92 夢うつつの訪問者
騙し騙し気にしないようにしていた体調の不良も、自覚してしまった途端に容赦なく猛威をふるい始める。ブランシュ隊長から寝台に押し込められた後は、あっという間に微熱が高熱へと変化して、そこから意識が朦朧とし始めるまで時間はかからなかった。
(さ、寒い)
マーシャルレイドの厳しい寒さに慣れている私でも、自分の身の内から湧き上がってくる悪寒にはどうしようもない。熱が上がりきるまで毛布を何重にも被った中でガタガタと震え、熱が上がりきった後はぼんやりした思考の中で、寝ているのか起きているのかわからない状態になった。
心配そうな顔のラフォルグ夫人が医術師を連れてやってきて、何度か誰かに起こされては独特の臭みがあるものを飲まされたようなそうでないような。かと思えば、今度は甘いものも喉に流し込まれ、お腹には温かい塊(多分温石)と額には冷たい布を当てられる。
そうやって過ごすうち、夢うつつの中で私は懐かしい人に会った。
『可哀想に……こんなに熱くなって、辛いわよね? でもこれを飲めばきっと良くなるわ』
そう言って私の手を握ってくれていたのは、記憶の中でしか会えないお母様だ。
『おかあさま、わたし、それ、やだ』
お母様の空いた手には、薬湯が入った器がある。これは幼い私が流感にかかってしまい、駄々をこねて苦い薬湯を飲みたくないと言って困らせた時のことだ。私と同じ赤い髪と、緑色の目。優しくて、温かくて、大好きな私のお母様。
『大丈夫よ、お母様が先に飲んでみせるから。そしたらメルフィもちゃんと飲んでね?』
優しく笑ったお母様が、私が見つめる前で薬湯に口をつける。そして、
『ゴホッ、や、やだこれ、ゲホッ、にがっ! これにがっ!』
ひと口含んだだけで咳き込んでしまい、涙目になったお母様が顔をしかめる。美味しくない魔物や苦い魔物を食べ慣れているはずのお母様ですらこれなのだ。私は怪しい深緑色をした薬湯を押しのける。
『……ぜったいのまない』
『で、でもほら、すごく効きそうよ?』
『にがいのやだ』
『そ、そうね。もう少し飲みやすい薬湯にしてもらってくるわ! 待ってて、メルフィ』
バタバタと慌てた様子で部屋を出て行ったお母様は、結局あの苦くて不味い薬湯をどうしたのだったか。急に手を離され、一人にされて寂しくて、お母様は戻って来なくて。私はこんなことならきちんと薬湯を飲めばよかったと後悔して泣きじゃくったのだ。
(本当はずっと手を握っていてほしかったのに)
私が目を開けると、そこは薄暗い部屋の中だった。当然のことだけれどお母様はいない。顔を横に向ければ、給仕台の上に桶と折り畳んだ布、それに水差しが置いてあった。
(……水)
喉の渇きを覚えた私は、力の入らない身体を無理矢理起こして水差しに手を伸ばす。
「駄目だよ、君は安静にしていなさい」
そこに人がいるとは思ってもいなかった私は、いきなり聞こえた知らない人の声にギクリとした。
「ほら、少し背中をあげられるかい?」
そう言って私の背中にいくつか枕を当ててくれた人が、今度は私の手に水が入った木杯を握らせてくる。薄い明かりが灯された魔法灯の下、私の寝台の側にいたのは白い医術師の衣を着た見知らぬ男性であった。
「……医術師様?」
「ん、意識がはっきりしてきたみたいだね」
そう言って私の額に手を当ててきた医術師様が、「でもまだ熱は引かないか」と呟く。金色の髪をキュッと後ろで束ねたまだ年若い医術師様は、私に水を飲ませると額に冷たい布を置いてくれた。
「何が食べたいものはあるかい? 口にできるものであればなんでもいい」
「……お腹は、空いていません」
「そうか。では、まだ休息の方が必要ということかな。君が無理をしていたのではないかと、屋敷の人が随分と心配していたよ?」
