90 王都セラデュール
荷車を引いた地走り竜の隊列がミッドレーグから出発していく。
国王陛下からの緊急討伐要請の書状を受け取ってから四刻弱しか経過していないというのに、あっという間に遠征の準備が整った。ユグロッシュ百足蟹を討伐した時よりも荷物は遥かに多い。私の脚より太い鎖付きの錨のようなものや、魔法が織り込まれた鋼の網。分厚い大楯に大剣、そして全身を覆う重装鎧一式などの物々しい装備資機材は、ラグラドラゴンと相対するためのものだという。
パライヴァン森林公園までは、陸路だとどんなに急いでも三日はかかる。後方支援部隊は先に現地へと向かい、アリスティード様たちはドラゴンを飛ばすことになった。そして私も。
「ラフォルグ夫人、もし王城から使いの者が来ても全て断りを入れてくれ。手紙類も、俺が戻るまで封は切らんと伝えておいてほしい」
いつもの軽装備のアリスティード様が、ラフォルグ夫人の目を見てこれでもかと念を押す。
「かしこまりました」
「あと、仕立て屋の件もよろしくお願いしたい」
「ふふふ。そんなにご心配なさらずとも、うちの愚息がきちんと手を回しております」
「色々と至らぬことばかりでご迷惑をおかけする」
「迷惑だなんて。私は楽しくやらせていただいておりますよ」
ラフォルグ夫人はケイオスさんのお母様で、侍女がいないガルブレイスの臨時侍女長を務めてくださっている(アリスティード様は幼少期からラフォルグ家にお世話になっていたらしい)。そして私の前で立ち止まったアリスティード様が、すごく申し訳なさそうな顔になった。
「不足はないとは言い切れずすまない、メルフィ。すぐに始末して戻るから待っていてくれ」
「はい、ご無事を祈っております。それから、今度は絶対に曇水晶を使ってくださいね?」
私の言葉に、アリスティード様が腰の雑嚢袋をポンと叩く。
「もちろんありがたく使わせてもらう。最強の防御力を誇る魔法だとオディロンの分析にも出ているからな。持久戦では重宝するだろう」
私に出来ることなど高が知れているけれど、今回の曇水晶には熟慮して構成した古代魔法の魔法陣を描き入れている。それに、他の騎士の皆さん用に現代魔法で構成した小さな曇水晶も準備したので、惜しみなく使ってもらいたい。
さすがにラグラドラゴンの討伐は普通の討伐任務とは違うのか、私たちの周りでは騎士たちの家族と思しき人たちが見送りに来ていた。年老いた女性と静かに抱擁を交わす騎士や、父親から背中をバンバン叩かれている騎士、居残りの騎士と話し込む騎士。その中にちらほらと、若い女性から頬に口付けを受けている騎士の姿がある。だいたいの人がパルーシャを着ているから婚約者なのだろう。
私はふと、ガルブレイスの騎士たちは、妻や恋人から口付けで見送られるという風習があるらしいことを思い出す。
(わ、私もするべきでしょうか)
アリスティード様の婚約者には間違いないのだし、何より無事を願っているのだから。でも、どうやってするのかわからない。私がアリスティード様のことをあまりにもジッと見ていたからか、アリスティード様が少し屈んで私を覗き込んできた。
「何か心配事でもあるのか? 俺の身内については、心底申し訳ないと思う。あれを止められるのは、王妃陛下くらいしか俺は知らん。我ながら情けないが――」
「あ、あと少し」
私はアリスティード様の肩に手を伸ばして掴むと、思いっきり背伸びをした。一際背が高いアリスティード様の頬は、思ったよりもまだ高い位置にある。
「メル、メ、メメメル⁉︎」
「もう少し屈んでください」
ギクシャクとした動きで何故か両膝をついたアリスティード様が、今度は私よりも低くなってしまった。でもこれで口付けがしやすくなったので、私は古代魔法語で祈りの言葉を呟きながら、腰をかがめてアリスティード様の頬に魔法の口付けを落とす。
(どうか、アリスティード様がお怪我などなされませんように)
あまりに真剣に祈ったからか、私の赤い髪が仄かに魔法の輝きを灯す。ガルブレイスの風は冷たくて、私も風邪気味だし移してはいけないと思い口付けはほんの触れるだけ。少し恥ずかしくなった私が一歩だけ距離を取ると、アリスティード様は風避けのための面鉄を素早く下ろした。
(い、嫌だったのでしょうか?)
