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水焔の衝動  作者: 三斤 樽彦
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第一話

「だからな、深裄。俺たちは女子高生と同じ空間に居られる奇跡をもっと噛み締めるべきなんだよ」


 窓の外からはじりじりとした日光が射しこみ、今年から設置されたクーラーがもう壊れたのかと思うほどの熱量を教室へと伝えている。文明の利器でもって対抗馬とする自然の驚異を、昨年はどう乗り越えていたのだろうと不思議に感じる。

 その暑さを物ともしない情熱で叫ぶ七瀬の文言を周りが聞き取れたか否か。なんにせよ教室の端で大きな声を出したからには、注目の的になっているであろうことは容易に想像がついた。結果が分かっているのであれば、わざわざ周りを見渡して、白い視線と目を合わせるような愚行を犯す必要はない。


「頼むから、そういう危険思想は僕が居ない場所で垂れ流してもらえないかな」


「なに言ってんだ。俺は理解の足りていないお前のためにわざわざ恥ずかしい思いをしてまで忠告してるんだ。感謝されこそすれ、非難される筋合いはない」


「本当に分かっていないのであれば七瀬との関係はここまでだね。はい、さよなら」


 これが街中であるのであれば、この頭のおかしな美丈夫といかに無関係であるかを周囲に知らせるため、ありとあらゆる手段を講じていたはずだ。しかしこの閉鎖空間に存在するのは、僕と七瀬が小さい頃からの知り合いであるということを知識として理解している者ばかりであるし、それにさっきのような戯言が出てくるのは今日に限った話ではない。

 まあつまり、時と場合によってはしょっぴかれていてもなんらおかしくない七瀬の発言は、まあこの場に限って言えば、丁度窓から見えるアスファルトに撒かれた水のように、教室の会話達の中に消えていくのだ。あくまでこの場に限って言えばだけど。


「だがな、七瀬。お前の奇声はうちの教室まで聞こえてたぞ」


「げっ、惣一郎。流石に冗談だよな」


 教室右後方の扉からのそりと入ってくるのは、きっと森の中で見つけたら小さめのクマか何かと勘違いしてしまうほどの大男。昼過ぎでまだ日の光が照り付けるというのに、なぜ毎度ベランダ伝いに教室へと入ってくるのか。惣一郎が言うには「廊下は俺には狭すぎる」ということらしいが、偉丈夫にはそれなりの苦労があるのだろう。


「惣一郎からも何とか言ってよ。こんな人間があと三年も経たないうちに世間に解き放たれるかと思うと、僕は気が休まらないんだ」


「俺は、自分自身が情けない。なぜこんな巨悪の芽を事前に摘んでおかなかったのか。いや、今ならまだ間に合うやも……」


「いいかい、七瀬。これからは発言する前に、一度頭の中でリハーサルをするんだ。モラルとマナーを兼ね備えた審査員全員から許可を貰ってから口に出すことにしよう」


「もういい。元からお前らに理解してもらえるとは思ってないから!」


 体育着姿の七瀬は、机の上に置かれたエナメルバッグを肩にかけ逃げるように教室から出ていく。今日はバスケ部で助っ人をお願いされているとの話だ。ああも頻繁に体育着で放課後の校舎をうろついていると、七瀬がただの帰宅部であるという事実を認識できていない生徒は大勢いるのだろう。


「……なあ深裄。俺は七瀬の言っていたことは、あながち的を射ているんじゃないかと思うんだ」


「うん、分かっているよ」


 惣一郎は僕の方を向かずに、静かな言葉で諭してくる。

 七瀬は能天気であっても、抜けた男ではない。彼が言うことには、婉曲的にではあるが確かに意志が込められている。

 七瀬が本当に僕へ伝えたかった事はきっと「モラトリアムを謳歌できるのは今しかない」ということなのだろう。受験勉強を半年後に控えた今日この頃。高校生活という、かけがえのない時間の意味を本当に理解できているのは、七瀬なのかもしれない。

 多くの大人は言う。「学生よ、大いに遊べ」と。

 そしてうしろには必ずと言っていい程こう続く。「自らの願いを見つけろ」と。

願い、あるいは夢。その発言は、青春を謳歌できなかった大人の悔恨によって生まれたのか、それとも実体験による実入りがあったからこその含蓄ある言葉なのか。きっとそれは大人になってみないと分からない。大体の物事は、言葉では理解できても、実感として湧いてくるのはすべてが過ぎ去り、取り返しがつかなくなってからなのだから。

