81 ユグロッシュ百足蟹討伐大作戦5
陽が沈んだ直後。
まだ少し明るさが残る空の下、ガルブレイスの騎士たちはこれから始まる魔物との戦いを前に準備に余念がなかった。
「姫様、絶対に結界から出ないでくださいね!」
凛々しく武装したリリアンさんから念を押された私は、その気迫に大きく何度も頷いた。そして安心させるために、アリスティード様からいただいた結界石の首飾りを見せる。
「うっ」
「どうりで……姫様から閣下の濃い魔力の気配がすると思いました」
リリアンさんが短く呻き、ブランシュ隊長が私の胸元や手首を見て少し引いたような顔になる。とにかく怪我をしないようにということで、結界石の首飾りの他にも、魔物避けの腕輪、何かものすごい魔力が宿った指輪、悪意あるものを跳ね除ける聖なる輝石の髪飾りなどを身に付けていた。付けられるだけ付けてみたのだけれど、多過ぎたかもしれない。
「そんなにいっぱい身につけて大丈夫ですか? 逆に具合が悪くなりそうな感じです」
リリアンさんが、私が中指に付けている指輪を見てブルッと身震いをする。身を守るためのものを身につけているというのに、何故か心配されてしまった。
「アリスティード様お手製ですからかけられた魔法はとても強いものですが、どれも心地よい魔力ですよ。おひとついかがですか?」
私は余っていた首飾りを二人に差し出す。しかし、二人とも首を横に振った。
「えっと、私は間に合ってます……うっ」
「姫様がここにいてくださるだけで強力な結界が維持できそうなので、それはそのままでよいかと」
どうやら結界石が苦手な様子のリリアンさんはともかく、ブランシュ隊長からもやんわり断られてしまった。押し付けはよくないので、私が革袋の中に仕舞おうとしたところ、
「お! 姫さん、いいもの持ってんな。ひとつくれよ」
背後から伸びてきた手が、結界石の首飾りをむんずと掴んだ。
「まあ、ヤニッシュさん。大変物々しい武器をお持ちですね」
振り返ると、軽装のヤニッシュさんがいた。脚はガチッとした脛当てや腿当てで覆っているものの、上半身は必要最低限の防具しか付けていない。でも、隻眼を細めてニヤリと笑ったヤニッシュさんが腰に佩いている剣の数や、背中に背負っているものがすごかった。
「俺が狙う百足蟹は甲羅がクソほどに硬ぇからな。この斧が一番なんだよ」
背中の革帯を外したヤニッシュさんが、巨大な斧を両手で構えてみせる。
「ザリアン型の戦斧を扱えるなんてすごいですね! あ、わかりました。戦斧が重いから軽装なんですね」
「よくわかったな。俺の腕力じゃ、重装でこいつを振り回すのに向いてねぇんだ。この結界石があれば軽装でも多少の無茶もできそうだしな。貰っていくぜ」
ヤニッシュさんたちアザーロ砦の騎士は、騎士服の左袖に明るい紫色の布を巻いていた。与えられた役割は『遊撃』だという。その時々の状況を判断して自由に動くのだそうだ。
夜行性の騎獣ガロットロックに跨ったヤニッシュさんたちが行ってしまうと、ブランシュ隊長が続々集まって来ている魔物たちを警戒するように辺りを見回した。
「もうすぐ時間ですね。魔物たちが虎視眈々と狙っています」
私も同じように見回して、薄暗い中で遠巻きに塩湖を見ている魔物たちを確認した。いくら百足蟹が食べ放題だとはいえ、ここを目指してくるすべての魔物が百足蟹を捕食するわけではない。魚介類よりも肉を好む魔物や、人の味を覚えてしまった魔物もいるわけで。
私たち後方支援部隊の天幕の周辺や、塩湖の岸辺から少し離れたところにも騎士たちが配置されている。百足蟹を討伐する騎士たちの他に、そうした魔物を排除する役目を担っているのが、東エルゼニエ砦から遠征隊を組んでやって来た騎士たちだ。砦長のデュカスさんを筆頭に、東エルゼニエ砦の騎士たちは身体が大きく屈強な人たちが揃っている。身体くらいの大きさがある盾を持ち、塩湖に完全に背を向けるようにして並ぶ姿は圧巻だ。
人の味を覚えた魔物は、また人を襲ってくる。これはどの肉食性の魔物にも言えることだ。魔物の同士討ちであれば手出しをする必要はないけれど、わざわざ人を狙ってくる魔物は絶対に仕留めなければならない。それが魔物を狩る者たちの最大の任務であり、ここガルブレイスでは徹底されているようだった。