その反応をどう取ればいいのかわからず、私はゆっくりと立ち上がるアリスティード様を見やる。
「メルフィエラ」
「は、はい……」
「お前の祈り、確かに受け取った」
「はいっ!」
側で見ていたラフォルグ夫人が、白い騎士服の裾を摘むとアリスティード様に向かってゆっくりとお辞儀をする。そんなラフォルグ夫人にアリスティード様は頷くと、そのままケイオスさんが待つドラゴンのところへ歩み去ってしまった。
「さあ、メルフィエラ様。参りましょうか」
風人であるラフォルグ夫人は、ケイオスさんのように風を読み炎鷲も巧みに操るのだという。私の護衛に就くブランシュ隊の皆さんも、空を飛ぶ魔物は不得手だということで今回は炎鷲部隊の騎士たちに王都まで連れて行ってもらう手筈になっていた。
「炎鷲はドラゴンほどの速度はありませんが、優雅に飛ぶ美しい魔鳥です。安心して空の旅をお楽しみくださいませ」
「はい、よろしくお願いします」
冬は雪深いマーシャルレイドから出たことがなくて、冬の王都に行くのは当然初めてだ。王都もガルブレイスと同じように冬でも店が開いていて、大層賑わっているのだという。
(王都の魔法道具屋にも行ってみたいけれど……)
私はアリスティード様のお兄様にお呼ばれしているのだ。そう、私は国王陛下ではなく、私の新しいお兄様にお会いしなければならない。
(アリスティード様がお戻りになる前に、きちんと体調を整えておかなければ)
少しだけ不安を抱えて、私は王都へと旅立ったのだった。
◆ ◇ ◆
「なぁ、エミル。本当なのか?」
先頭を歩くテオが僕の方を振り返る。テオは僕より一つ年上で、身体も大きくて喧嘩だって仲間の中で一番強い。そんな頼りになるテオが、僕より不安そうな顔をしているのには理由があった。
「昨日の朝、洗濯屋のソーハンが『狂血屋敷』の裏の窓が開いてて、中で赤い影が動いたのを見たんだって。シェリーの前で得意げに話してたよ」
「なるほど、帰らざる主人がようやく帰って来たってわけか」
「えぇ〜……やだよ、テオ、エミル。やめようよ。捕まったら殺されちゃうよ……」
テオが木剣の柄を握りしめ、怖がりのマルタンは僕の服の裾を後ろから引っ張る。
「腰抜けソーハンは生きて帰ってきたんだろ? なら俺たちが引くわけにはいかない」
テオの言葉に、僕は大きく頷いた。ソーハンの奴は本当に腰抜けで、怖がりのマルタンよりも怖がりだ。それに、ソーハンはシェリー……僕の幼馴染の気を惹こうとして話を誇張しているのも腹が立つ。
(シェリーは僕の幼馴染なんだぞ。『狂血公爵』に会っただなんて、そんなの嘘に決まってる)
僕らが住んでいる王都セラデュールの東地区には、建てられて以来誰も住んでいない大きな屋敷がある。広い屋敷を管理しているのはギョームという名前のお爺さんただ一人で、いつ戻って来るとも知れない屋敷の主人をずっと待っているのだと聞いていた。ギョーム爺さんは無愛想で、僕らが屋敷に近寄ろうものなら烈火の如く怒り出して追い払ってしまうから、本当のところは誰にもわからない。だけど、屋敷の門柱には独特な紋章が付いているから、持ち主が『狂血公爵』ことガルブレイス公爵閣下ということだけは皆知っていた。
狂血公爵になる前は王子様だったらしい。でも、あまりに残忍で残虐で、お城を破壊したり人に怪我をさせたり、常に血を浴びていないと正気を保てないものだから、罰として遠く離れた魔物の森に幽閉されてしまったのだそうだ。
(そんな人に会って無事でいられるはずがないじゃないか)
ちょっと罪悪感はあるけれど、僕はソーハンの嘘を暴くためにテオを焚き付けて真相を確かめることにしたというわけだ。
「お、おい、あれ」
テオが急に立ち止まると、恐る恐る前を指さす。そこには、ガルブレイス公爵家の女神の紋章のほかに、もう一つ別の紋章が染め抜かれた戦旗が翻っていた。