 雨が降った次の日には、街中に土の匂いが香るこの土地へと移ってきたのは、両親の別居がきっかけだった。とはいっても喧嘩別れというものではない。その転居が僕を都会から引き離すための措置であることは、母との引っ越し先が舞台役者である父の実家であることからも明らかだった。

 幼い頃、僕は父のツテから舞台子役の仕事を始めた。大きく分かたれた境界線の向こう側でしかないと思っていたその世界は、子供ながらに夢のようだと思った。目まぐるしく変わる環境と才気ある役者たちに囲まれながらの仕事は、公園でのかけっこと天秤にかけても釣り合っていたと記憶している。

 しかし才能と適性が一致するかどうかというのは、神のみぞ知る領域である。他人から評価される俎上へと否応なしに載せられ競争する役者の世界では、自身の実力のみがモノをいう。他人の感情に過敏な年頃では、大人たちの値踏みに答えられなかったことへのダメージは計り知れない。

 今でも思い出す。あれは小学四年生の夏。学校では丁度ワリザンを習い始めた時期だった。新進気鋭の舞台監督が主演の少年時代を演じる役者を探しており、原作は世界的な人気を誇る大衆小説。界隈の内外で、役を得ることが出来れば出世作に間違いないとの評判だった。応募者数千人規模のオーディション。更にそこから十人に絞られた最終審査。監督は僕の目を見つめて、滔々と告げた。

 ――君のような演技は求めていないんだ。

 あの日から僕は、自分の願いというものが分からなくなってしまった。

 もし理想と現実のギャップに対して、自分なりに折り合いをつけられるかどうかを才能だというのであれば、僕は『持っていない』側の人間だったことは明らかだった。自分のことは自分が一番よくわかる。陳腐だが当然だ。だって一番長い時間、自分という人間に寄り添っているのは自分なのだから。

 身の丈に合わない願いを抱いて、高く飛び、蠟で固めた羽が溶けて落ちた勇者の話。だが僕から言わせればあんなの只の馬鹿だ。人は、自分の手が届く範囲で世界を語るべきだ。

そうじゃないと、みんなが自分に折り合いをつけているのだと思わないと、救いが無さすぎる。

「ああそうだ、深裄。今夜って空いてるか」

「今夜っていうと、放課後のことでは無いんだよね」

 ああ、と少し気の抜けた相槌を打ちながら、ポケットからスマートフォンを取り出して画面をスクロールしていく。反応から察するに、惣一郎が主体の用件ではないようだ。

「あ、これこれ。実はだな……」



 ◇◆◇◆



 漕ぎだすと時間帯に応じて自動で点灯する自転車ライトが、まだその役割を求められていないぐらいの夏夜。

 隠れそうになる夕陽は、町を見下ろす金峯山の中腹で踏ん張り、まだ今日の営業時間は終わっていないとあがいている。夏場はやる気十分なのに、冬になると途端に引きこもりがちになる性格が、この山国の生活を苦しめているという自覚をもっと持ってもらいたいものだ。

 教室でスマホの画面を見せられた後、惣一郎からは、動きやすい服装との指定があった。指示に反する必要性も感じられないので、ベージュのチノパンにポロシャツと履きなれたスニーカー。それに、もしかしたら肌寒くなるかもしれないと玄関のポールハンガーから薄手のウィンドブレーカを手に取って家から出る。

 外に出ると、家に着いた時よりもかなり空気が乾燥していた。昼間は湿度が高く、ひとつ息をするのにも嫌な感じがしたが、今はペダルを踏むほどに強く浴びる風が心地よい。漕ぐたびに少しずつ上がる体温との均衡を楽しみながら行けそうだ。

 安全を考慮して、片耳のみ付けたイヤホンから聞こえてくるアップテンポのポップスは、この風景には少し似つかわしかないと感じる。たまには天然無加工の環境音に耳を澄ませるのも良いだろう。

田んぼを二つ挟んだ農道に連なる、亀裂の入っていた小橋の修繕工事はいつの間にか終わっている。毎日変わらないと感じる景観も、意識を向けると不変のものではない。

 目的地まで一直線に伸びる県道の周りには、どこまでも続くかのように緑青の田畑が広がっている。風が吹くたびにたなびく稲も、あるいはこの風を心地よいと感じているのだろうか。

 植物にも意思がある、という説はどこの研究によるものだったか。眉唾に聞こえるけど、音楽を聞かせると果物の糖度が増した、なんて話は割と有名だ。人の機能でさえ、全く解明できていない以上、もしかしたら植物にも意思があるかもしれないと想像するのは、きっと的外れなものでもないだろう。

