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第1話

 タートルネックから漏れる白い息。

 まだ昼間だというのに、どんよりと曇った空は暗い。まるで墨汁のような空。今にも落ちてきそうだ。

 今夜は雨が降るかもしれません——朝の情報番組で、お天気キャスターのお姉さんが、明るくこう言っていたことを思い出す。念のため、折り畳み傘は持参してきた。仮に天気が崩れたとしても、今日は大丈夫だ。

 レトロな喫茶店。その軒先に佇むこと、およそ十五分。

「すず」

 自身の名前を呼ぶ声に、月宮(つきみや)すずは振り返った。タートルネックに口元を(うず)めたまま、笑顔で小さく手を振る。ふわりと躍った栗色のロングヘアは、まるで朝焼けに照らされた波のよう。

 すずの名前を呼んだのは、大袈裟な表現でもなんでもなく、絵画をくり抜いたかのような美青年。灰色とも金色ともとれる髪の毛を揺らしながら、足早に近づいてくる。名前を呼んでから、ものの二、三秒で彼女の前に立った彼は、頭一つ分以上低い彼女の頬を両の手で包んだ。

「寒いから中で待っててって言ったのに」

 心配そうに、若干不満そうに、彼——神谷(かみや)千鶴ちづるが声を垂らす。風邪でも引いたらどうするんだと目に滲ませるも、溜息と引き換えにぐっと息を呑み込んだ。

 桃色に染まった頬、光を宿した薄茶色の瞳、上がったままの口角——こんなにも嬉しそうな顔を見せられてしまえば、小言など言えるはずもない。

 二人揃って店内へ。

 ドアを開ければ、ベルの音がノスタルジックに鳴り響いた。そのまま奥の定席へと移動する。

 席に着くと、すずはバッグの中から一番にスマホを取り出した。必需品であるそれを、自身の体の前に置く。けっして忙しなく確認するためではない。

「今日はノートじゃないんだ?」

 すずのスマホを見た千鶴が一言。これに対し、すずが恥ずかしそうにこくりと頷く。

 理由を尋ねようとしたタイミングで店員がやってきたため、とりあえず「いつもの」とだけ注文を伝えた。商品名は口にしていないが、ロイヤルミルクティーとブレンドコーヒーが、十分以内に到着するはずだ。

 しっとりとしたジャズミュージックが流れる。平日の昼間だからだろうか。客足はまばらだった。

 先ほどからずっと、千鶴しか話をしていない。千鶴しか声を発していない。すずに話しかけるのも、店員とやり取りをするのも、すべて彼。

 おもむろにスマホを手にしたすずが、スリープを解除する。メモアプリを起動し、慣れた手つきで文字を入力していった。

 数秒後。千鶴に向けられた画面には、ゴシック体でこう記されてあった。


『家に忘れてきちゃった』


 すずは、声を出すことができない。

 七年前、事故で喉元を負傷して以来、言葉を音にすることができないのだ。

 頑張れば、囁く程度に話はできる。が、著しく体力を消耗してしまうため、筆談か、今のようにメモアプリを活用することにしている。

「そっか。けど、お母さんには手話で話してるんだろ? 家でノート使う機会あるの?」

「……」

 千鶴のこの質問に、すずはスマホを手に取るも固まってしまった。明らかに、文字を打つのを躊躇っている。……そわそわしている。とはいえ、気持ちが翳ったわけではない。

 一度だけ、千鶴のほうをちらりと見遣る。灰色の前髪から覗く琥珀色の双眸。日本人離れしたその顔からすぐさま視線をスマホに移すと、すずは迷いながらも指を動かし始めた。

『千鶴くんと、その日どんなお話したか、確認したくて』

 今度は、千鶴が固まる番だった。ぽかんと、思わず瞠目する。

「それって……俺と会った日は、ほぼ毎回ノートを見返してるってこと?」

 こくり。

「そう、なんだ」

 破壊力抜群のこの愛らしさに、千鶴の胸中は穏やかではなくなっていた。くすぐったいような、焦げつくような、なんとも形容しがたい情動が押し寄せる。こんなことは初めてだ。