「魔獣……の紋章?」
「エ、エミル……ま、前はなかったよね、あんなの」
赤地に黒の、狼のような魔獣の紋章なんて今まで見たことがない。僕は急に怖くなって、隣のマルタンの手を握る。
「本当に、『狂血公爵』がいるのか?」
テオがそのまま正面の門の方に足を向けたので、僕は慌てて引き止めた。
「テオ、裏側から回ろう。本物なら、僕らなんてイチコロだよ」
「お、おう、そうだな。裏からこっそり確認してみよう」
「二人とも、待ってよ!」
おっかなびっくり、息を潜めてそろそろと裏の方に回り込む。ギョーム爺さんの姿はなさそうなので、僕らは屋敷がよく見えるように、塀の側に立っている木に登って、幾つか木を渡りながら屋敷の中の大きな木に飛び移る。そして枝葉に隠れながら様子を窺った。
窓から見えるいつもは暗い屋敷の中が、心なしか明るい気がする。それに、掃除の時以外には開けられることがない鎧戸が開いていて、赤い帳が垂れ下がっていた。
「こんなこと、今までなかったよな」
身を乗り出したテオが、もっとよく見ようと枝葉をかき分ける。
「テオ、見つかると危ないよ。多分、『狂血公爵』が帰って来たんだ」
僕の言葉に、マルタンがひっと息を飲んで木の枝にしがみつく。
「も、もう帰ろう、見つかっちゃうよ」
「ばっか、マルタン。ここまで来たなら姿ぐらい見ないとソーハンの腰抜けと同じになっちまうだろ」
「でも、なんかお腹と背中がぞわぞわするんだ。テオは感じないの? 入って来るなって言われてるみたいな、すごく強い力」
そんなことを言い出したマルタンは、身震いをすると枝をつたって降りていく。
「マルタン、一人で行ったら駄目だって」
「危ないぞ、マルタン、待てって」
あまり身体を動かすことが得意ではないマルタンは、足場になる枝に震える足を乗せる。だけどツルツル滑って今にも足を踏み外しそうだ。僕とテオはマルタンを助けるために、二人で一緒に、同じ方向にある枝に移動した。そんなことをすれば、体重がかかって枝がしなってしまうのに。いつもはしないのに、慌てていたから、最悪の偶然が重なってしまった。
「あっ」
「マルタン!」
「危ない!」
枝が傾いたことにより、マルタンの手が枝から離れる。マルタンの驚いたような声と、僕らの叫び声が重なった。
マルタンが木から落ちた。
結構高いところまで登っていたから、下手したら怪我どころではすまないかもしれない。咄嗟にギュッと目を瞑った僕は、下を見るのが怖くて、目を開けると隣のテオの方を見る。テオも僕の方を見ていて、その顔は泣きそうに歪んでいた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
身体がガタガタと震え出して止まらない。マルタンの声は聞こえないから、意識がないのかもしれない。もしそうなら、助けを呼ばないと。ここは狂血公爵の屋敷の敷地内で、見つかったら僕の命はないかもしれない。でも、マルタンを見捨てるなんてできない。僕は溢れそうになる涙を堪えて、木の幹の方に身体を向ける、と。
「大丈夫? 随分と大きなキィナキィナだと思っていたら、人の子供だったなんて」
予想外の優しい女性の声がして、僕は思わず下を見た。そこには、放心した様子で座り込むマルタンと、鮮やかな赤い髪の女性が立っている。
「姫様、こんな悪ガキ、キィナキィナで十分ですよ」
「あら、隊長。キィナキィナがあと二匹いますね。ほら、上の方」
隊長と呼ばれた人は、背が高くてキラキラしていて、白い服がまるで王子様のようだ。
「ふふふ。心配しなくてもお友達は無事ですから、落ちないようにゆっくり降りて来てね?」
そして姫様と呼ばれた赤い髪の女性は、僕たちに向かってにっこりと微笑んだ。