76 戦士に乾杯
私が社交界デビューを果たしたばかりの頃。
同じ年頃の令嬢たちの会話についていけず、お茶会や夜会に招待されても、私はただ黙って話を聞いているだけだった。作法やしきたりなどはお父様が付けてくれた講師から学んでいたけれど、最新の流行や話題の人物、お洒落に素敵な貴公子の話など、研究に打ち込んでいた私が知っているはずもない。会話に加わることはできず、また私にとっては退屈な話ばかりだった。
『あら、貴女。随分と古式ゆかしい装いね。どこのご領地から来られたの?』
お母様のドレスを仕立て直した私のドレスに、ある令嬢がそんなことを言ってきた。その令嬢はとても洗練されていて、取り巻きもたくさんいる人だった。そして、社交界のことを詳しく知っていた。ただいるだけの私を見るに見かねたのだろう。自分に話しかけてきてくれた彼女には感謝したものだ。
流行遅れで気の利いた話ひとつできない私に、彼女を始めとした令嬢たちが様々なことを教えてくれた。創意工夫を凝らしたお茶会、品種改良された高価な花々、希少な宝石を使った装飾品、風光明媚な場所に建てた別荘、一流の仕立て屋に作らせたドレス、異国の珍しい菓子に、流行りの役者が演じる新作の歌劇。貴族の子女であれば知っていて、持っていて当然だと、彼女たちは口々に言う。でも、私は何ひとつ知らない、何ひとつできない、何ひとつ持っていない。
『まあ、これもご存じではないの? 貴女のご両親はきっと厳格な方なのね、お可哀想に』
彼女たちは、ないもの尽くしの私のことを、可哀想だと言うのだ。
マーシャルレイドはラングディアス王国の北の国境を護らなければならない領地だ。山脈があるため冬の寒さも厳しく、質実剛健な土地柄だった。華やかな文化が栄えるわけもなく、領民共々倹しい生活を送るのが普通なのだ。
それに、王都と領地を行ったり来たりするだけでもお金がかかる。私は社交界に興味はなくて、領地で研究している方がよかったから、流行のドレスや宝飾品を見繕うよりも、魔法道具屋で掘り出し物を漁る方が性に合っていた。魔物を安全に食べられるように研究を続けるのだって、領民の生活を豊かにするためなのだから、贅沢なんてもってのほかだ。
お父様にお茶会での出来事を話していた時だっただろうか。令嬢たちから言われたことをそのまま話した私に、お父様が困ったような顔をして、珍しく一緒に聞いていたシーリア様が「マーシャルレイド伯爵家が下に見られているというのに貴女は何も言い返せなかったの⁉︎」と顔を真っ赤にしていたから、私はその時ようやく、あの令嬢たちは私を遠回しにバカにしていたのだと知ったのだ。
あの時私が言われたことを思い出しながら、一般的な貴族とはこうあるべきではないのかとデュカスさんに説明した私は、食卓の下で重ねられたアリスティード様の手をギュッと握る。するとアリスティード様も、ギュッと握り返してくれた。言われて嫌な思いをしたことをデュカスさんに言うのは気が引けたけれど、これは事前にアリスティード様からお願いされていたことだ。
『デュカスは俺がここへ来た頃のお目付役でな。貴族というものに変な憧れがあるというか、実態を知らんというのに貴族とはこうあるべきという理想を拗らせている傾向にある。俺も何度となく奴の理想に強制されそうになった覚えがある。しかしあれでいて奴は慕われていてな。真面目で責任感のある砦長だ。他の砦長や部下が大勢いる中でそうそう叱責できるものではない……』
上司が公の場で主君たるアリスティード様から叱責されると、その部下たちもいい気分ではない。しかも慕われているとなると尚更だ。巨大な組織を束ねる者には、見えない苦労が山ほどあるようだ。
そこで、アリスティード様は申し訳なさそうにしながら私に頼みごとをしてきた。普通の貴族がどういうものなのか、なるべく嫌な部分をデュカスさんに教えてやってくれ、と。
だから私は、私が社交界で教わったり見聞きしてきたことを包み隠さず話したというわけだ。去年着たドレスは今年は流行遅れだから着られないとか。ドレスが他の人とかぶらないように何十着も用意しておかなければならないとか。宝飾品もドレスに合わせてあつらえるのだとか。靴もしかりだとか。衣装だけでも非常にお金がかかるうえに、食事や住まいまでとなるととてもじゃないけれど急拵えなどできはしない。
