74 野菜と穀物を詰めた肉をこんがりと窯焼きにして2[食材:モルソ]
「あのな、俺にはどーしても殺らなきゃならねぇ奴がいるんだ」
「や、やらなきゃならない奴、ですか?」
ヤニッシュさんの言葉に、私は思わず手にしたモルソを見る。やる、とは俗語の「殺る」という意味なのだろう。マーシャルレイドでも気が昂ぶった猟師たちが時々口にしていた言葉だ。しかし奴とは誰なのか。すると、ヤニッシュさんが私の目の前にしゃがみ込んできた。
「知ってるか? ドレアムヴァンテールっていう魔獣なんだけどな」
(あ、魔獣でしたか)
人知れず胸を撫で下ろした私に向かい、ヤニッシュさんが眼帯で覆われた左目のあたりを指でトントンと叩いてきた。ドレアムヴァンテールといえば、ガルバース山脈に巣食う凶暴な魔獣で、討伐隊を組んでひと月戦っても勝てるかどうかわからないと聞いている。ヤニッシュさんの眼帯とドレアムヴァンテールは何か因果があるのだろうか。
「とても危険で凶暴な魔獣で、ガルバース山脈の主と聞いています」
「そう、そいつそいつ。俺はそいつを殺るために騎士になったんだけどなぁ……ついさっきまで殺った後はどうするかなんてこれっぽっちも考えちゃいなかった」
ヤニッシュさんが私の手からモルソを取り、器用に捻って内臓を押し出す。そしてシャキンという音を立てて、手甲から鋭い刃を出すとモルソの首を切り落とした。
(あっ、これってルセーブル鍛治工房で見た爪の武器?)
確か店の人はご婦人用だと説明してくれたけれど、ヤニッシュさんの使い方を見る限り女性用というわけではなさそうだ。ヤニッシュさんは数匹のモルソを手早く処理すると、屈託のない笑顔になる。
「魔物は魔力を取り除くだけで食えるのか?」
「簡単に言えばその通りです。でも血と共に魔力を抜くので、狩って直ぐに下処理をするか、生捕りにしてこなければ美味しいお肉にはできません」
「へぇ……このモルソも下処理済みか?」
「はい」
なんだろう。既視感が湧いてきた私は、ヤニッシュさんの右目を見る。青い目は好奇心でいっぱいだ。
一方で、東エルゼニエ砦の長だというデュカスさんは、離れたところに立っていて近寄ってくる気配はない。ガルブレイスの騎士たちは、どちらかといえば私寄りの考え方をする人が多い。アリスティード様が私のやることをお認めになっているからか、あからさまな嫌悪を向けてくる人や、苦言を呈してくる人もいなかった。
私を『悪食令嬢』と噂した貴族たちは、体裁を重んじる者が多い。だから私は、シーリア様以外であからさまな嫌悪を示すデュカスさんが、私のことをどう思っているのか聞いてみたいという気持ちはあった。
何を考えているのか、ヤニッシュさんがデュカスさんをチラッと振り返る。そして手甲から刃を引っ込めると、血で汚れた私の手を握ってきた。
「いつから食ってるんだ?」
「えっと、初めて魔物を口にしたのは十七年前です。それからずっと、安全な食べ方を追究してきました」
それを聞いたヤニッシュさんが、「合格」と呟いた。合格とはなんなのか、私は何か試験のようなものを受けていたのか。首を傾げた私の手を、ヤニッシュさんがグッと握りしめる。
「姫さん。あんた、魔物を食うことに命賭けてんだな。俺もな、魔物を殺すことに命賭けてんだ。でもなぁ、なーんか虚しかったんだよなぁ」
「私は、ガルブレイスの騎士たちの責務が虚しいものだとは思いませんが」
「志がある奴はな。俺は私怨が動機だし? それでよ、お願いってのは、ドレアムヴァンテールを俺に食わせてほしいんだ」
「えっ?」
「魔物ってのはやり方次第で美味い肉になるんだろ? だったら、俺は奴を食いてぇ。あんたならそれができる。簡単だ」
「は、はい。喜んで」