 知り合って四ヶ月。付き合い始めて三ヶ月。

 可憐で優しい彼女への想いは、日を追うごとに大きくなっていく。


 同じ大学に通う二人。すずは看護学科、千鶴は保健学科と、専攻は異なるが、ともに医学部の二年生である。

 接点があるようでなかった二人が始めて言葉を交わしたのは、大学の外だった。

 今年の八月某日。その日、すずは講義後にレポートを纏めていたため、大学を出るのが遅くなった。たしか、午後七時半を回っていたと思う。

 頭上に広がる嫌な雲を仰ぎながら駅に向かっていると、案の定にわか雨に襲われた。俗に言うゲリラ豪雨である。

 いつも携帯している折り畳み傘も、そんな日に限って不携帯という残念な始末。コンビニまではちょっと遠い。

 仕方がないので、申し訳ないと思いつつ、とあるフレンチレストランの軒先にしばらく厄介になることにした。少し待てば、雨足は弱まるだろうと見越して。

 だが、すずの期待も空しく、雨足は弱まるどころかますます強くなるばかり。

 これ以上ここにいると迷惑になる。覚悟を決めたすずが、一歩を踏み出そうとした。

 そのとき。


 ——まさか走るの? この雨の中?


 店内から出てきた千鶴に、呼び止められた。

 黒の蝶ネクタイに黒のカマーベスト。そして、黒のサロンエプロン。

 外国人かと思い、一瞬いつも以上に身構えてしまったすずだったが、流暢な日本語にほんの少しだけ安心した。物言いは、かなりぶっきらぼうだったけれど。

 質問にこくこくと首肯し、両手を合わせて「ごめんなさい」と頭を下げる。例に漏れず不思議そうな色を湛えた千鶴に対し、すずはスカーフを巻いた喉元を指差したあと、両の人差し指で罰点を作った。