私の話を聞いていたデュカスさんは黙り込んでしまったままだし、ゼフさんやアンブリーさん、パトリスさんはあんぐりと口を開けていた。その気持ちは私もわかる。王都で華やかそうに見える貴族の生活は、お金がかかるなんてものじゃないのだ。
「でも私は、ガルブレイスにはガルブレイスのやり方があるのだと思っています。私だってそんなことにお金や時間をかけるくらいなら、もっと有意義なことに使いたいですから」
私がそれまで述べてきた「貴族としてのあり方」を否定すると、デュカスさんが心なしかホッとしたような顔になる。
「デュカスさんの気持ちもわかるつもりです。確かに自分たちの主君にはいつも素敵でいてほしいですし、公爵閣下の武勇や格好良い姿を知らしめたいという気持ちはよくわかりますもの。私も間近で『首落とし』を見ることができて、とても感動しました。見惚れるなと言われても無理ですよね。すごくすごく素敵なんですから」
微妙に視線を逸らしていたデュカスさんが、「え?」というような顔をした。ヤニッシュさんが口を押さえて笑いを堪えているように見えるのは何故なのか。ザカリーさんもギリルさんも、それぞれが微妙な顔になる中、アリスティード様の剣技に見惚れた仲間のミュランさんだけは、モルソを咀嚼しながらうんうんと頷いている。
「デュカスさんが公爵閣下のことをとても深く敬愛していることがよくわかりました。不安ですよね。素性もよくわからない、変な噂がある曰く付きの令嬢がいきなり自分たちの主君の婚約者だなんて」
「そ、そのような、ことは」
デュカスさんだけではなく、多分他の砦長も少なからず思っていることだろう。どこかマーシャルレイドの騎士長クロードに似ているデュカスさんは、それが顕著なだけで。
アリスティード様が妻問いに来てくださった日、私の研究を利用するための婚約だと苦言を呈してきたクロードのように、デュカスさんも私が何か企んでいるのではと危惧していることは間違いない。そうではないのだと理解してもらうためには、言葉だけでは駄目だ。私がガルブレイスにとって有益であることを、実際に見てもらわなくては。
私はデュカスさんだけではなく、私に注目する皆をゆっくりと見回して、アリスティード様の手をもう一度ギュッと握ってから放す。それから席を立つと、ピンと姿勢を正した。
「私は、魔物を食べる『悪食令嬢』です」
自分で自分のことをそう言うのは初めてだ。アリスティード様に会う前はそう呼ばれることが嫌だったけれど、今はそうでもない。自分の気持ちの持ちようなのだろうけれど、私の悪食が誰かのためになるのなら、悪食令嬢だって可愛い二つ名だと思えてくるから不思議だ。
「魔物になったり生き血を啜ったりはしませんが、魔物を安全に美味しくいただくためにずっと研究を続けてきました。このモルソも研究の成果です。棄てることしかできなかったものがこんなに美味しくいただけるなんて、素敵なことだと思えませんか?」
デュカスさんは食べていないけれど、その他の人は皆モルソを口にしている。周りで食べている騎士の皆さんも魔物食には抵抗がないようで、もりもりとたいらげていた。
「私は、公爵閣下のためにその研究を使いたいと強く願いました。だからお願いします。私が公爵閣下やガルブレイスのために役に立つのかどうか、是非その目で確かめてください」
精一杯貴族の令嬢らしく見えるように、私は腰を落としてから背筋を伸ばしたまま前に身をかがめる。淑女の礼は優雅だけれど、見えないところで筋肉に力を込めて踏ん張っていないと綺麗には見えない。いくら脚の筋肉がプルプルと震えていても、澄ました顔で我慢するのもまた淑女の努めなのだ。
ハッとしたようにガタガタと音を鳴らしながら立ち上がった砦長たちも、騎士の礼の姿勢になる。
「メルフィエラ、部下が失礼をしてすまない」
アリスティード様から謝罪され、手を取られた私は、姿勢を戻してから促されるままにまた席に座った。砦長たちを立たせたまま、アリスティード様が話を続ける。