背中に当てていた枕を取り、再び私に毛布をかけた医術師様が、私の手を取って優しく目を細める。珍しい紫色の目だ。初めて会ったはずなのに、知っている人のように思えてくるのは柔らかい雰囲気のせいなのだろうか。
「ごめんなさい」
ブランシュ隊長やナタリーさん、リリアンさんにラフォルグ夫人の心配そうな声や顔を思い出した私が思わず謝罪すると、医術師様が悲しそうな顔になる。
「そんな顔をしないで。謝る必要なんてないんだから」
「でも、ご迷惑を」
「迷惑だなんて、誰も思ってはいないよ。典医……ん、僕の見立てでは、君の症状はただの風邪だし、魔力も安定しているみたいだからしばらくは療養するように。今夜は僕がここにいるから、なんでも甘えてくれていいんだよ?」
何故だろう。知らない人と一緒にいるというのに、すごく安心できるのは医術師というこの人の職業だからなのか、それともこの人だからなのか。
私が思わず医術師様の手を握ってしまったら、医術師様も握り返してくれた。その手の温もりに、私はホッと息をついて目を閉じる。
「……温かい」
「僕でごめんね。本当であれば君の手を握るのは彼であるべきなのに」
「アリスティード様は、お務めを果たしに行っておられますから……こんな時に倒れてしまう私が悪いのです」
閉じた瞼に、ドラゴンを駆ってパライヴァン森林公園に向かったアリスティード様の後ろ姿が浮かび上がる。既にラグラドラゴンと相対しているかもしれない。いくら重装備だからといって、怪我をしないわけではないのだ。別れ際、「お前のところにすぐに戻る」と仰ってくださったけれど、無事な保証などどこにもない。
「大丈夫。僕に……この屋敷に彼からの伝令蜂も届いていたみたいだけれど、明日にでも戻ってくる勢いだったそうだよ。君のことがよほど大切なようだね」
「あの、私のことは」
「一方的な伝令みたいだし、君が倒れたことは知らないはずだよ。だからしっかり休んで、元気な姿であの子を迎えてやればいい」
「はい」
また熱が上がってきたのか、意識がぼんやりとし始めた。手に感じる温もりが心地よく、うつらうつらしていた私は医術師様の言葉に引っかかりを覚えて目を開く。
「医術師様」
「なんだい?」
「医術師様は、アリスティード様の御典医様だったのですか?」
すると、医術師様が紫色の目をまんまるにして面食らったような顔になる。私も何を言っているのだろう。医術師様はお若いようだし、アリスティード様が王城におられた頃はまだ成人ではなかった可能性がある。でも、会話の端々からアリスティード様への親しみが感じられるから、幼友達だったのかもしれない。
「いいや。あの頃、自分が医術師ではないことを悔やみはしたけれど。僕は子供で、こうして手を握ることすらできなかったんだ……あの子が一人で戦っている時に、何もできなかった」
噛み締めるように呟いた医術師様が寂しげに笑った。その翳りを帯びた微笑みが、いつかのアリスティード様の顔に重なって見える。
「泣かないで」
「えっ?」
「泣かないで……アリスティード様……私が」
医術師様がアリスティード様に見えるなんて重症だ。私は言葉を切ると、大きく息を吐き出した。そして今度こそゆっくりと目を閉じて、眠りに身を任せる。
「ゆっくりおやすみ」
「おやすみ、なさい……ご迷惑をおかけし、ます」
「元はと言えば僕が急かしたせいだし。元気になったら、怒り狂うあの子から僕のことを庇ってくれると嬉しいな」
そんな言葉を聞いてしまったからだろうか。夢の中で誰かに向かって怒鳴りながら詰め寄るアリスティード様を見つけた私は、諫めるために慌てて駆け寄ったのだった。
◆ ◆ ◆
「っくしっ!」
パライヴァン森林公園は街からは遠く離れており、薄っすらと雪も積もっている。しんしんとしみてくる寒さに身体が勝手に震えてくしゃみが出た。
「おや、閣下。風邪ですか?」
背中に『一』を表す赤いラングディアス文字を背負った重装鎧はケイオスだ。
