88 嵐を呼ぶ書状2
「腹いっぱいになると仕事どころではなくなるな」
香茶を飲み干し、満足そうに呟いたアリスティード様が、執務机に置かれた書類にチラリと目を向ける。随分と片付いたので、あとは各砦からの討伐報告書と少しの依頼書だけになっていた(アリスティード様曰くどうでもいい手紙らしい)。
「でも、あと少し頑張ったら終わりそうですね。アリスティード様の集中力がすごいので、私も早く仕事に慣れてついていけるように頑張ります」
この分だと、今日明日で片付きそうな勢いだ。休暇中のケイオスさんは明後日に戻ってくる予定なので、きっとびっくりするに違いない。
私はアリスティード様の執務机の隣に置かれた椅子に座り、自分に与えられた作業を再開する。終わった書類を編綴し、文書官へと引き継がなければならないのだ。
(予算請求関係だけでもこんなにあるのだもの。財政が逼迫しているとは聞いていたけれど、これでも良くなった方だなんて)
魔物を討伐するには、人件費はもちろんのことかなりの費用がかかる。私の研究が広まって魔物の有効利用化が活発になれば、食糧費は随分と浮くに違いない。
ガルブレイスでは、税収に加え、討伐した魔物から得られる素材や狩猟協会からの益金がある。それだけではなく、他領からの魔物討伐依頼を請けて収益を得ていた。急ぎのものとそうでないものと、様々な書類を文書官の方たちと仕分けした私は、ガルブレイスの騎士たちが他領の魔物討伐に派遣されていることに驚いた。
(隣接する領地同士での共同討伐はよくあることだけれど、王国全土から依頼があるなんて知らなかった)
ラングディアス王国では、領地を持つ貴族たちはそれぞれ私設騎士団を持っている。領地内の治安は彼らを中心にして護られており、魔物の討伐も当然彼らが行なう。
それとは別に、王国騎士団も存在する。彼らは王国全体の治安維持を任務とする他、直轄領や国境の砦に配置されており、領主の要請により戦力として派遣されることがあった。ガルブレイスほどではないけれど、その地方その地方で厄介な魔物というものが存在する。手に負えない魔物については、王国騎士たちに応援要請を行うのだ。北の国境に隣接するマーシャルレイドでも、駐屯している王国騎士の支援を受けていた覚えがある。
私は、王国西方の領地を治めるモントロン男爵からの依頼書に目を通す。そこには、狂化したザンドナーの討伐を依頼したいと書いてあった。ザンドナーは湿地を棲家とする、鰭のついた大きな前脚が特徴的な肉食性の中型魔獣だ。濡れた毛に苔を生やしていて、水草に紛れるように擬態して獲物を捕獲するため、湿地を行く際は注意を払う必要がある。しかし、縄張りから滅多に出ないので、きちんと把握しておけば対処可能な魔獣のはずだけれど……。
(なるほど、狂化した雌の群れが湿地を出て村落の川辺にまで出没しているのね)
その数、把握されているだけで四頭。湿地帯では手強いとはいえザンドナーの動きは鈍い。訓練された騎士であれば恐れることはない部類に思えた。
また、美しい紫色の砂丘で有名なポワソン侯爵領では、海岸沿いの浅い海にハスクキュールが異常発生しているため、掃討作戦に参加してほしいとあった。この魔物は私の辞書にはないのでどのような見た目をしているのかわからないけれど、ガルブレイスの騎士たちがわざわざ行かなければならないようなものなのだろうか。報酬はそれなりにあるけれど、いかんせん領地までの距離がある。
「アリスティード様、この討伐依頼はお請けにならないのですか?」
各地から届いた似たような依頼書は、すべて『その他』と書かれた箱に入れてある。私が尋ねると、アリスティード様が依頼書を持った私の手元をひょいと覗いた。
「ハスクキュールか。食べてみたいのか?」
「食べられそうな魔物なのですか⁉︎ あ、えっと、ではなくて、知らない魔物だったのでつい」
