき素晴らしい芸能だ。もしまだ再奮できる余地があるのであれば、ぜひ助力したい」
熱のこもった二人の発言に対して、調は深く頭を下げ感謝を伝える。
放課までの作戦会議の後、七瀬はいつの間にか交換していた佐治さんの携帯に連絡をしていた。どうやら、明日の昼に下座長と話をする機会を取ってもらえるらしい。
だが佐治さんは、席を設ける条件として、なぜか僕らもついてくることを要求してきた。頼む立場である手前、その要求を断ることは出来なかったし、断る理由も特にない。少し不思議に思いながらも目的が果たされたことに安堵し、明日の集合時刻だけ確認して電話を切った。
ふと、僕は会議の中、調がどこか楽し気な表情を浮かべていることに気が付く。
あれだけいがみ合っていた七瀬と調も、いつの間にか意気を合わせて今後の話をしている。惣一郎も助力を頼めるかもしれない知り合いにアタリをつけていた。
窓の外には、落ち往く夕陽が空を茜色に色づけている。夏の夕暮れはここからが長い。
遠くには群となった鳥たちが飛行している。あれはムクドリかアトリか。
その中にいて一羽だけ、まとまりから離れてしまっている個体がいる。遅れては近づき、また遅れをとったかと思えば、なんとか集団の一部と呼べるほどの後方に位置する。
群れは歪な編隊を描いたまま校舎の陰へと消えていった。