そして、私の視線はある一点に止まった。最前線に立ち、接近戦を担うアリスティード様の直属部隊は、黒鉄の兜を被って完全武装をしている。アリスティード様は赤い布を巻いた投擲用の槍を何本も背負っていて、隣に立つケイオスさんは連射ができる弓を装備していた。
(やっぱりご挨拶した方がよかったのかしら)
昼食時は私の方が忙しくて、アリスティード様とは結局二言三言しか言葉を交わせなかった。私ひとりのために余計な気を遣ってほしくはなかったので、仮眠を取る際にも天幕には行かなかったのだけれど。
(い、今さら緊張してきてしまったみたい)
手に変な汗が滲んできたので、私は大きく深呼吸をすると共鳴石から聞こえてくる会話に耳を澄ませた。
後方支援の天幕には、大きな共鳴石と替えの武器が山ほど準備してある。そして医療班も待機している。前線の騎士たちへの武器の補充や、怪我人の救護も後方支援部隊の重要な役割だ。共鳴石を通じて要請が入れば出動することになっていた。
「皆さん、怪我のないように頑張ってくださいね」
色々な指示を拾う共鳴石に向かって、私はこっそりと囁く。ここにあるのは主に集音用で、こちら側の声は届かないはずなのだけれど……一瞬静かになって、アリスティード様の咳払いが聞こえたのはどういう理由なのだろうか。
その時、ポンッという音が鳴り、上空に小さな火の玉が上がった。星が見え始めた空が、魔法の明かりによって明るさを取り戻す。
「ひっ!」
よく見えるようになった景色に、リリアンさんが短い悲鳴を上げて私の腕に縋り付く。
岸辺には、すでにたくさんの百足蟹がひしめき合っていた。大きさはさほどないとはいえ、五十フィムから八十フィムくらいはあるだろう。
魔法の光はすぐに消えてしまい、また真っ暗になったけれど、あれだけの百足蟹の群れがすぐそこまでやって来ているのを見てしまうとそわそわと落ち着かなくなってくる。
「ブランシュ隊長ぉ、百足蟹ってえげつないくらい数がいるんですね」
「群れられると少し気持ち悪いけど、あれを退治してこその騎士なんだよ、リリアン」
「が、頑張ります」
リリアンさんには少々刺激が強かったらしい百足蟹の大群も、私には貴重な宝石のように思えた。いや、宝石には興味はないので、ここは高級食材というべきか。
「これだけ数がいれば……ああ、お腹いっぱいあの味を堪能できるなんて。贅沢です!」
討伐は夜通し続くので、先に百足蟹を二、三匹持って来てくれることになっている。私は踵を返すと、あらかじめ用意をしていた曇水晶と魔法陣を描いた油紙を広げ、軽食や飲み物を並べていたレーニャさんに合図を送った。
◇
完全に陽が落ちてから一刻ほど。
星が煌めく空を、騎士たちが乗ったグレッシェルドラゴンの影が舞い、真っ黒な湖面にさざ波が立ち不気味に揺れた。
「第一陣、来ました!」
ガシャガシャと無数の音が鳴り始め、岸辺があっという間に蠢く何かで足の踏み場もなくなった。まだ卵を産めない体長五十フィムほどのユグロッシュ百足蟹たちだ。無数の百足蟹たちは、打ち込んだ木の杭に沿って予定通りの場所まで移動していく。
そこに現れたのは、額に第三の目を持つヤクールという中型の魔獣だ。狐に似たような姿形をしているが、とても獰猛な魔獣で群れで狩りをする。人里に近い場所に棲息していることから、家畜を狙ってくることもしばしばだ。
(そういえばメルフィもヤクールは厄介な害獣だと言っていたな)
何度か食べたものの、その肉は独特の臭みがあってお世辞にも美味しいとはいえなかったらしい(ただし、冬毛はフカフカしているのでその毛皮は重宝しているとも言っていた)。
マーシャルレイドほどの寒さはないとはいえ、エルゼニエ大森林の秋の実りはほぼ食べ尽くされているこの時期。まもなく冬を迎えるガルブレイスでは、百足蟹の産卵が魔物たちにとって最後のご馳走の場になる。
「うーん」
「どうした、ケイオス」
