87 嵐を呼ぶ書状
「パライヴァン森林公園を閉鎖する……と」
報告書をめくる音の合間に、抑揚のない声が聞こえる。それは質問ではないので、許可があるまで誰も口を挟むことは許されない。厳つい風体の報告者は、ただただ首を垂れて、賢者の再来と名高いその御方が読み終えるまで待つ。
「バックホーン三頭、ヤクール八頭、ガーロイの群れ複数、ラグラドラゴン一頭」
ラグラドラゴンは、冬の間は南方の島国で子育てをし、夏の初めにラングディアス王国へと飛来してくる渡り翼竜だ。黄緑色の鱗を持ち、発情期に入ると飛膜が朱色に染まる。ドラゴンと名がつくだけあって、性格は獰猛で俊敏性が高い。今の季節にまだここに残っているとは、怪我をして飛べなくなった個体か、死に逝く前の個体だろうか。
「ラグラドラゴンとは尋常ではない。少しいいか、ベイリュー大隊長」
「はっ! なんなりと」
名を呼ばれ身を引き締めて返事をした報告者――ベイリュー大隊長に、その御方が苦笑する。
「固い、楽にしてくれ。それからいい加減に顔を上げてもらえないか? 私は過度に傅かれるのは苦手なんだ」
「しかしながら……」
ベイリュー大隊長が、私に向けてチラリと意識を向けてきたのがわかった。白銀の鎧に深い蒼色の外套は、王国騎士団の中央騎士隊に所属する者の証だ。大隊長はその頂点の役職であり、彼がこの部屋に出入りすることに何ら問題はない。
(まあ、そうですよねぇ)
邪魔だとばかりに威嚇するベイリュー大隊長に、私も同感だと思った。私の方が異質な存在なのだ。しかし、別に私はここに居たくて居るわけではない。ベイリュー大隊長がこの部屋に入って来た時、私はこの部屋の主人直々に「退出する必要はない」と言われてしまった。そう言われてしまってはどうすることもできない。私としては、できれば厄介ごとに巻き込まれたくはないので、空気に溶け込もうと気配を消していたというのに。
「ああ、ベイリュー大隊長。彼なら心配いらない。むしろ一緒に話を聞いてくれた方が手間が省ける」
まったくもって悪い予感しかしない。私は目を合わせないようにしながら顔を上げ、ごくりと喉を鳴らす。ひしひしと視線を感じるので、私が椅子から腰を上げて尊き御方に向かって正対したところ。
「ねぇ、ケイオス君。狂化したラグラドラゴン一頭を仕留めるのにどれくらいの人数が必要か教えてくれないか?」
「なっ、何故そのような者に」
ベイリュー大隊長が、ギロリと音が聞こえてくるくらいの眼力で私を睨め付けてくる。厳つい顔が鬼神のようだ。まるで殺意でも込められているかのような視線を躱し、私は思案した。
(寒さに弱いとはいえ狂化したラグラドラゴン。うちの精鋭部隊を投入して討伐隊を編成しても……)
閣下がいるといないでは、戦力も戦略もまったく異なってくる。そう考えて、私はどうしてベイリュー大隊長がいるのにわざわざ私に話を振ってきたのか、その理由に気づいてしまった。
「……僭越ながら、それは我らの領主も込みでございますか?」
私の読みが正しければ、答えはこれでいいはずである。
「もちろんだよ、ケイオス君。私は君のことが大好きになりそうだ」
ガラリと雰囲気を変えたやんごとなき御方は、機嫌が良さそうな顔をして私を手招いた。ベイリュー大隊長はますます顔をしかめるし、企みに気づいた私は早くここから退出したくてたまらなくなってくる。
「彼を抜きにして狂化したラグラドラゴンを討伐するなんて、余計な犠牲者を増やすようなものだよ。ベイリュー大隊長、至急ガルブレイス公爵に緊急討伐要請を出してくれ」
「はっ⁉︎ ガルブレイス公爵?」
「そう、ガルブレイス公爵にだ。要請書は三刻以内に出せるだろう? ああ、使者は出さなくていい。そこにいるケイオス君が書状を持ち帰ってくれるから。彼は公爵の補佐官だよ」
驚いたような顔になったベイリュー大隊長が私を見てくる。私も見返して小さく会釈したものの、すぐに手配されるであろう緊急討伐要請に頭が痛くなってきた。閣下込みで騎士は二十人は必要になるだろうし、パライヴァン森林公園の奥はかなり広く深い。加えて冬の討伐となるので、後方支援部隊も大所帯になりそうだ。
