第二話
白川能。
この土地に住む農民の手によって脈々と受け継がれてきた伝統芸能のことだ。能とは専用の面と装束を身につけ人間の喜怒哀楽を表現する歌舞劇のことだ。対して白川能とは、つまるところ神への奉納であり、本来は大衆の前で演ずる目的で成立したものではない。しかしその中で、伝統の灯火を絶やさんと観衆の前で披露する演目もある。
それが「水焔の能」だ。波一つない水面に映る躍り手と焔。文献の中でしかない知識であるが、それは幻想的な舞であるという。
その演舞の機会を一か月後に控えた今日。設営リハーサルの為には人手が必要で、だがしかし若い人手というものは簡単に用意できる訳でもない。本番当日ならまだしも、リハーサルに氏子の出席を強要することは難しかったらしい。
氏子とは、その土地で祀られている神へ捧げるお祭りを執り行う人々のことだ。白川能を催す春日神社周辺の集落に住む人々はみな氏子の立場として暮らしている。
その集落の近辺に住む惣一郎は友人を手伝いに呼んで欲しいと言われ、その流れで僕らに声が掛かった。急な呼びかけであったため、割とまとまったアルバイト代を出してくれるらしい。定期考査はそれなりに近いが、この前に好きなアーティストのアルバムを買って金欠だったため、断る理由は無かった。
病院の跡取り息子ながらに厳しく育てられている七瀬も同様の理由だ。まあきっと七瀬なら、金欠であろうとなかろうと友人の頼みを無下にしないだろうけど。
そして、行き過ぎた妄想で生み出された「もう一人のお手伝い」もあるいは、なんて考えていた。
しかしその謎は、子供ながらに設営の担当者たちへ手際よく指示をする、制服姿の彼女の存在によって解明された。
彼女が身につけている薄いストライプの入ったワイシャツに、群青色のスカート。この辺りで女子の制服にブレザーを採用している高校は二つだけだ。その片方、青を基調としているのが僕たちの通う高校であり、市内では一応進学校ということで名が通っている。つまり僕たちと彼女は同窓生ということだ。
そして僕は彼女を、調志桜吏を知っている。
こと芸能界において、名前を憶えて憶えられることは非常に肝要だった。稽古での円滑なコミュニケーションに役立つことは勿論、次の仕事にもつながる。その時の癖は、無意識と呼べるレベルまで体に刷り込まれている。しかし彼女はそんな意識を持たずしても、印象づく人物だろう。
明眸皓歯、眉目秀麗で美人薄命……は少し違うか。どんな学校でも、他のクラスまで知れ渡る程に華がある人物というのは存在する。調詩桜吏はその中でもひときわ人気を誇っている。「他者と群れず、外連味を感じさせない性格が、ミステリアスな彼女の魅力をより際立たせる」とは隣の席の田中君という、信頼できる情報源による評価である。とにもかくにも彼女はちょっとした有名人という訳だ。
そんな彼女が白川能という閉鎖的な環境に関わっていて、しかも陣頭指揮を執っているというのだから驚きだ。
「惣一郎。調さんはここの関係者なの?」
「ああ。調は白川能の上座、そこの一人娘なんだよ」
僕たちは、振り分けられた単管パイプの組み立て作業が中盤を迎えると、今のうちに休憩を取るよう指示された。ご自由にどうぞ、と書かれた机の上から缶コーヒーを手に取り、簡易的に作られた休憩所の中のベンチへ腰を下ろす。
カミザ、上座。惣一郎の言葉を素直に受け取るのであれば、上座があれば中座・下座があると考えられそうなものだ。しかしそもそも、上座という言葉が一体何を指すのかが分からない。舞台の世界では、観客から見て右手側と左手側を上手・下手とする文化があるが、それに近い考え方なのだろうか。
惣一郎は僕の疑問に追加の情報を加えてくれると思っていたが、どこから説明したものか、あるいは人に説明できる程の知識が手元にないといった表情を見せた。
「実は俺もあまり詳しくなくてな。町に住む人間が大きく二つの派閥に分かれている、ってとこまでは知っているんだが……」
「そこから先は私が説明した方がいいかな?」
曖昧な知識からなんとか解答をひねり出そうとする惣一郎の背後から、この質問の回答者に最も適する人物が姿を表す。
調詩桜吏は僕たちと同じように、参加者用に準備された飲み物が陳列されている机から、冷えたお茶を手に取る。
「こんばんは。私の名前は調詩桜吏……と、それはもう古閑くんから聞いているかな?」
彼女の名前は、別に惣一郎から聞いて知ったわけではないが、元から知っていたと口にすればどこか余計な角が立つかもしれない。僕は肯定とはいかないまでの頷きを持って彼女の質問に対する返答とする。
「二人とも、今日は手伝いに来てくれてありがとう。調家の総代代理としてお礼を申し上げさせていただきます」
深々と頭を下げる彼女には、学校の廊下で見受けられる冷たい圧力とはまた違った印象を抱く。反して暖かくという訳ではなく、より年相応でないという意味合いではあるのだけれど。
「はじめまして、調さん。同学年の和田辺深裄といいます。惣一郎に人手が足りないって聞いて少しでも力になれればな、と思って」
「はは、別に気を遣わなくても良いよ。アルバイト代を餌に人員を引っ張ってこようとしたのはこちら側なんだから」