思わず食いついてしまった私を、アリスティード様が揶揄うような顔で見てくる。
「お前にも知らない魔物があるのだな。いや、そういえばマーシャルレイドに海はなかったのだったか」
「は、はい。あまり行く機会がなくて」
海も魔物の宝庫なので、私はいつか海辺の街に逗留して研究したいと考えている。なかなか実現するものではないけれど、お母様の資料も海の魔物についてはあまり詳しくは残っていないので余計に憧れがあるのだ。私の手から依頼書を取ったアリスティード様が、何かを思案するような顔になる。
「ハスクキュールは、ツルッとしたこぶし大の甲羅からブヨブヨとした襞状の触手が生えた見た目の魔物だ。うっかり触手に触れると雷撃を受けた時のように痺れるぞ?」
「そのような魔物が大量に発生したとなると、漁にも影響が出そうですね」
「多少はな。だが沖に出れば問題はない。ポワソン侯爵領は避暑地として成り立つ観光名所だ。冬は客も少なく北風が吹く海に客船を浮かべることはまずない。それにハスクキュールは冷たい海からの海流に乗って回遊する魔物だからな。放っておいてもいずれどこかへ去っていく」
なるほど。その理由であれば、わざわざ危険をおかして冷たい冬の海に討伐へ出向く必要はない。だからこの依頼書は『急ぎではないもの』の箱に仕分けられていたのだろう。
私が納得しかけたところに、アリスティード様が耳を疑う提案をしてきた。
「興味が湧いたのであれば研究がてら捕獲に行くか? 触手に触れないよう甲羅を掴めばメルフィでも容易く捕まえることができるぞ。ついでに討伐してやってもいいが、どうだ?」
(えっ、ついで?)
ポワソン侯爵領では討伐の依頼をしなければならないくらいに大量発生して困っているのだろうけれど、日々危険指定された魔物を狩っているガルブレイスにとってはついでで討伐できるものらしい。
「いえ、万が一海で事故に遭っては大変です! 冷たい水ほど危険なものはないですから」
「そうか。そうだな。海へ行くなら夏がいいな。それにハスクキュールよりチルやダスレッダのような魔魚の方が断然美味そうだからな」
一人うんうんと頷いたアリスティード様は、依頼書を『却下』の箱にポイッと放り込んだ。
「そっちの依頼書はなんの魔物だ?」
そう聞かれ、もう一枚の方、モントロン男爵領の狂化ザンドナーの依頼書を手渡すと、アリスティード様が眉をひそめる。
「こいつも狂化しているのか。最近やけに狂化した魔物の討伐依頼が増えているな」
「ベルゲニオンも狂化していましたし、ユグロッシュ百足蟹も狂化していましたね。ここではそれが普通なのかと思っていました」
「ガルブレイスは魔脈の上にある土地とはいえ、今年に入ってから相当数の狂化した魔物を討伐している。はっきり言って異常だ。他の領地でもそれは同じらしいが、十七年前のことがあるからな……」
言われて、私とアリスティード様の出逢いは狂化したバックホーンに襲われたことがきっかけだったことを思い出す。それに私は、遊宴会から帰る途中にも狂化したヤクールに足止めをされてしまっていた。確かに、ここふた月強の間に出くわした数が多すぎるような気がする。
「あの厄災の時も狂化した魔物が大量発生したことを考えると、あまりいい兆候ではないことは確かだ」
そう言ったものの、渋い顔のアリスティード様はその依頼書も却下の箱に入れてしまった。
「たった四頭の狂化ザンドナーごとき自領でどうにかできるだろう。他領の騎士を頼らなければならないくらい脆弱な騎士しかおらんのなら話は別だが」
他の依頼書も似たり寄ったりの内容で、結局検討することになったのは、ボーソレイ子爵領で悪さをしているエジュロ高地猿(火を吹く猿)の討伐だけであった。
「こちらはお請けになるのですか?」