色々と計算していた私に、尊き御方が歩み寄ってくる。
「せっかくの冬なのに申し訳ないね。それに公爵は婚約したばかりだったかな? お詫びにその婚約者も連れて来るといいよ。本来ならば彼女は私の義妹になるはずだった人だから」
ベイリュー大隊長が「婚約者⁉︎」と驚きの声を上げた。まだ一部の者以外は知らなかった『ガルブレイス公爵の婚約』という話は、これを機に見る間に伝わっていくことになるだろう。それに、メルフィエラ様まで呼び寄せようとは。
「マクシム国王陛下、それは命でございますか」
「断ればそうなるかな」
どことなく胡散臭い笑みを浮かべた高貴な御方が、私の肩に手を置く。
ガルブレイス公爵家とマーシャルレイド伯爵家の婚約の許可をいただく際に、閣下は「月に一度、両家の仲が良い方向に向かっているか報告してね」という話を受けていた。もちろん閣下は受け流していたけれど、公爵家として無視するわけにもいかない。そうして命じられた報告は私が受けることになっていたので、私はこうして親書をお持ちしたのであるが。
(昔からこの御方だけは苦手だ)
とんでもなく厄介なことに、ラングディアス王国第二十九代国王マクシム陛下は、美しい澄んだ紫色の瞳をキラキラと輝かせながら私を巻き込んできた。
◇ ◇ ◇
「アリスティード様、お食事が届きました。ちょうどいいですし、少しお休みにいたしましょう」
給仕が持ってきてくれたのは、私たちが食べ損ねていた昼食だ。食堂に食べに行くと言ってあったのに、一向に降りて来ない私たちのために運んで来てくれたのだ。
時刻は昼二刻。私は給仕台から温かいスープを取り上げると、アリスティード様の前に差し出した。
「アリスティード様。私、お腹が空きました」
「だから先に食べていいと……メ、メルフィ?」
「一人で食べても美味しいと思えなくて。私は、アリスティード様と一緒に食べたいのです」
スープには、干した百足蟹がふんだんに使われていて、その濃厚で香ばしい匂いが食欲をそそる。
「せっかくレーニャさんが美味しく仕上げてくれたのですから、温かいうちにいただきましょう?」
給仕係が応接机に食事を準備してくれたので、私はスープの皿を置いてアリスティード様を待つ。するとお腹を押さえたアリスティード様が、少し照れたような顔で席を立った。
「ケイオスが戻る前に終わらせておこうと思っていたのだが。そうだな。温かいものを温かいうちに食べられるのは平和な証拠だ。いただくとしよう」
遅めの昼食になってしまったのには理由がある。ユグロッシュ百足蟹の討伐を終え帰還した後、溜まっていた各種報告書や要請書を片付けることになったのだ。急ぎの書類はないとはいえ(ケイオスさんがきちんと終わらせてくれていた)、治水工事に砦の補強など調査を要する書類がちらほら見受けられた。アリスティード様が直々に視察に行かなければならないものには、領地を案内するという名目で私もついて行ったりもして。調査結果をまとめていたところ、時間が押してしまったのだ。
アリスティード様の向かい側に座った私は、ようやく昼食にありついた。ほかほかと湯気を立てる干し百足蟹のスープに、焼き立てのパン。モニガル芋と豚肉を混ぜて焼いたバララスという料理。ガルブレイスの料理は、本当に種類が豊富で素晴らしい。
「むっ! 百足蟹は干すとこのように旨味が増すのか……これは料理人たちに報奨を出さねばならんな!」
スープを口にしたアリスティード様が、夢中になって飲み干していく。討伐した後、参加したほぼ全員がお腹いっぱい食べてもまだ余っていた百足蟹を、レーニャさんが保存食にしてくれたのだ。氷漬けにしても生では三日ともたない百足蟹は、蒸しあげた後にガルバース山脈から吹き下ろしてくる風を利用して干し百足蟹として生まれ変わった。風を読み操ることが巧みな風人であるケイオスさんが、その秘術を惜しみなく使ってくれたらしい。