 じゃあもし、この稲一本一本に意思があったとしたら。力強く根を張る彼らは皆等しく、立派な穂をつけたいと考えているのだろうか。一稲ぐらいは、このまま種籾の中でひっそりと暮らしたいと思わないのだろうか。あるいは、皆とは違う色を付けたいと。

それとも、自らが行きつく先を理解して、ただその茎を伸ばすだけなのか。彼らの願いは彼らにしか分からない。

 十五分ほど道なりに進むと、ぽつぽつと住居が現れ始める。その集落の間を抜けて少しすれば、集合場所の総合運動公園が目に入る。河川敷に建設されたこの公園は、小中学生の部活の大会や、社会人の社交の場として活用されている。徒歩で行くにはアクセスが悪いが、そこは地方の車社会。市の中心から少し離れていても問題ない、と言わんばかりに大きな駐車場も用意されている。

到着まであと数十メートル、といったところに差し掛かったとき、運動公園沿いに流れる川の堤防で、誰かが腰をかがめてうろうろしている姿が目に入った。腕時計を見て、集合の時間まではまだ少し時間があることを確認する。


「あの、どうかされたんですか?」


 僕の問いかけに振り返った男性は目深に中折れ帽をかぶっており、顔の造形は大まかにしか判別できなかった。しかし、彼のしゃがれた声を聴いた限りではかなり年を重ねていることが分かる。


「うん、大したことでは無いんだけど。さっきここで杖を落としてしまってね」


 堤防の坂に生えた草は時期もあってか、かなり生い茂っている。加えてこの暗闇では杖一本という小さくない落とし物でも、一人だけで見つけ出すのはそう簡単ではない。


「探すの手伝います。失くしたのは杖だけで間違いないですか?」


「おお、助かる。だいたい腰ぐらいまでの長さの茶色い杖なんだ」


 スマホのライト機能を使用し、僕と男性は腰をかがめながら落としたアタリのついた堤防を注意深く探る。

 存外、探し物の杖はあっさりと見つかった。杖という転がりやすい形状がゆえに、堤防が下がり切った高水敷のあたりまで移動していた。


「じゃあ僕は用事があるのでこれで失礼します。見つかって良かったです」


「ありがとさん。貰い物だから折れたりしてなくてよかったよ」


 嬉しそうに杖を受け取った男性は、ポケットから取り出したハンカチーフで土の汚れを落としていく。

 流行の年代ファッションには決して詳しいとは言えないし、ましてや年齢層の離れている人のトレンドなんて尚更だ。しかし、いま僕は一つの知見を得ることが出来た。それは、杖をオシャレな小物として取り入れる術があるらしいことだ。そうでもなければ、本来、歩行の支えとする杖を失くした老人が、土手の坂で腰をかがめて踏ん張ることなど出来ないだろう。


「そういえば、坊はどうしてこんな場所にいるんだい。見たところ、この辺りの人間ではなさそうだけどもよ」


 男性は僕を坊と親し気に呼ぶと、少し落ち着いたトーンで質問を投げかけてくる。


「友人の手伝いなんです。なんでも、催し事の準備に人手が足りないらしくて。僕も詳しくは分からないんですけどね」


「そうかいよ。じゃあここで足止め食わせてしまったね、申し訳ない。例の一つでもしてあげたいんだが……」


 男性は手を顎にやり、考えを巡らせている。しかし腕時計を見ればその思案を待っている時間は残されていないことに気付く。


「お気になさらないで下さい。大した手間でもありませんでしたし」


 それじゃあここで、と僕は言い、自転車のサドルに跨って男性に頭を下げる。一日一善、これから行うことをカウントすれば二善。寝付きが良くなると考えれば悪くない割に合う手間だ。

 漕ぎだした自転車が加速しきる前に、土手の下にある広い駐車場の一角に明かりが見える。搬入用のトラックや乗用車のライトに照らされた十数人、その中に見慣れた顔を二人見つける。僕の視線に気づいたのか、頭に手拭いを巻いた惣一郎と、七瀬らしき人物がこちらに手を振ってきた。柔道で鍛えられた体躯の良さと、日本人離れした目鼻立ち。二人とも、遠くからでもよく目立つ。