ヤニッシュさんの勢いに、私は思わずそう答えてしまった。やっぱり既視感がある。それがなんだったのか気づいた私は、思わず後ろを振り返った。私の背後にいたアリスティード様は。これでもかというくらいに濃い魔力を垂れ流し、何故かヤニッシュさんの名前を低い声で呼んだ。
「……ヤニッシュ」
一瞬にして静かになったので、私が不思議に思って周りを見れば、ミュランさんとゼフさんが青褪めた顔になって固まっていた。リリアンさんは真っ赤な顔で目をキラキラとさせていて、ナタリーさんとアンブリーさん兄妹は、レーニャさんを連れて仕込み終わったモルソを木桶に入れてそそくさと立ち去ってしまった。
「なんです、閣下? 俺、何か悪いことを言いましたか?」
ヤニッシュさんが心底わからないというような顔になる。
「……ドレアムヴァンテールを狩るのはもう少し待てと言ったはずだが」
アリスティード様が、ヤニッシュさんの手を掴んで素早く私から引き剥がす。そしてモルソを手に取って握りしめ、私が使っていた刃物で力任せに切り裂いた。手が汚れてしまったけれど、アリスティード様は気にすることなくモルソを捌き続ける。ヤニッシュさんも再び手甲の刃を出すと、アリスティード様に負けじと捌き出した。
「もちろん待ちますよ。姫さんの遠征訓練もまだなんですから」
「お前な、メルフィを遠征に連れて行くつもりだったのか」
最後の一匹になってしまったモルソを、アリスティード様より早くヤニッシュさんが掴む。
「あの巨体をどうやって持ち帰るっていうんです? 新鮮じゃないと美味い肉にならないっていうんなら、連れて行く他ないじゃないですか」
さも当たり前のように告げたヤニッシュさんは、モルソの首を綺麗に落とす。
「閣下、俺は負け犬のままでいたくねぇんです。この間俺の鼓膜を破りやがったグレッシェルドラゴンモドキも、俺の馬を踏み殺したギラファンも。殺るだけじゃ駄目だったんだ。俺は魔物なんかに負けねぇ。食って弔って、そうじゃなきゃ奴らに勝ったとは言えねぇんだ」
そう言ったヤニッシュさんの右目が、ギラッと青い輝きを放つ。するとアリスティード様が私を庇うようにして後ろから左腕を回すと、ヤニッシュさんに右手を伸ばしてその額を指でバチンと弾いた。
「痛ってぇ!」
ヤニッシュさんの額に小さな閃光が走る。
「莫迦者。魔眼を発動させながらメルフィを怖がらせることを言うな」
「わ、わざとじゃないんですよ。魔物のことを考えるとつい」
血で汚れた手で押さえたので、ヤニッシュさんの額が赤くなる。しかしその目はもう普通の青い目になっていた。
「大丈夫か、メルフィ」
アリスティード様に抱え込まれた私は、その琥珀色の目に覗き込まれる。私が魔眼に当てられていないか心配しているようだ。ぼーっとする感じもくらくらするような感じもなく、思考もぼんやりとはしていないと思う。
「は、はい。なんとも。魔眼には耐性があるみたいです」
「ヤニッシュはこの通りぶっ飛んで血の気が多い奴だが、まあ、悪い奴ではない」
「興奮してしまってすまねぇ、姫さん」
ヤニッシュさんが勢いよく頭を下げる。
「だけどよ、俺は本気だからな。俺は食う。誰がなんと言おうともう決めた。色々言う奴は食わなけりゃいいだけだ」
一連の会話を聞いていたケイオスさんが、盛大な溜め息をつく。ずっと苦虫を噛み潰したような顔をしていたデュカスさんは、ヤニッシュさんに冷たい一瞥を向けた。もうひとり、初めて見る騎士はあんぐりと口を開けている。
私もドレアムヴァンテールには興味があるので、アリスティード様さえ許してくれたら喜んで下処理をさせてもらいたい。だけれどそれには色々な準備が必要なのだろうし、正直ひと月以上もかけて討伐しなければならないような遠征について行けるとは思っていなかった。
私は汚れていない方の手で、アリスティード様の服をつんつんと引っ張る。
「あの、アリスティード様」