「一緒に入っている白い根菜のようなものは、この間ミュランさんとアンブリーさんとゼフさんが採ってきてくださった魔草フィネロの芯なんです。面白い食感ですよね」
「あのウネウネとうねるフィネロか。スープがよくしみて美味いが、あの見た目でよく食べる気になったものだ」
意思を持っているかのようにうねる細く長い葉を持つ魔草フィネロは、真ん中に太く短い軸のような茎を持っている。葉から垂れる粘り気のある溶解液で主に虫を溶かして養分にして育つのだけれど、ミュランさん曰く「茎の中身が美味しそう」だということで持ち帰られたのだ。
芯は火を通すことで粘り気がなくなり、シャクシャクとした食感になる。独特の臭みなどもなく淡白な味わいなので、こうしてスープに入れたり濃い味の料理の付け合わせにも最適だった。
「冬でも採れる野菜は貴重です。フィネロは群生しているようなので、定期的に採取してもらう候補に入れてもいいでしょうか」
「悪くはないと思うぞ。いくら野菜嫌いが多いとはいえ、やはり冬の間は新鮮なものが恋しくなるからな」
「そういえば、マーシャルレイドより南にあるとはいえ、ガルブレイスでも冬は寒いのですね。特に風が冷たく感じます」
「ガルバース山脈の寒風は俺でも堪えるからな。暖炉の火を絶やさないように言っておこう」
「ありがとうございます」
そう、北国育ちの私でも、ガルブレイスの冬も寒いと感じられた。しかし、砦の補強の調査のためアザーロ砦に赴いた時は、すっかり冬になっているというのに驚くほどに活気があった。平野部は滅多に雪が積もらないこともあってか、領民たちは外に仕事に出ることが多いようだ。雪深いマーシャルレイドでは家に篭もりきりで、滅多に外出しない(というか雪で外出できない)。それに屋内にいればずっと温かい。こうも頻繁に外に出て活動する機会がなかったので、実は少し風邪気味だということをアリスティード様には内緒にしている。
「メルフィ、マーシャルレイドの料理を作ってもらわないのか?」
私がバララスを頬張っていると、アリスティード様がおもむろに聞いてきた。
「マーシャルレイドの料理ですか? アリスティード様がお食べになられるのでしたら、料理人に作り方をお教えできないことはないですけれど」
マーシャルレイドの冬は、料理も保存食を中心とした煮込み料理がほとんどで、パンも自宅で焼いて食べる。ガルブレイスのように冬でも色々なお店が開いているなんてことはない。短い秋のうちに皆で手分けして大量の保存食を作ることになるので、私もその作り方は知っているのだ。
「いや……マーシャルレイドの料理が恋しくなっているのではないかと、そう」
アリスティード様が言い淀んだので、私はびっくりしてしまった。
「私、ガルブレイスの料理はすごく口に合うといいますか、毎日とても美味しくいただけております」
「う、む。それはよかった、が」
なおも歯切れの悪いその様子に、私はアリスティード様が本当に言いたいことがなんなのか考えてみる。
(まさか、風邪気味だとバレてしまった? 食欲は、普通だと思うのだけれど……)
私は元気であることを証明するため、バララスをもりもりと平らげると、残りのスープも飲み干した。決して、無理をして食べているわけではない。レーニャさんの考案した魔物を食材にした料理は本当に美味しいし、まだまだ食べてみたい魔物は山ほどいる。
「私としてはガルブレイスの香辛料を堪能したいのですが、マーシャルレイドの料理に使える魔物もいると思うので、おいおい考えておきますね?」
「そういう意味では……なかったのだが。まあ、気に入ってもらえて何よりだ」
「はい! 毎日が楽しみで楽しみで。ずっと食べられるなんて幸せです」
「幸せ、か」と呟いたアリスティード様は、香茶を口に含むと琥珀色の目を細める。その顔がなんだか嬉しそうだったので、私はアリスティード様に微笑み返した。