「ボーソレイは爵位を継ぐ前はガルブレイスで騎士をしていたのだ。あいつが依頼をしてくるということは、余程手に負えないのだろうな」
アリスティード様が呼び鈴を鳴らすと、文書官たちが部屋に入ってきて慣れた様子で却下の箱を運び出す。一体どうするのだろう。気になった私は、アリスティード様を見上げる。
「あれはどうするのですか?」
「ガルブレイス狩猟協会に依頼として下ろすのだ。狩猟協会は、ガルブレイスの名を看板に掲げる以上下手な仕事はしない決まりだ。こういった依頼で俺の騎士たちが簡単に動くのだと舐めてかかられては癪だからな。まあ、矜持の問題だが」
依頼を請ける請けないについては、私は騎士ではないのでよくわからない。でも、金を積めば厄介ごとを請け負うと思われるのも嫌な話だ。ガルブレイスの誇り高い騎士たちを下に見ているように思えて腹立たしい。そこでふと、お父様もガルブレイスに依頼をしたことがあるのか気になってしまった。
「あの、アリスティード様」
「どうした?」
「私の故郷、マーシャルレイドからも、その、依頼があったりするのでしょうか」
「マーシャルレイドから? いや、知らんな」
「本当ですか?」
私に気を遣っているのではと訝しんだ私に、アリスティード様は本当に知らないという顔になる。
「本当だとも。北は俺たちとはまた違う種類の猛者が治める領地だ。魔物の討伐など自領の騎士で十分なのではないか? マーシャルレイド、ゲーリンヘルダ、ニルローレンの三伯爵家は北の国境の要だろう。この間も感じたが、マーシャルレイドの騎士たちはよく訓練されていると思ったぞ。特にあの騎士長は相当な手練れだな」
それはあのクロードのことだろうか。騎士たちは皆、厳しい寒さに負けない屈強な身体を持っているけれど、行動を共にすることはほぼないので『手練れ』なのかどうかわからない(でも、魔物の捕獲をお願いしたらいつもきちんと持ってきてくれていた)。それに私は研究棟に入り浸る日々を送っていたし、シーリア様がマーシャルレイドの女主人になってからは領地経営などから遠ざけられていたので、自分の領地のことながらあまり詳しくは知らないのだ。でも言われてみれば、お父様はバルトッシュ山によくお出かけになって訓練をしていたし、軍馬の飼育に関しては異常に充実していたように思える。
(自領のことも知らないなんて、貴族の令嬢として失格だわ……こんなことではアリスティード様を支えることなんてできない)
私は、自領のことや貴族のなんたるかという常識を知らないことに急に不安が込み上げてくる。世の御令嬢たちは結婚までの間にどのような教育を受けているのだろうか。せめて一人や二人くらい友人関係を結んでおいた方がよかったのかもしれない。
「アリスティード様……私、私、自信がありません」
床に目を落とした私に、アリスティード様が焦ったように手を握ってくる。アリスティード様の手の温もりに、鼻の奥がツンとしてしまった。
「ど、どうした、メルフィ? マーシャルレイドが恋しくなったのであれば、雪が解ける頃に一緒に行こう」
「いいえ、故郷が恋しくなったわけではないのです。私、もっとたくさん知るべきことが」
風邪気味だからだろうか。いつものように前向きに考えられないどころか、感情が揺れ動いてもどかしい。私がスンと鼻をすすると、アリスティード様が大きな身体で私をすっぽりと包み込んでくれた。
「焦らずともいい。不安なことは不安だと教えてくれ」
アリスティード様の低い声がとても心地よく響く。そっと胸に顔を寄せた私は、返事をする代わりに頷いた。
「お前の胸の内はお前にしかわからないものだ。だが、お前は一人ではない。メルフィ……」
コミカライズはPalcy様とpixivコミック様で連載中(現在ロワイヤムードラーの毒見中)
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