「なんだ、メルフィ?」
「グレッシェルドラゴンモドキとギラファンは私も食べてみたいです」
秋の遊宴会でアリスティード様とお話しをした時から、グレッシェルドラゴンモドキは食べてみたい魔物だった。ガルブレイスに来てから初めて知ったギラファンは、どんな姿をしているのか気になっているし、もちろん美味しくいただきたい。
私の言葉を聞いたヤニッシュさんが、ものすごくいい笑顔で「よっしゃ!」と叫んで握った拳を上に突き上げた。
「それから、その、ドレアムヴァンテールも、すごく興味があるお話なので、今度のユグロッシュ塩湖への遠征で大丈夫そうなら……考えてみてくださいね?」
私が熱意を込めた目で見つめると、アリスティード様が変な声で唸る。それから「無自覚な可愛らしさが恐ろしい」と呟いた。アリスティード様は時々私にはわからない変なことを仰るので、返事に困るのだけれど。
そうこうしているうちに、小厨房長のレーニャさんとナタリーさんたちが残りのモルソを取りに来たので、その場はお開きになり、その他の砦長たちへの面通しは夕食の際に行うことになった。
◇◇◇
「うめぇっ!」
モルソの穀物詰めに豪快にかぶりついたヤニッシュさんが、噛み千切った肉をもりもりと咀嚼する。片手には穀物酒が入った酒杯を持ち、これまた豪快に飲み干した。
「こいつ小せぇくせに食いごたえある肉してんな」
「見るからにまるまると太っていましたからね」
ユグロッシュ砦の砦長だと紹介を受けたギリルさんが、モルソのスープを飲んでふーっと至福そうな溜め息をつく。モルソを捌いている時には少し引き気味だったギリルさんも、魔物食にはあまり抵抗がない部類の人だったようだ。
「ちょっと、ヤニッシュ、もう少し上品に食べられないんですか」
「あ? うるせぇよ、パトリス。お前こそちまちま食べてせっかくの料理が台無しだぜ」
ヤニッシュさんの隣には、ガルバース砦の砦長パトリスさんが座っていた。モルソを捌いている時にはいなかったけれど、魔法師長のオディロンさんとは旧知の仲らしい。
レーニャさんを中心に厨房の料理人たちが腕を振るってくれた結果、モルソの穀物詰めを窯焼きにした料理と、モルソのぶつ切りと野菜を煮込んだ具沢山のスープが出来上がった。
モルソの穀物詰めは表面がこんがりといい色に焼けていて、中はモルソの肉汁と野菜の汁を吸った穀物がふんわりと蒸し上がっている。
私はモルソを切り分けると、肉と穀物を一緒に口にした。
(野菜をすり潰してラーズと混ぜるなんて、さすがはレーニャさんです)
中身に山羊のラーズを入れたものは、とろりとしたラーズと穀物が絶妙な風味を生み出していて、とても深い味わいだ。それに、モルソの肉がとても柔らかくなっていて、噛むとじゅわっと肉汁と脂が滲み出してくる。
ここでヤニッシュさんと同じように穀物酒を飲みたいところだけれど、今日の夕食は顔合わせを兼ねているので我慢だ。私のことをよく理解してくれているアリスティード様が、さりげなく自分の酒杯を私に差し出してくれた。
「我慢することはないぞ?」
「……でも」
「モルソと穀物酒は最高の組み合わせなのだがな。だいたい、俺たちが飲んでいいものを体裁だかなんだか知らんが我慢しなければならない慣習がおかしい。メルフィ、ここではくだらん貴族のあれこれなど捨ててしまえ」
なみなみと注がれた穀物酒に私は喉を鳴らす。アリスティード様やケイオスさん、それに私のお酒事情を知っているミュランさん、ゼフさん、アンブリーさんは私に向かって酒杯を掲げてくれた。
でも――
「閣下、いくら貴方がそう思っていても、ガルブレイス公爵家はれっきとした貴族です。その夫人となるべくガルブレイスに来たご令嬢に、そのようなことを許可するのはどうかと」
東エルゼニエ砦の砦長デュカスさんが、渋い顔をして私をギロリと見てきた。