 ——ああ、なるほど。声が。


 抑揚のない語調で納得を示すと、「ちょっと待ってて」と言い残し、千鶴は店の中へと入っていった。疑問符を浮かべながらも、すずは言われたとおりその場で待つことに。

 すぐさま戻ってきた彼の手には、真白いフェイスタオルと、群青色のメンズ雨傘が握られていた。その二つを、すずの前に差し出す。


 ——これ使って。どっちも返さなくていいから。


 不愛想に、こう言葉を添えて。

 もちろん、すずは断った。首と両手をぶんぶんと振りながら、受け取れないとばかりに後ずさる。


 ——俺もう戻らないと。ほら、受け取って。


 千鶴の強引さに押し切られ、すずはタオルと傘を受け取ってしまった。

 声が出せていたら、もっと上手く断れていたかもしれない。こういうケースに遭遇するたび、いつも心苦しさを覚えてしまう。

 胸の前に持ってきた左手の甲から、右手を縦に垂直に上げる。はっとし、とっさに「ありがとうございました」と囁いた。

 つい、いつもの癖で使ってしまった手話。

 声だってきっと、雨音に掻き消されていたはず。


 ——どういたしまして。


 (ひさし)から落ちた大粒の雨垂れが、ぴちゃんと足元で跳ね返った。遠くで雷が鳴っている。

 ふわりと微笑んだ千鶴に、どきりと高鳴ったすずの心臓。

 これが、二人の出会いだった。


「俺、びっくりしたんだよね」

 喫茶店でティータイムを堪能し、とくに目的もなく街でぶらぶらとデートをしているとき。

「すずが意外とアクティブで」

 唐突に、千鶴からこんなことを言われた。

 クリスマス用のグリーティングカードを手に取ろうとして引っ込める。きょとんとした目を千鶴に向ければ、代わりにカードを取ってくれた。

 青と白のシンプルな色合いが美しい、繊細で緻密なデザイン。箔押しされた雪と星が、光を反射して輝いている。

 カードを持ったまま、すずは左手の甲を上に向けた。そうして、人差し指を立てた右手をくぐらせ、その人差し指を左右に振る。

 基本的な手話は、千鶴も少し理解できるようになった。

 これは、理由を尋ねる表現だ。

「タオルと傘返すために、俺のこと追いかけてきただろ? あのとき後ろから急に背中叩かれて、めちゃくちゃびっくりした」

 千鶴が話しているのは、二人が出会った翌日の出来事。

 再度レストランに赴くつもりだったすずは、タオルと傘を持って大学に来ていた。返さなくていいと言われたものの、平然と自分のものにはできなかったのだ。

 カフェテリアでランチを食べながら、親友に事情を話していた昼休み。窓ガラス越しに、友達数人と構内を歩く千鶴の姿を見つけた。

 あっと思ってから千鶴の背中を叩くまで、自分でも驚くくらいに早かった。それくらい必死だったのだ。声が出せない自分には、直接触れるしか気づいてもらう術がない。

 そのときのことをつぶさに思い出し、すずは赤面した。

「まさか同じ大学に通ってるなんて思わなかった。嬉しかったよ。すずが俺のこと見つけてくれて」

 身長差三十センチ。頭上から降り注いだ「ありがとう」の言葉に、すずは顔を上げてはにかむように笑った。

 出会いから一月後、すずのほうから告白した。二十歳にしてようやく訪れた初恋。声を出せない自分に、初対面であんなにも優しくしてくれたのは、千鶴が初めてだったのだ。

 成就するなんて思いもしなかった。けれど、千鶴からの意想外の返事に、その日の夜は眠れなかった。


 ——俺も、一目惚れだったから。……同じ気持ちで嬉しい。


 大切にしたいと思った。彼が同じだと言ってくれたこの気持ちを。彼とのこの関係を。

 二枚一組になっているクリスマスカードを購入し、帰宅の途につく。時刻は午後六時。外はもうすっかり夜になっていた。すずを自宅へ送り届けるため、これから二人、駅へと向かう。

 青と白。赤と緑。クリスマス色に染まった街を、手を取り合って並んで歩く。イルミネーションで彩られた街路樹は、まるで星が咲いているように綺麗だった。

 時間が時間だからだろう。しだいに人が集まり、小さな波ができるようになった。買い物や外食といった目的のために、往来が激しくなる。

 だが、悲しいかな、そんな純粋な目的で動いている人ばかりではない。

 駅前に差し掛かったとき、二人の後方が騒がしくなった。女性の悲鳴と男性の怒鳴り声。なにやら揉めているようだ。

 すずと千鶴が振り返ると、いかにも怪しげな全身黒ずくめの男が目に飛び込んだ。ものすごい勢いで、こちらに向かってくる。

「ひったくりっ!!」

 男のさらに後方で、女性がこう叫んだ。男の小脇には、てんで似つかわしくない女性物のブランドバッグ。嫌でも状況が把握できてしまう。

「どけっ!!」

 通行人を片っ端から撥ね飛ばした男が、ついにすずと千鶴の目前まで迫ってきた。

 三メートル、

「どけっつってんだろっ!!」

 二メートル、

「どけっ!!」

 一メートル——

「ぐあ……っ!!」

 一瞬の出来事だった。

 踏み込んだ男の右脹脛を、対峙した千鶴が左足で蹴り上げた。そうして男の体を掬い上げ、腰から地面に叩き落とすと、すぐさまうつ伏せに押さえ直して両手首を捻り上げたのだ。

「すず! そこの交番に行って、警官呼んできてっ!」

 ざわざわと、人集(ひとだか)りができる中。

 恐怖で足が竦んでいたすずだったが、初めて聞いた千鶴の大声に突き動かされ、すぐそばの交番へと駆け出した。

 思うように地面が蹴れない。冷たい空気が肺に刺さる。焦る気持ちに泣きそうになりながらも、鼻を啜りながらとにかく直走った。

 一分も経たないうちに、交番には辿り着いた。……ここからが、本番だった。

 入り口のドアを開け、中に駆け込む。若い警官が心配そうに声をかけてくれたが、嗄声でいくら叫んでも詳細を的確に伝えることができなかった。手話を使っても、理解してもらえるかどうかわからない。スマホを取り出して文字を打つのは時間がかかってしまう。

