第4話
喉元が焼けるように痛い。全身が砕かれるように痛い。
痛い痛い痛いいタいイたいイタいイタイ…………アタタカイ。
自分の上半身に覆い被さった父の体。
かろうじて感じる熱。
おびただしい量の鮮血。
——……、……っ。
父の体を揺らしたかったのに。声を出して呼びたかったのに。
できなかった。何もできなかった。
父は自分のことを守ってくれたのだと、そのことはすぐに理解できたのに。
遠のく意識の中で、動かなくなった父を、ただ見ていることしかできなかった。
ごめんなさい。
わたしのせいで。
ごめんなさい。
お父さん、ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごメンなサい。
ゴメンナサイ——
❊ ❊ ❊
「すず?」
『……』
「すーず」
『……』
「おーい」
『!』
千鶴に顔を覗き込まれ、すずはようやく我に返った。眼前でちらちらと揺れる琥珀色の瞳。そこに映った自分は、なんとも間抜けな顔をしていた。
完全に上の空だった。直前まで千鶴が話してくれていた内容も、全然頭に入っていない。慌てて謝罪すると、心配そうな面持ちでこう尋ねられた。
「もしかして具合悪い? 大丈夫?」
寒波のせいで急に冷え込んだからねと、千鶴はすずの体調を気遣った。
眉を顰める千鶴に、すずはにこりと笑って返す。指先を揃えた右手を、左胸に当てた後に右胸へと当てた。
『大丈夫』
「そう? ならいいけど」
すずが「大丈夫」だと言ったのでとりあえず引っ込んだが、正直なところ、千鶴はまだ納得できていなかった。現に、すずはまた自分から目を逸らし、下を向いている。箸は持ったままだが、食べ物を口に運ぶ様子もない。
十二月二十五日、クリスマス。
以前から約束していたとおり、この日二人は一緒に過ごしていた。平日で通常どおり講義があったので、それが終了した夕方から。
クリスマスディナーは、千鶴の希望で創作和食になった。毎日のように洋食の匂いを嗅いでいると、どうしても和食が恋しくなるらしい。
事前に予約していた料亭の個室。机の上や棚の上に飾られた和風ランタンが、落ち着いた雰囲気を演出している。四人掛けの掘り炬燵に二人で対座し、食事を開始したのがおよそ半時間前。
食べれば「美味しい」と顔を綻ばせるすずだが、とにかく沈んでいる時間が多かった。明らかに何かを考え込んでいる。それも、彼女にとって、あまりよろしくないことを。
大丈夫との彼女の言葉を尊重してあげたい。けれど、やはりこのままでは良くない気がした。年末になれば、父の里帰りに付き合うことになっているため、会える時間が減ってしまうのだ。こんな状態のまま、何日も離れていたくない。
箸を置いた千鶴は、咳ばらいを一つすると、気持ちを整え口を開いた。
「今すずが考えてること、聞かせてもらえないかな」
『……!』
予想外だったのだろう。千鶴のこの申し出に、すずは目を見開いて固まった。
音が耳から入ってきそうなほど速まる鼓動。血圧が上昇し、耳の後ろまで熱が込み上げてきたのがわかる。
昨日、あの三人に言われたことが、ずっと耳にこびりついて離れない。ますます嵩を増した黒い感情は、もはや抑えることができなくなっていた。
口にしたところで、どうしようもないと思っていた。千鶴に嫌な気持ちをさせてしまうだけだと。迷惑をかけてしまうだけだと。
だが、自分に注がれる千鶴の真っ直ぐな眼差しに、誤魔化すという選択肢を選ぶことはできなかった。ここで話さなければ、余計心配をかけてしまう。彼は、優しい人だから。
彼には……彼にだけは、嫌われたくない。
覚悟を決めたすずは、バッグの中からA5サイズのノートとペンを取り出した。そうして、躊躇いがちにペンを動かし始める。
力なく紙を引っ掻く音が室内に響く。
数秒後。紙面の端に弱々しい筆跡で書かれてあったのは、偽りのない率直な気持ちだった。
『千鶴くんは、わたしと一緒にいて楽しい?』
「え? 楽しいよ」
『わたし喋れないから』
「なんで? 喋れてるよ」
すずの言葉が、訥々と紙面に浮かび上がる。
これに対し、千鶴は思ったままを伝えた。戸惑いつつも、すずの不安が少しでも和らぐようにと柔和な表情を浮かべる。
「……誰かに、何か言われた?」
そっと傷口に触れるようなこの問いかけに、すずの体がびくっと跳ねた。ペンを握り締めた指先に力がこもる。
書くべきか迷った。書いてしまえば、千鶴が読んでしまえば、なかったことにはできない。
それでも、すずは千鶴といる未来を選ぶことに決めた。
『千鶴くん、喋るの好きじゃないって聞いて。わたしと一緒にいると、どうしても喋らなくちゃいけないから。嫌な思い、させてるんじゃないかなって』
すずの指先が震える。不揃いな文字の粒、その上に、ぽたりと水滴が落とされた。
じわりと滲み、色の変わったインク。慌てたすずがバッグからハンカチを取り出し、顔を覆う。ハンカチの隙間からは、声にならない潤んだ声が漏れ出ていた。
泣きたくなんかない。泣き止みたいのに。感情が、上手くコントロールできない。
そんなすずの心を撫でるように、千鶴がゆっくりと語りかける。
「俺はね、すず。喋るのが好きじゃないってわけじゃないよ。確かに、口数は多くないけどね。そのことで、すずを不安にさせちゃったなら申し訳ないけど……でも、俺はすずと一緒にいて嫌な思いしたことは一度もないよ」
