86 饗宴
ヤニッシュさんが運んで来た百足蟹の爪や脚は、私の身体よりも大きくて太かった。でも一番大きな爪は、胴体から切り離してから時間が経ちすぎているのか、魔法陣にあまり反応を示さない。
『ルエ・リット・アルニエール・オ・ドナ・バルミルエ・スティリス……』
私は丁寧に呪文を唱える。本来であれば、魔法陣の上にキラキラと輝く魔力がたくさん浮かび上ってくるのに。何度呪文を繰り返しても、ごく少量の光が二、三粒浮かんでいるだけだ。
(元々血の量が少ない魔物なのでしょうけれど、こんなに魔力量が少ないはずは……)
ヤニッシュさんはつい先ほど胴体からもいできたばかりだと言っていたので、それが本当ならば魔法陣の効果もきちんと発揮されるはずである。確かめても身は生で、アリスティード様の炎の魔法で焼けてしまっているわけでもない。試しに別の脚から魔力を抜き出してみると、そちらはきちんと反応があって、少ないながらも曇水晶の中に青い血と魔力が溜まっていった。
(魔法陣の問題ではなさそう。だとしたら……まさか)
巨大な爪を前に唸る私のところに、アリスティード様とヤニッシュさんがやってきた。
「どうした、メルフィ。その爪に何かあるのか?」
「あ、アリスティード様。あの、この大きな爪なのですが」
「それか。多分、殺り合った中で一番大きな百足蟹の爪だな」
「やり合った?」
アリスティード様たちが言う「やる」という言葉は物騒な意味がある。私が真っ直ぐアリスティード様を見返すと、しまったというような顔をしてあさっての方向を向いた。
「あれ、姫さん聞いてなかったのか? 閣下がドラゴンから直で百足蟹に飛びかかってよ。心臓をひと突きしたところで暴れ狂った百足蟹に振り落とされちまったんだ。俺は閣下からもうひとつの心臓を潰すように厳命されてたからな。その爪は閣下が無事塩湖に落ちた後に、俺が渾身の一撃で斬り飛ばしたもんだ。さすが五十フォルンは超えているだけあって硬ぇのなんのって……ん? どした、姫さん」
ヤニッシュさんが、私を見てキョトンとした顔になる。ヤニッシュさんが説明してくれたおかげで、あの時ケイオスさんが慌てた声を上げた真の理由を知ることができた。騎士の皆さんは「大丈夫だ」と言ってくれていたけれど、本当はアリスティード様は危険に晒されていたのだ。百足蟹に飛びかかって、そのまま振り落とされてしまうなんて、ひとつ間違えれば命はなかったかもしれない。
アリスティード様が全身ずぶ濡れで戻って来られた時は、とにかく怪我はないか心配で心配で、そうなってしまった理由については詳しく聞かなかったのだけれど。
「ドラゴンから、直で、飛びかかる」
ポツリと呟いた私に、アリスティード様が慌てて言い訳をする。
「い、いや、な、メルフィエラ。な、ほら、大した怪我もなかっただろう?」
「……また、相当な無茶をなさって」
「あそこにはケイオスもヤニッシュもギリルもいた。全員信頼のおける一流の騎士だ。だから俺は安心して命を預けられるんだ。な、ヤニッシュ、そうだな?」
「えっ、そこで俺に振りますか⁉︎」
いきなり話を振られたヤニッシュさんが、アリスティード様と一緒になって慌てたような顔になる。私がわざと下から睨むと、アリスティード様がうっと言葉を詰まらせて項垂れた。
「心配させてすまなかった。次から絶対に無茶はしない」
「……本当ですか?」
「単独の時は」
ヤニッシュさんをチラリと見ると、なんとも言えない顔をしている。アリスティード様は公爵様でガルブレイスの主君なのだから、一人で行動することはまずない。本当は納得できないけれど、私は敢えてそこを問い詰めることはせずに事実だけを話すことにした。
「アリスティード様、その爪の百足蟹は、狂化していたんです」
私の言葉に、アリスティード様とヤニッシュさんがハッと目を見張る。私は鞄の中から魔毒用の魔法陣を描いた油紙を取り出すと、大きな爪に貼り付けた。そして天狼の魔毒を抜き出した時の呪文を唱える。
