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第2話

 建物から出ると、木枯らしの甲高い音が耳についた。寒暖差に、思わずぶるっと身を震わせる。鈍色の空は、今日も重そうだ。

 本日最後の講義終了後。明日が期限のレポートを無事に提出し、千鶴は学生食堂へと爪先を向けた。ダウンジャケットのポケットから取り出したスマホを、再度確認する。

『友達と食堂にいます。講義が終わったら連絡してください』

 一時間半ほど前に、すずから届いたメッセージ。絵文字もスタンプも何もない、実にシンプルな文面だが、そこから伝わる柔らかさにとても癒やされる。

 彼女の文字を読むのが好きだ。とくに手書きの文字は、繊細で可憐な彼女の人柄がそのまま表れているようで、見ていてとにかく心地が好い。

 レポートを提出したら食堂に赴くと返事をしたのが、つい五分前のこと。

 早く行かなければ。早く会いたい。逸る足で、千鶴は棟の外階段を軽やかに下りきった。

「神谷」

 その直後。突然、後方から名前を呼ばれた。

 足を止めて振り仰ぐ。自分を追いかけるように階段を駆け下りてきたのは、一人の女生徒だった。

「八田?」

 八田(はった)(あきら)。同じ保健学科に在籍する二年生だ。

 黒髪のツーブロックショートボブ。長い前髪から覗く少し(まなじり)の上がった黒目が、まるでブラックサファイアのように聡慧と輝いている。身長は百六十七センチ……プラス、ショートブーツの踵分七センチ。

 モデル顔負けのルックスを誇る彼女は、すずの中学時代からの親友である。

「お疲れさま」

「お疲れ」

「もしかして、これからすずに会ったりする?」

「うん」

「そう。じゃあ、一つ頼まれてくれると嬉しいんだけど」

「なに?」

「これ、すずに返しといてくれない?」

 そう言って、晶はバッグの中から一本のブルーレイを取り出した。今すずが一番はまっているらしい、アメリカンドラマの最新作だ。

 プロファイリングを駆使しながら凶悪犯罪に立ち向かうという、アメリカならではの濃厚な作品。魅力的なキャラクターたちで構成されるチームが難事件を解決する様は、本国だけではなく、日本でも高い人気を博している。今年十五年目に突入する、長寿シリーズだ。

 ブルーレイを受け取ろうとして腕を伸ばす。ところが、一瞬躊躇った後、千鶴はその手を引っ込めることにした。不思議そうな面持ちの晶に対し、こう提案する。

「いいけど……食堂にいるから一緒に行く? 八田がこのあと予定なかったら、だけど」

「いいの? アタシ邪魔じゃない?」

「なんで邪魔なの。すずも喜ぶ。最近八田と会えてないって、寂しそうに言ってたから」

 先日、すずと食事をしている際、ここ一月ほど晶と会えていないと嘆いていたことを思い出した。晶のバイトが忙しく、なかなか都合がつかないのだと。SNSでのやり取りはしているため、互いの近況はわかっているが、それでも直接顔が見たいらしい。

「そんなこと言われたら連れて帰りたくなるんだけど」

「それはやめて。俺たちこれからデートだから」

「冗談よ。アタシも今夜は彼とデートだから」

 見目麗しい二人が並んでいると、どうしても人目についてしまうが、よもやこんな気の抜けた会話がなされているとは誰も思わないだろう。

 周囲の目をよそに、二人は食堂へ向かって歩き出した。実は、こんなふうに二人が話をするようになったのは、すずと千鶴が付き合うようになった頃から。それまでの約一年半、いくつか同じ講義も履修してきたが、一度も話したことがなかったのだ。

 というのも。

「アタシ、神谷のこと、実はあまり良く思ってなかったのよね」

「え、なに急に。もしかして俺、今からディスられる?」

 晶の口から飛び出た不穏な発言に、緊張した千鶴が身構えた。顔色は毛ほども変わっていないが、内心相当焦っている。

 まさかすずに相応しくないとの烙印を押されてしまうのだろうか。もしそうだとするなら、ちょっとやそっとでは立ち直れないかもしれない。彼女の七年来の親友、その言葉はかなり重い。