「風邪など引いていられるか」
「もうすぐ奴の寝ぐらですから、油断は禁物ですよ」
「わかっている」
全身隙間なく鎧で身を固めた俺たちは、胸と背中と両肩に識別番号を割り振っている。顔すら判別できない重装はどれも似たような姿になるので、わかりやすく識別する必要があるのだ。ちなみに赤の一番はケイオスで俺は赤の『零』番。青の一番から五番はミュラン隊、緑の一番から五番はアンブリー隊、と今回は五人一組の部隊を五組編成した。
(俺たちと連携のできない王国騎士たちがどこまで役に立つか)
狂化したラグラドラゴンは、体力が無尽蔵でとてもではないが人の身でずっと戦い続けることなどできない。四半刻ごとに部隊を入れ替えながら戦って、果たしてどれくらいの時間で討伐できるか定かではないのだ。
大型の魔物を討伐するには、連携も重要になる。武器が壊れれば補給部隊が、怪我をすれば医療部隊が。補助を担う各部隊と討伐部隊の呼吸が合わなければ、そこにあるのは最悪『死』だ。
先ほどの休憩からもう随分と歩いてきており、いつ魔物と出くわすかわからない。俺は立ち止まると皆に声をかける。
「よし、最後の休憩に入るぞ。汗をかいた者はすぐに着替えよ! 偵察部隊はもう五十フォルンほど進んで戻って来い」
「了解!」
俺は面鉄を上げてひと息つくことにした。汗で湿った下着を替えて再び重装鎧を装着していると、一際立派な鎧の王国騎士がやってきた。
「ガルブレイス公、少しよろしいか」
「これはベイリュー大隊長閣下、どうなさいましたか?」
普通、魔物討伐に大隊長が参加することなどないが、今回は狂化したドラゴンである。緊急討伐要請まで出た王国の一大事という位置付けであるため、参加を余儀なくされたのであろう。生やした口髭を所在なげに撫で、そわそわと落ち着かない様子のベイリュー大隊長は、顔合わせを兼ねた打ち合わせの時から何か言いたそうな顔をしていたが……。
「いや、あの……こんな時に申し訳なくはあるのですが、弟のベイガードが」
なるほど。俺はベイリュー大隊長に座るように促す。彼の弟であるベイガードは、以前ガルブレイスの騎士をしていて、今は王国騎士として領地境のリッテルド砦を任されるまでになっていた。
「つい、ふた月ほど前に会いましたが、元気そうでしたよ」
「はい、それは私もわかっております。弟ではなく、その、ガルブレイス公がご婚約者様とリッテルド砦に滞在したとは、真の話でしょうか?」
(そうきたか)
まだ王都では噂になっていないと思っていたのは間違いだったらしい。
「実は国王陛下から直々にお伺いしたのですが、陛下はまあ、私を揶揄うような御方ですから、広まりつつある噂が悪い方に向かぬよう、真偽を確かめておこうと思いまして」
こんな時に、とは思うものの、この生真面目そうな大隊長が悶々としたまま討伐が始まれば、何かの拍子に気を取られて事故に繋がることも考えられる。さらに国王陛下に揶揄われる可哀想な身の上ということもあり、俺は包み隠さず事実を告げる。
「そうですか。私に関する噂についてはさておき、婚約者にまで悪評が付き纏うのは避けたいものです。私が婚約したことは間違いありませんし、政略結婚ではなく、私が望みました。彼女は噂などに踊らされず、真っ直ぐ私を見てくれる稀有な女性です」
どうせ、討伐の後はお節介な身内から王城に呼び出されるのだ。王城ではあれの傍にいるだろうこの大隊長とも顔を合わせるだろう。その時、何も知らない者からメルフィエラを好奇の目で見られるのは腹立たしい。
「ベイリュー大隊長閣下。もし王城で見かけた時は、心から祝福していただきたく存じます」
俺が魔眼に魔力を込めて愛想笑いを浮かべると、大隊長は慌てたように頷いて自分が率いる部隊へと戻って行った。
10/29にコミックス①巻が発売されました。
また月刊少年シリウス12月号でも出張掲載されています。