百足蟹の流れをジッと見ていたケイオスが、珍しく唸り声を上げた。何か気になることでもあるのかと聞いてみたが、
「いえ。メルフィエラ様にお持ちするなら産卵直前の百足蟹の方がいいかと思いまして。それとも、まだ卵は産めないけれど栄養たっぷりの若い方がいいのでしょうか。食べ比べるのもありですよね、閣下」
なんとも暢気な発言に、俺は降ろした面鉄の隙間からケイオスを睨む。
「もう少し緊張感を持て。今回相手にするのは二十フォルン超えの百足蟹だぞ? しかも複数匹確認されているとなると、夜明けまでに決着がつかんかもしれんというのに」
小さな百足蟹は、こちらから手出しをしなければその爪や牙をこちらに向けてくることはない。しかしひとたび興奮させると、自分の進路を邪魔するものを徹底して排除してくる性質がある。今上がって来ているくらいのものであれば、足で踏み潰すことも可能であるが、五フォルンを超えてくると剣や槍の出番だ。その上となると、もはや大剣や斧でしか貫通しなくなる。
大物は、少なくとも二人一組になって挑むのが定石だ。俺たちの場合は、ケイオスが魔法の矢で足止めし、俺が大剣で百足蟹の心臓を貫いて仕留める。そのような手段を取らないと、百足蟹の長い身体の尻にある硬く鋭い毒の尾から逃れるのが難しいという理由があった。しかも、二十フォルン超えの百足蟹は心臓を二個持っている。ひとつ潰しただけでは死なないので、非常に厄介なのだ。
「閣下は相変わらず真面目ですね。魔物のことになると血が沸き立つのもわかりますけれど、もう少し抑えてください。まあ、だからこそ我々は貴方に付き従うのですが」
ケイオスが面鉄を上げてこちらを見てくる。右目に魔法を展開させたケイオスが、木の杭を越えてこちらに向かって来た百足蟹を素早く蹴り上げた。爪を振り上げるいとますらなく、百足蟹が弧を描いて吹き飛んでいく。
「やはり五十フィムでは駄目ですね。こんなに脆弱では身も引き締まっておらず美味しくはないでしょう」
にっこりと笑うケイオスの目は本気の光を宿していた。
「お前……その目を見せるのはいつぶりだ?」
「さあ、覚えてませんね」
「そんなに食べたかったのか、蟹」
「ええ。それはもう、誰よりも楽しみにしておりました」
魔物とやり合うことで血が騒いだり、気分が昂揚することは騎士として多々あることだ。俺もそれは認める。手強い相手をどうやってねじ伏せようかと考えている時は、最高に興奮する(その状態になると大抵は魔眼が発動している)。
分析が得意で冷静なケイオスは、普段は俺が無茶をやらかさないように抑止する役目を担ってくれているが、根にあるのはガルブレイスの騎士の魂だ。その目に刻んだ魔法を発動させてしまうほど、この百足蟹を食べたかったとは。二十年ほどの付き合いではあるが知らなかった。
(まあ、メルフィの美味い飯が食えると思えばやる気も湧いてくるというものだな)
魔物を屠って終わりではなく、その後に楽しみがある。その楽しみを、メルフィエラが与えてくれた。そう思うと、足元の百足蟹が食材に見えてくる。俺は肩の力が抜けたような気がして、別の視点から百足蟹の群れを見た。
「お、あれなんかどうだ? 二フォルンには届かないが、卵っぽいものが見えるぞ?」
「大きさもちょうど良さそうですね。やっぱり生捕りでしょうか?」
「生捕りだろう。よっ……うむ。やはり卵だ。メルフィは喜んでくれるだろうか」
俺は一匹の百足蟹を槍で引っ掛けてその腹を見ると、青い卵を抱卵している個体であった。牙と毒の尾をカチカチと鳴らしてうるさいので、素手でバキリと折る。ケイオスも別の個体(多分、雄か卵を抱卵していないもの)を数匹獲り、同じようにして牙と尾を処理した。俺はここから離れることができないので、別の騎士に頼んでメルフィエラのところに持っていってもらうことにする。
そうこうしているうちに、魔法の照明が連続で打ち上がり始める。岸辺に上がってくる百足蟹の様子が変化して、爪を使って地面を掘り出した。
「そろそろ来るぞ、ケイオス」
「はい。準備は万端です」
俺は、弓を構え、矢をつがえたケイオスに向かって頷くと、腰に佩いた大剣を抜き放った。