 けれど、申し訳ないが、別れるという選択はありえない。不十分なところがあるなら、補う努力をするまでだ。

 晶の語り口から、ネガティブなことを突きつけられるのは自明の理。覚悟を決めた千鶴は、次に継がれる二の句を待った。

 そして。

「アンタの周り、いつも女の子がいたからさ。なんていうか、はべらせてるなって」

「はべらせ……」

 予想の斜め上から投下された言葉に思わず復唱するも、最後まで言い切ることはできなかった。珍しく動揺を顕わにする。そんなふうに見えていたのかと、軽く心臓を握り潰された気分だ。

 たしかに、自分の周りには昔から異性が多かった。同性ももちろんいたけれど、比率でいえば、明らかに異性のほうが多かっただろう。しかし、面白くなかったわけではないが、とくに面白かったわけでもない。自分から話題を振ったり広げたりするのが苦手(面倒くさい)ゆえ、訊かれたことにただ答えていただけなのだ。

 無表情のまま地味に悶々としていると、それを見た晶が口角を緩く持ち上げてふっと笑った。

「まあ、女の子のほうから一方的に寄って来てたって、わかってはいたけどね。それでもやっぱり、すずが傷つくのは見たくなかったの。……あの子、今までたくさん傷ついたから」

 晶の脳裏にまざまざと蘇る、声を失った直後のすずの姿。

 中学へ入学し、最初に親しくなったのがすずだった。色が白く、まるで人形のように麗しい容姿。名前をそのまま現したかのような愛らしい声。人柄も含め、すべてが可憐だった。……本当によく笑っていたのだ。

 あの日、父親と一緒に乗っていたツアーバスが、事故に遭うまでは。

「すずがアンタに告白するの、正直反対だった。……怖かったの。断られても、付き合ってる途中で振られても、どっちにしろすずは傷つく。また、あのときみたいに笑えなくなったらどうしようって」

「……」

 大手術をして、一命を取り留めて、状態が落ち着いて……やっと面会できるようになった頃には、すずの顔から笑顔は消えていた。

 病室での光景を思い出すたび、胸が締めつけられるようにきりきりと痛む。大切なものを一度に失くし、その現実を認識するたびに泣きじゃくるすずを、ただ隣で見ていることしかできなかった。

 もう二度と、あんな姿は見たくない。

 そう願いながら、晶はこの七年を過ごしてきた。

「……でも、余計な心配だったわね」

「……?」

 二人の足が、食堂の手前数十メートルのところでぴたりと止まる。晶から投げかけられた笑みに、千鶴が小首を傾いで目を見張った。

 晶の視線の先には、看護学科の友人と対座しているすずの姿。二人に気づき、笑顔で手を振っている。

 晶と千鶴が揃って手を振り返せば、すずから窓ガラス越しに手話が返ってきた。

『ごめん。すぐ行くからちょっと待ってね』

 言うやいなや、すずはテーブルの上に出してあったレジュメや本を、バッグの中へと仕舞い込んだ。すずの友人も、掻き集めたそれらを急いで自分のバッグに突っ込んでいる。どうやら、二人は課題をこなしていたらしい。