口元を綻ばせた彼女は、そのまま滑るように目線を手元のクリップボードへと移す。胸ポケットに入れたボールペンを一度鳴らすと、周囲を見渡しチェック項目が複数書かれた書類にメモを書き込んでいく。細かく書き連ねられた文章には何が書いてあるのか、こちらの角度からは確認することは出来ない。
そんな彼女の作業を止めてまで、先ほどの話題は繰り返すべき内容なのか少し戸惑ったが、答えると言ったのはあちら側だ。
「あのさ、さっきの質問の件なんだけど……」
「あ、そうだったわ。でもごめん、少し待ってもらっても良いかな」
彼女は一息で残りの空欄を生めると、これでよし、と小さくつぶやく。
「さて、どこから話したものか。きっと君たちに上座下座の説明をするためには、能を行う芸能集団について知識が必要かもね。
能はシテ方、ワキ方、狂言方という三つの役職による分業制なんだ。そしてシテ方は、いわゆる主役を務めあげる集団で、この国では現在、『能楽五流派』といって大きく五つの流派に分かれている。彼らのうちいくつかは室町時代にその源流を見るんだけど、それはまた今度でいい。
そして過去の彼らのように、興行の為にまとまった能集団の事を「能座」という名前で表していた。まあ今となっては、座という言葉は使われなくなりつつあるんだけれど。
その中で私たち白川能は、その五つの流派のどれにも属さずに、この集落で独自の発展を遂げてきた。言葉だけでは分かりづらいけれど、これはとても素晴らしいことなんだよ」
そう語る彼女の頬は、少し紅潮していた。少し冷える夜の気温と反比例するように、彼女の言葉には熱がこもっている。その自覚はどうやら彼女にもあったようで、いつの間にか詰まっていた僕たちと彼女の物理的距離は、我に帰った彼女の冷静な判断力でもとの間隔へと戻っていく。
歴史的に長く続いている芸能というものは、国や政府など、その時代における強大なバックボーンによって支えられてきたものは少なくない。無論、保護よりも芸能の質が先にあることは疑いようもない。しかし環境や方針によって陽の目を浴びず、失伝してしまった芸能がこの世界に無数にあることは確かだ。
そしてこと白川能においては、集落に住む人々の手で千年余りの時を受け継いできた。この歴史はとても果てしなく、それでいてこの土地に住む人々が持つ神への信仰心の篤さを感じさせる。
「話を元に戻すわ。その能座という考え方のもとで白川能は、春日神社の氏子たちを大きく二つの能座に分けた。それが上座と下座。かみしもとはいっても、その間に上下関係は存在しない。対を成し、演ずる役目が異なるだけで、どちらも等しく白川能を受け継ぐ氏子であることに違いはないの。
そして今年の『水焔の能』を執り行うのは上座の氏子たちの役目。私は、今の上座の総代である祖父の代理としてこの場所にいるの」
どうして彼女が総代の代理なのか。両親は一体何をしているのか。学生である君には重い役目ではないのか。なんでさっき君は、今にも泣き出しそうな表情で舞っていたのか。
浮かんでくる疑問はどれも全て、突貫で手伝いにきただけの部外者である僕が推し量れるようなものでも、介入するべきことでもない。彼女には彼女なりの事情が有るのだ。
「この村は凄く良いところよ。少しよそ者に厳しいところはあるけれど、それも村の人たちの結束力によるものなの。悪気はまったくないから許してあげて欲しいわ」
ぐっと背中を勢いよく伸ばした彼女は、ペットボトルの中のお茶を一気に飲み干すと、まだまだ仕事が残っていると言って休憩所を後にする。僕らは、言いつけられていた休憩時間を少し過ぎていたことに気付くと、急いで持ち場へと戻った。
本番の為に必要な仮組みを終えると、調と大人たちが何枚かその写真を撮り、真剣な面持ちでなにやら会議をしている。近くを通った時に見えた彼女は、右の横髪をしきりに触りながら、言い争いとまではいわないまでも語気に少し熱がこもっていた。その姿を横目に僕らは、組み立てた何もかもを解体して数台の小型トラックの荷台に詰める。
全ての物品を撤収すると、あれだけ暗いと感じていた暗闇でさえ、篝火の光や車用ライトの光源によって創られた仮初のものということが分かった。
漆黒に小鳥や昆虫の鳴き声が響き渡る。辺りを照らすものは、池の水面に映る少し痩せた三日月のみ。
佐治さんからバイト代を手渡される際、「もしかしたら本番当日も手伝いをお願いするかもしれない、今回は色を付けておいたからさ」と冗談めいた顔で言われた。だがその表情には少し本気の感情がこもっていたことに、僕らはすぐ気が付いた。
今年はそれ程人手不足なのだろうか。それとも毎年手伝いを呼んでやってきたのか。いつでも呼んで欲しいとの七瀬の言葉に続いて、僕らも別れの挨拶と共に佐治さんへと協力の意を告げる。
車なんて一台も通らない農道を、奥行きのずれた三つ目のライトが並んで照らす。バイト代で少し温まった懐とは反対に、浴びる夜風でうっすらかいた汗が冷えていくのを感じる。家に着いた頃には、夜間徘徊で補導されても文句は言えない時間となっていた。
倒れ込むように眠りたい衝動をぐっとこらえ、簡単にシャワーを浴びてから布団に潜り込む。
白川能、水焔の能。もし本番で手伝いに呼ばれなかったとしても、ぜひ観客として見に行ってみたいものだ。そう頭に思い浮かべたところまで起きていたことは、ぎりぎり記憶に残っている。
今年の『水焔の能』が中止になったと惣一郎から聞いたのは、それから三日後の事だった。