『ルエ・リット・アルニエール・オ・ドナ・マギクス・バルミルエ・スティリス・イードラ・デルニエ・オ・ドナ・ルゥナティクト・ノヴ・ブレドゥース……』
凝っていた魔毒が、不気味な黒い光を放ちながら、ゆっくりと私の手の中の曇水晶に吸い込まれていく。天狼のように生きてはいないけれど、抵抗がかなりあって全てを吸い出すことは難しそうだ。私は詠唱を止めると、魔毒が入った曇水晶をアリスティード様に差し出した。
「百足蟹は二十フォルンを超える頃に寿命を迎える魔物だ。そうか……狂化していたからこれほど巨大化したのかもしれんな」
「狂化した大百足蟹を相手に、アリスティード様方がご無事でなによりでした。どんなに美味しくても、魔物は魔物ですから」
ヤニッシュさんが、物珍しそうにしてアリスティード様の手に渡った曇水晶を見つめる。
「これが魔毒? 閣下、俺はこんな形で魔毒を見るのは初めてですが、身体の中でこんな風になってるんじゃ狂化もしますよね。ただ、ユグロッシュ百足蟹は魔獣と違って狂化の傾向を外部から判断するのは難しそうだ」
狂化しているか否かの判別は、魔物の異常行動や凶暴化していることとは他に、目の濁り具合で付けることが一般的だ。魔毒により血が濁ると、その目も著しく濁る。もちろんわかりにくい魔物もいて、硬い殻を被った魔蟲や分厚い皮で覆われた魔樹などがそれだった。ユグロッシュ百足蟹も、わかりにくい部類に入ると言えそうだけれど。
「でも、数多の魔物を相手にしてきた騎士にはきっとわかっていたはずです。この五十フォルン超えの百足蟹は異常であると。どんなに些細な違和感でも、ガルブレイスの騎士の違和感はきっと正しい」
私がアリスティード様を見上げると、アリスティード様は真剣な顔で頷いた。
「そうだな。本当にすまなかった、メルフィ」
私はそれに笑顔で応えると、大きな爪に目を向ける。残念ながらこの爪は廃棄しなければならない。アリスティード様も残念そうな顔になる。
「メルフィ、魔毒を完全に抜くとなると二十日くらいかかるのだったか?」
「はい。でもこれは魔獣とは少し違いますので、魔毒が抜けるまでに腐ってしまうかもしれません」
「え……ええっ⁉︎ ってことは何? 姫さん、これ、食えないのか?」
ヤニッシュさんが私と爪を交互に見た。本当に食べたい気持ちが伝わってきて、私はなんだかやるせない気持ちになる。なんとかして食べてもらいたいし、私もこの大きな爪肉にかじりつきたかったのだけれど。
アリスティード様が神妙な顔で首を横に振ったところで、ヤニッシュさんがガックリと膝をついた。
「ちくしょうっ! こいつなんで狂化なんかしてるんだよっ‼︎ せっかく、せっかく斬り落としたってのに‼︎」
「ヤ、ヤニッシュさん、こっちの脚は狂化していない個体のものなのか魔毒もありませんし、大丈夫ですから! 食べてもいいですよ」
私が魔力測定器を示すと、ヤニッシュさんがすがるような目で私を見上げてくる。
「それ、なんだ? 姫さんの魔法がすげぇってのはわかるが」
ヤニッシュさんが、魔力測定器を見て首を捻る。なんだか涙目になっているように見えるのは気のせいではないけれど、敢えて触れないようにした。
「魔法陣で血と一緒に魔力を吸い出しました。この測定器で残留魔力量がわかるのですが、ほら、反応はないですよね? これは安全に食べられる証拠なんです」
「なんだこの魔法陣。なんつーか珍妙でさっぱり読めねぇ」
「これは古代魔法語で、アリスティード様がお使いになる魔法と同じ系統なんです」
「あー……なるほど。とんでも魔法ってやつか」
「とん?」
「ま、いいか。この脚も食べ応えは十分ありそうだしな。あんがとな、姫さん」
ヤニッシュさんがスッと立ち上がると、右手を上げて誰かを手招く仕草をする。