 皆のいる駐車場に行く前に、土手の上に伸びた公道を挟んで公園に併設されている体育館の駐輪場へと自転車を置きに向かう。

 ふと、停められている自転車が四台であることに気付く。公営の施設なのだから、別に気にするようなことでもないのだが、その自転車同士には共通の目印があったのだ。それは僕たちが通う学校指定のステッカー。高校の駐輪場に止められている自転車が、ちゃんと学校の認可を通しているかを判別するための印。それが四台分の自転車の後輪カバーに貼られていたのだ。まあ、僕らと同じ理由でこの場所に来たわけではないかもしれない。今すぐにわかるようなものでもないし。


「何をしてたんだ?」


「いや時間丁度だ、全く問題ない」


 正直、七瀬の方が先に到着していることが意外だった。いつもは集合時刻ギリギリか、なんなら遅刻してくることも珍しくないのに、今日に限っては悠々と僕が来るのを待っていたようだ。


「七瀬が集合時間前に来るなんて珍しいね。そんなに楽しみにしてたの?」


「俺を当然のように遅刻してくるような人間だと扱わないでくれないか?やろうと思えばこのように、いの一番に到着することだって可能なんだよ」


 七瀬は自信満々に胸をそらせると、高々と笑い声をあげる。赤いシャツにゆるくパーマの掛かった茶髪は、薄暗い公園でもよく目立つ。


「いったい何をぬかしてるんだか、銅本の倅は。集合時間を間違えてあたふたしてたのはどこのどいつだ?」


 両手に打楽器を抱えた四十代ぐらいの男性は、偶然によって生まれた七瀬の優越感が偶然によって生まれた産物であることを、いともたやすく露呈させる。


「佐治さんってば、それは言わない約束だったじゃないですか……」


「はは、悪い悪い。なんせあまりにも得意げだったからね。ちょっとからかいたくなっちゃったよ」


 佐治と呼ばれた青年と七瀬の間にこれまで面識があったとは思えない。きっと僕たちが到着するまでのたった三十分で知り合いになったのだろう。

 七瀬の天性の人懐っこさは、特殊技能だともいえるかもしれない。いくら銅本七瀬の実家が市で一番大きな病院だとは言え、それが直接的に他者との良好な関係性に繋がるとは考えられない。むしろ、人によってはマイナスに働く可能性さえあるはずだ。

 それでも彼がいつの間にか交友の和を広げている事実は、本人にも自覚がないらしい。他者に指摘されても初めて気が付いたというのだから驚きだ。まあそういう外連味の無いところが、と言えるかもしれないけど。

 そんな七瀬は相も変わらず屈託のない笑顔を佐治さんに向ける。彼は惣一郎と七瀬に声をかけながらいとも簡単そうにトラックから積み荷を降ろしているが、それらの物は決して軽量だとは思えない。

「自分、手伝います」


「お、助かるよ。……ええとすまん、君は――」


「和田辺深裄と言います。七瀬と惣一郎とは高校の同級生です」


 佐治さんは僕の名前を聞くと、ピクリと身体を動かす。


「おお、君が惣一郎の言っていたもう一人の手伝いか。悪いな、俺もここにいるカミザの人間全員の顔を覚えている訳じゃないからさ」


 ははっ、と快活な笑いを浮かべながら彼が口にする中で、日常で生活しているうちでは聞きなれない単語があった。だがそれの意味を問い返すよりも気になる内容が、先の言葉の中には含まれていた。


「二人って、手伝いは三人じゃないんですか?」


 僕の問いかけに対し、佐治さんは噛み合わない会話を理解しようと頭を捻る。

駐輪場に止められた学校指定のステッカーが張られた四台の自転車。そのうち三つは僕と七瀬、それに惣一郎のモノだろう。だからあと一人、惣一郎に手伝いとして呼ばれた人間がいると思ったのだが、どうやら見当違いだったようだ。


「そうだ、深裄くん。搬入の手伝いは七瀬くんだけで大丈夫だろうから、惣一郎くんと一緒にあっちの設営を手伝ってあげてくれないかな」


 佐治さんが指さす先には、人工的な池の上に造られた踊り場が見える。火の光に照らされたその場所に辿り着くためには、左右に架けられた細い足場を渡るしかない。

 その浮島に、一人佇む黒髪の女性。終業を迎えて沈んだ太陽は、数寸先も見えないような漆黒を町に残す。闇の中で彼女は、揺らめく篝火に照らされた白肌をコントラストとして、ひとり幽玄に舞を踊り始める。

 もしかしたらこの世界の人類は既に滅んでいて、彼女だけが六道の辻に揺蕩っているのではないかと、そう錯覚してしまった。



一週間程度で完結します。

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