「すずのこと、ずっと見てきたからわかる。アンタに大事にされてるって。アンタのことを話すあの子、すっごく幸せそうだもの」

 せっせと片づけを進めるすずを見ながら、柔和な声色で晶が告げる。


 ——アキちゃん。わたし、初めて好きな人ができた。


 今から遡ること四ヶ月前。恥ずかしそうに、嬉しそうに、すずからこう打ち明けられた。

 軒先での雨宿りを咎めることなく、タオルと傘を渡してくれたと。声を出せない自分にも、戸惑うことなく接してくれたと。

 付き合うようになったと。少しずつ手話を覚えてくれていると。駅前でひったくりを捕まえたと。

 千鶴のことを話すすずの表情や文面は、いつだってきらきらと輝いていた。眩しいくらいに。

 自分の知らないずすがそこにいる。そのことに、晶は一抹の寂しさを覚えてしまった。しかし、それ以上に、例えようのない喜びで胸が満たされるのを感じた。

「すずの相手が、神谷で良かった」

 千鶴のほうを見上げ、「ありがとね」と付け加える。——これが、晶の本音。

 千鶴に対する、今の晶の素直な気持ちだ。

 食堂の中のすずが席を立った。テーブルの上を軽く拭き取り、『今から行きます』と外に向かって手話を投げかける。

「……俺、ずっと考えてたんだよね」

 と、それまで聞いていただけの千鶴が、おもむろに口を開いた。「え?」と短く聞き返した晶に、視線をすずのほうへと向けたまま、静かに語り始める。

「あんなふうに笑えるようになるまで、すずはどれだけ涙を流したんだろうって。事故のこと、俺はまだすずから詳しく聞いてないし、喉の傷痕も見たことない。すずが強い子なのは知ってる。けど、八田がその痛みを知ってるから……八田がずっとそばにいたから、すずは笑えるようになったし、今でも笑ってられるんだと思う」

 光を宿した琥珀色の瞳が、ゆらりと揺れる。

「人の痛みに寄り添うのは、かなり勇気のいることだから。……八田がもし、すずのそばにいなかったら、俺はすずに出会えてなかったかもしれない」

 すずの姿を映じた、まるで宝石のような千鶴の双眼。

 そこに滲んだ優しい色に、晶は泣きそうになった。

 千鶴の最後の言葉の真意はわからない。だが、なんとなく、晶にはそれが伝わった。


 ——大丈夫。アタシがいるから。


 学校に行くことを躊躇っていたすずに、人前で手話を使うことを躊躇っていたすずに、とにかく「大丈夫」だと伝え続けた。自分がついているからと。

 どうすればいいのか、何が正解なのか、わからないまま、ただひたすらすずのそばにいた。これでいいのかと自問する間もなく、ただひたすらずっと。

 きっと、そんな自分たちの過去を、彼は優しさでもって酌んでくれたのだろう。

「……ん? 傷痕見てないってことは……アンタたち、まだ致してないの?」

「そう、だけど……なんでよりによってその表現を選んだの?」

「あ、すずが来る」

「……」

『お待たせ!』

 友人と別れたすずが、二人のもとへ駆け寄ってきた。頬杖をつくように親指以外の四本の指の背を顎の下に当て、申し訳なさそうに眉を下げる。

『アキちゃん、千鶴くんと一緒だったんだね』

「うん。すずと会うって言うから、一緒に来させてもらった。……これ、ありがとう。今回も超面白かった」

『わざわざ持って来てくれたの? ありがとう』

 千鶴のおかげで、晶は一月ぶりにすずに会うことができた。

 手話をする指の先まで、すずは今日も最上級に愛らしい。

『ちょうど良かった。アキちゃんに渡したいものがあるんだ』

「渡したいもの?」

 受け取ったブルーレイをバッグの中に仕舞うと、すずはその手であるものを取り出した。

 それは、先日千鶴とデートしたときに購入したクリスマスカード。雪の結晶が舞う真白い封筒に入れられたそれを、両手で晶に渡す。

『アキちゃん、忙しくていつ会えるかわからなかったから、会えたら渡そうと思ってバッグに入れてたの。少し早いけど……メリークリスマス』

 いつもありがとう、と言葉を添えれば、感情が昂った晶に思いきり抱き締められた。その様子を、傍らで千鶴がそっと見守る。

「……もしかして、アタシに一緒に行こうって言ったのは、このためだったの?」

「俺はただ、すずが喜んでくれたらいいなって思っただけだよ」

『?』

 すずを抱き締めたまま、晶が問いかける。すると、小憎らしいほど美しい笑みを湛えた千鶴が、形の良い唇を動かしてこう言った。

 本当に、この男には敵わない。


 彼は——神谷千鶴は、やっぱりすずの選んだ人だ。


 ❊


「八田はほんとにいい子だね」

『うん。優しくて、賢くて、美人で、わたしの自慢の親友。手話も、アキちゃんと一緒に練習したの』

「そうなんだ。俺も、早くすずの手話全部わかるようにならないと」

『千鶴くんならすぐ覚えられるよ』

「冬休み、また教えてね……って、そうだ。イブなんだけど、俺どうしてもバイト休めなくて」

『叔父さんのお店?』

「うん。あの人、ほんと人使い荒いんだよね。二十五日は死守したから、一緒に過ごそう? ごめんね」

『ううん、気にしないで。二十五日楽しみにしてる。バイト、頑張ってね』


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