「よっし、お前ら! この脚を綺麗に横半分に割れ! 一気に焼くぞ」
「うっす!」
「待ってました!」
「こんなにデカくちゃ蒸し焼きは難しいですもんね」
どうやら焼き百足蟹にするようだ。待ち構えていたアザーロ砦の騎士たちが、ヤニッシュさんの指示通りにテキパキと動いていく。
そのうちに、着替えてきたリリアンさんとブランシュ隊長もやってきたので、とりあえず食べ比べてもらおうと、私は蒸し焼きの百足蟹の脚から身をほぐして集め、木皿に山盛りにして皆のところに持っていくことにした。
「焼けるまでお腹が持ちませんよ? ヤニッシュさん、こちらをつまみながらどうぞ」
「おっ、姫さんありがとな!」
「ブランシュ隊長もリリアンさんもお疲れ様でした」
「姫様、給仕でしたら私たちが……」
ブランシュ隊長が申し訳なさそうな顔になったので、私はとっておきのものを一緒に出す。
「こちらは肝です。是非これに身を付けてたべてください。それと、キャボの果汁も搾ればさっぱりしていいかもですよ?」
調理部隊が持ってきてくれていたキャボの果実は、濃厚な百足蟹をさっぱり食べたい時に絶対合うはずだ。実際私も好きだし、酸っぱめの果実水は女性が好む傾向にある。
「先ほどいただいたキャボの果汁水も美味しかったので楽しみです。あの、姫様もご一緒に」
「ええ! 私もまだまだ食べ足りませんから、一緒にいただきましょう」
甲羅の中に百足蟹の身を泳がせて、たっぷりと肝をまぶしたそれを、ヤニッシュさんが豪快に口の中に放り込む。
「くっ……うめぇ!」
そのまま掻き込むようにして口いっぱいに頬張ったヤニッシュさんは、咀嚼もそこそこに肝とほぐし身をスープのように流し込んでいく。
「酸っぱいとスルスル入っちゃいます!」
「な、なるほど……キャボの果汁は罪悪感を消してくれますね」
キャボを気に入ったリリアンさんが、もう何本目かわからない脚肉に果汁を搾って嬉しそうな声を上げる。ブランシュ隊長もそんなリリアンさんを見て、次から次へと肝を平らげていった。
ヤニッシュさんたちにあげた肝は、ケイオスさんが絶品と唸った三フォルンの雌の百足蟹のものだ。甲羅に肝だけを集めたこの贅沢の極みのような食べ方は、多分、ここでしか味わえない貴重なものだろう(ケイオスさんが色々と食べ比べてくださって、最高の食べ方だと宣言したので間違いはないと思う)。
結果、百足蟹は二フォルンから四フォルンくらいの大きさのものが味が濃くて美味しいという声が多かった。五フォルンを超えてくると、脚肉の弾力がどんどん増していく。これはこれで噛みごたえがあっていいのだけれど、旨味が少し薄く感じられた。それに、肝は七フォルンを超えるとえぐみが強くなってきて、食べるに適さない部位となる。
「まったく、俺をこき使うなど……なんだ、俺はお前たちにとって便利な火力か」
アリスティード様はといえば。ぶつぶつと文句を言いながらも二十フォルン超えの百足蟹の脚肉を実に見事に焼き上げてくださって。
「でも私は、アリスティード様とお仕事ができるのは嬉しいです」
「メルフィ?」
「私は騎士ではないので荒事はお任せするしかありませんけれど……調理はこうして一緒に作業ができますから。あの、こんな仕事をお頼みするのは不敬なのかもしれなくて、申し訳なく思うのですが」
「いい」
「えっ」
「やはりお前の笑顔はいい。メルフィ、お前が笑顔になるのであれば、俺は百足蟹だろうとドレアムヴァンテールだろうと焼いてやる」
そう仰ってくださったアリスティード様も、とても優しい笑顔を見せてくれた。
「ふふふっ、ドレアムヴァンテールの丸焼きですか?」
「丸焼きでもなんでも、お前が望むままに」
どこの領地でも主君が自ら料理を振る舞うなんて聞いたことはないけれど、こうして一緒に百足蟹を焼いていると、私はアリスティード様と肩を並べていられるような気がしていた。