 もつれる気持ちをどうにか抑えつけ、滲む目で使えそうな何かを必死に探す。

「……っ!」

 そして、見つけた。

 壁に掛けてあったホワイトボード。一月分の予定が書かれてあるそこに、黒いマジックを取ったすずは、猛スピードで書き殴った。


『ひったくり 彼がつかまえた 早く来て』


 それからは、あっという間だった。

 すずの誘導で現場に到着した警官に、黒ずくめの男は逮捕された。警官が到着するまでのあいだ、千鶴と何名かの通行人が一緒に取り押さえてくれていたおかげで、それ以上被害が拡大することはなかった。

 連行される際も、男はいっさい抵抗を見せなかった。

 被害に遭った女性は、ストッキングの膝の部分が盛大に破れてしまったものの、バッグが無事に戻ってきたことに安堵しているようだった。「何かお礼を」という彼女の申し出は、二人で丁重に断った。

「……ん?」

 揺れる電車の中。

 隣に座る千鶴の袖を、すずがくいくいと引っ張った。

『どこも怪我してない? 大丈夫?』

 すずのスマホの画面には、千鶴の体を気遣う文言が並んでいた。眉を顰め、至極不安そうに千鶴の顔を見つめる。

 千鶴が空手の有段者であることは知っていた。高校時代、インターハイで、見事準優勝を飾った経験があるということも。

 でも、それでも、心配しないというのは無理だ。

「大丈夫。どこも怪我してないよ。すずは? 大丈夫だった?」

『わたしは大丈夫。交番までの三百メートルがきつかったから、運動しなきゃって思った』

「ははっ。一緒に運動する?」

『千鶴くん走るの速そうだよね』

「そこまで速くないよ。どっちかっていうと、長距離のが得意」

『でも、50メートル6秒台で走れるでしょ?』

「うん。すずは?」

『自己ベストが7秒ジャスト』

「え。それ、速くない?」

 笑いながら、肩を寄せ合いながら、努めて緩い会話を意識した。

 あんな事件に巻き込まれてしまったから、というだけではない。


 互いにまだ打ち明けていない、それぞれの過去の傷が、疼いてしまったからだ。


 事件からおよそ一時間後。

 千鶴に送ってもらい、すずは無事に帰宅した。

 別れ際、そっと口づけを交わし、千鶴の背中を見えなくなるまで見送った。明日また大学で会える——そうわかっていても、寂しさは拭えない。

 きゅっと唇を結ぶ。玄関の鍵を開けて、誰もいない真っ暗な家の中へと入った。

 築七年。5LDKの一軒家。

 現在、すずはこの家に母と二人で暮らしている。高校の養護教諭をしている母は、まだ仕事から帰っていないらしい。

 今朝、朝食を食べているときに、今夜のメニューはシチューだと楽しそうに言っていた。市販のルーは使わずに、すべて一から作るのだと。

 母のその意気込みを最大限に尊重し、とりあえず材料だけ用意しておくことにした。冷凍庫に、たしか帆立があったはず。解凍しておかなければ。

 しかし、家に上がったすずが真っ先に向かったのは、キッチンではなく和室だった。

 六畳一間の仏間。部屋の隅にひっそりと据えられた黒檀の仏壇、その上に、男性の遺影が掛けられてある。

 柔和に微笑むこの男性は、すずの父親だ。

 仏壇の前に正座する。ひんやりとした畳が、徐々にすずから体温を奪っていった。

 すずは、着ているタートルネックをおもむろに下へずらすと、自身の喉元に触れた。皮膚の膨らみに沿って、指で真横になぞる。

 いまだに鏡で見るのは怖い。声が出なくなった原因、それを認めるのは。

 上手く伝えられず、もどかしい思いをする原因を。自分だけではなく、一緒にいる人にまで、奇異な目が寄せられてしまうこの原因を。

 けれど、なによりも怖いのは、この傷痕を人に見せること。

 彼に、見せること。

 ……これは、証なのだ。

『ただいま……お父さん』

 大好きな父。

 その命と引き換えに、自分が助かったという——。


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