まるで空気に乗せるかのような優しい声音。
すっと腕を伸ばし、ハンカチの隙間からすずの頬に触れれば、彼女の涙がぴたりと止まった。顔全体を覆っていたハンカチを鼻元までずらす。露わとなった目、その周囲は、腫れて赤くなっていた。
「すずとは、どんなことでも話したい」
大きな手のひら。長い指先。触れた部分から伝わる温もりが、すずの心に痛いくらい染み渡る。
いったい彼は、どれだけ自分が欲しい気持ちを——言葉を、与えてくれるんだろう。
「……ねえ、すず」
突然、改まった千鶴に名前を呼ばれた。鼻を啜り、小首を傾いで疑問符を返す。
「今夜、すずのこと聞かせてもらってもいい?」
『!』
彼の口から出た問いかけに、すずの胸がきゅっと縮まった。
驚きと緊張が綯い交ぜとなった瞳に注がれる、揺るぎない眼差し。この眼差しに、自分は応えなければならない。彼といる未来を選ぶのなら。
過去の恐怖に怯えながら、すずは静かに頷いた。
❊ ❊ ❊
「ソファに座って待ってて。今ココア淹れてくるから」
エアコンの電源を入れ、遠赤外線ヒーターをすずのそばまで持って行くと、千鶴はキッチンへと向かった。緊張で固まるすずに、「適当に寛いでて」と言い残して。
ここは千鶴が一人で暮らしているマンション。間取りは1DKで、一人で暮らすには十分過ぎるほどの広さだ。
目につく大きな家具といえば、テーブルにソファ、チェストにベッド。調度品は必要最低限といった程度で、全体的に落ち着いた色合いで纏められてある。
何がどうしてこうなってしまったのか。千鶴に言われるがままソファに腰を下ろしたすずは、両手を乗せた膝に視線を落とした。男性の部屋に上がるという未知の体験に戸惑いつつも、ひとまず精神の安定を試みる。
自分のことを聞かせてもらってもいいかと尋ねられた。自分のこと——すなわち、自分の過去。
大事な話だから、二人きりでじっくり話そうということになった。すずは実家暮らし。もれなく母がついてくる。ゆえに、ここで話すことを選択した。
「なんか不思議。俺の部屋にすずがいる」
照れくさそうに笑いながら、キッチンから千鶴が戻ってきた。両手には二人分のマグカップ。差し出されたカップを両手で受け取ると、すずはぺこりと頭を下げた。
すずと同様か、あるいはそれ以上か。意外にも、千鶴も緊張しているらしい。
「熱いから気をつけて飲んでね」
千鶴はそう声をかけると、ソファではなくベッドのほうへと向かい、彼女に対してL字型に座した。上体を前に傾け、両膝に両腕を乗せる。
手を伸ばせば十分触れられる距離。だが、少し距離を置くことで、彼女に気持ちを整理する余裕を与えてやりたかった。
『……』
すずの過去をすべて受け止めようという、千鶴の覚悟と優しさ。それは、すずにもちゃんと伝わっていた。
しだいに暖房が効いてきた室内。ココアのおかげで内側からも温まった。防寒具は、もう必要ない。
すずは、着ていたコートを脱ぐと、畳んでソファ脇に寄せた。覚悟を決めてくれた彼に応えるために、自分も覚悟を決めなければ。
ぐっと力を込めた右手を、首元のマフラーへと近づける。
そうして、ついに、すずは千鶴に喉元を晒した。
「!」
真横に走った傷痕。周囲は皮膚が引き攣り、その部分だけ肌の白さが際立っている。
思わず言葉を失ってしまった千鶴に、すずが笑ってこう言った。
『ごめんね。気味、悪いよね。でも、見せなきゃ、前に進めないって思ったの。千鶴くんと一緒にいるために、ちゃんと見せなきゃって……ごめ……なさ……っ』
その場に泣き崩れる。話していた両手で顔を覆い、音にできない声で泣いた。
とうとう見せてしまった。晒してしまった。蘇る当時の恐怖。もう後戻りはできないというその現実が、すずの胸を強く圧迫する。
『……っ』
呼吸が上手くできない。今にも押し潰されてしまいそうだ。
「……っ、気味悪くなんかない!!」
『!』
叫びにも似た千鶴の声が鼓膜を叩くやいなや、すずの背中に痛みが走った。
彼のいるベッドのほうへ抱き寄せられたのだと気づくまでに少し時間を要してしまったが、体は無意識に彼の胸元にしがみついていた。
「その傷痕は、すずが生きてる証だろ……!!」
震えている。彼の声が。
「傷痕だけじゃない……恐怖も、痛みも、今すずの中に残ってるもの全部が、すずが生きてる証なんだよ!!」
彼の、体が。
千鶴は泣いていた。顔を確認することはできないが、彼がこれほどまでに感情を露わにしたのは初めてのことだった。
きつく抱き締められた箇所の痛みが、つぶらかな熱に変わる。心身ともに彼の優しさに包まれたすずは、両手を彼の胸元から離し、その大きな背中へと回した。
そうだ。自分は生きている。生きて、今こうして千鶴のそばにいる。あの日生き残れたから。
父が、命を繋いでくれたから——。
今なら受け容れられる。千鶴の温もりを感じられる今なら。
父は、けっして自分の身代わりなどではなかったのだと。
『ありがとう、千鶴くん。……ありがとう……っ』
千鶴の耳元に口を寄せ、嗄声で直接こう告げれば、さらに強く抱き締められた。これに応えるように、彼の背中に回した腕の力を強める。
そして、しばらくした後、どちらからともなく腕の力を緩めると、シーツに二人体を沈めた。
互いの口内に広がった涙の味は、少ししょっぱくて、ほんのり苦くて。
とても、
とても、
甘かった——。