「本来ならば、こうして食卓を囲むことも気安く話しかけることもできない身分だというのに、それを受け入れてくれる心の広さに感謝する。そもそも主君たる俺が貴族としてあまり褒められたものではない行いだからな」
「いいえ、公爵閣下。私はガルブレイスの雰囲気をとても心地よく感じています。まるでひとつの大きな家族のようで、私も早くその一員になりたいと心から思います」
「ありがとう、メルフィエラ」
アリスティード様が、私の右手の甲にそのまま唇で軽く触れる。それからサッと手を振ると、砦長たちがようやく席に戻った。
「というわけだ。いいか、お前たち。メルフィはただ着飾って笑っているだけのお飾りの妻ではない。俺の在り方を受け入れ、俺の考えに寄り添ってくれる貴重な存在だ。それに、やろうと思えば国を滅ぼすこともできる一流の魔法師でもある。次の討伐遠征では、その力の片鱗を見ることになるだろう。自分の見たものしか信じられんというのであれば、しかとその目で確かめよ」
「あのとんでもない魔法陣をどう使いこなすのか、間近で見れるともあれば見ないわけにはいきませんよ」
そう言ったのは、ガルバース砦長のパトリスさんだ。緑色が混ざったような金髪で、どことなく魔法師長のオディロンさんに似た彼は魔法師なのだそうだ。
「ユグロッシュ百足蟹もモルソと同じように美味しいのであれば、まあ私としては反対する材料がありませんので」
今度の討伐遠征の作戦長だというギリルさんは、モルソ料理を気に入ったのか、先ほどからずっと食べっぱなしだ。同じくモルソの骨をしゃぶっていたリエベール砦長のザカリーさんも、私に反対ではないらしい。
「デュカスもいいな。では、皆席を立て」
アリスティード様が私に酒杯を渡してきた(男性用の大きな酒杯で、穀物酒がなみなみと注いである)ので、私は立ち上がって咄嗟に受け取る。先ほどデュカスさんから難色を示されたばかりなのに、どういうおつもりなのだろう。
見ると、砦長たちも再び立ち上がって酒杯を手にしていて、私はわけがわからず助けを求めて向かい側のケイオスさんを見た。
(飲んでもいいのでしょうか?)
(乾杯です。ガルブレイス式の乾杯)
私が飲み干す仕草をしながら口をパクパクさせて聞いてみると、ケイオスさんが酒杯を少し持ち上げてそう教えてくれた。なるほど、乾杯。それもガルブレイス式のやり方とは興味がある。
アリスティード様が酒杯を掲げる。
「今日この日、新たにガルブレイスの礎となる戦士の名はメルフィエラ」
アリスティード様のよく通る声に、ざわざわとしていた食堂が静まり返った。
「今ここに誓った新たなる同胞に祝福を。我と共に生きる同胞たちよ、乾杯!」
「乾杯!!!!」
砦長たちだけではなくて、食堂にいた全員が酒杯を掲げていた。わっと響いた乾杯の声に、私はびっくりして首をすくめる。
「アリスティード様っ、こ、これはなんなのですか⁉︎」
「乾杯、メルフィエラ。お前をガルブレイスの戦士として迎え入れるための儀式のようなものだ」
アリスティード様が、私の酒杯に自分の酒杯を打ちつけて音を鳴らし、ぐいっと飲み干す。
「わ、私が戦士ですか? こんな細腕で」
「狂化したバックホーンを前に一歩も引かず、自ら囮を買って出るお前を戦士と呼ばずに何と呼ぶ? 何も武器を持って戦う者だけが戦士ではない。ここではそれを支える者すべてが戦士なのだ」
そんなことを言われたのはもちろん初めてで、そのことが嬉しくて、私は鼻がツンとして目が潤んでしまったことをごまかすために、酒杯を一気にあおった。
「メルフィエラ様、相変わらずいい飲みっぷりですね!」
空になった酒杯に、ミュランさんがすかさずおかわりを注いでくれる。
「へぇ、姫さんは酒もいけるのか! おい、樽持って来い、樽!」
「ヤニッシュさん、樽はさすがに」
「何言ってるんですか、メルフィエラ様。ガレオの親爺さんを潰したくせに」
「ゼフさんっ、それは秘密にしておいてください!」
それからしばらく、モルソをつまみに飲み比べが始まってしまったのだけれど。わいわいと騒ぐ騎士たちの片隅で、デュカスさんがモルソの穀物詰めを食べていたのを、私は確かに見た。