64 城下町へ行こう!
「きゃう!」
天狼の仔が、私の足元に獲ってきた獲物をぽとりと落とす。誇らしげにひと鳴きした仔の頭を撫でた私は、獲物――モルソを拾い上げると野営用の天幕に入った。
天幕には色々なものが準備してある。私は、調理器具が入った木箱の中から小型の刃物を取り出すと、モルソをキュッと捻って内臓を出し、食べやすいように捌いてあげた。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
「きゃうっ、きゃうきゃう」
内臓の臭い部分は、人と同じく天狼も好きではないらしい。嫌がった天狼が犬のようにして脚で土をかけようとしたので、私は内臓を廃棄処分用の壺に入れた。それから、置いてあった浄化水で手を清める。モルソのような小さな魔獣は、コツさえ掴めば手を汚さなくても内臓を処理できるのでさほど汚れていない。
モルソの肉の匂いを嗅いでいた仔天狼が、腹肉から食べ始めた。
「ふふふ、ずいぶんと食べ方が上手になって」
とは言っても、野生の魔獣だ。モルソに齧り付いた口の周りの白い毛並みが血で汚れてしまい、護衛のリリアンさんが「ああっ」と悲鳴をあげた。私や公爵様の部屋に出入りする天狼の仔は、リリアンさんやナタリーさんたちブランシュ隊の皆さんが毎日欠かさず綺麗にしてくれている。きっと今朝はリリアンさんが担当だったのだろう。
「あなたのお母さんは、いつ森に還るのかしらね?」
私は顔を上げると、結界魔法が施された空間に目を向ける。一心不乱に食べ続ける仔天狼の向こう側、母天狼の治療のために作った簡易の寝床に、その母天狼がのんびりと横になっていた。
狂化の傾向が見られた母天狼の治療を終えてから今日で十日目。天狼の親子は、ミッドレーグ城塞の庭に棲みついていた。
つい先ほど採取した血からは、魔毒は検出されなかった。毎朝毎晩、経過観察をしていたが、さすがは野生の魔獣。回復は早かった。それに右脚の怪我も、ここの飼育員たちから手厚い治療を受けて十分に回復している……はずだ。騎士たちが狩ってきた魔獣をもりもりと平らげる姿からは、弱っていた頃の名残はもうない。それに、四日ほど前から庭をうろうろしたり、上空を『天翔』の魔法で駆ける姿まで見せてくれるようになっていた。
公爵様が、
「よもや、このままここで冬を越すつもりではあるまいな」
と心配するくらい、ミッドレーグの暮らしに慣れきってしまっている。
「姫様、もうそろそろお時間になりますけど、大丈夫なんですか?」
物思いにふけっていた私は、リリアンさんの呼びかけにハッとする。そうだった、今日はこれから大事な約束があるのだ。
まだモルソに夢中な仔天狼を残していくのはどうなのか、と思っていたら、リリアンさんが天狼当番の騎士を呼んでくれた(今のところ人に危害を加えていないけれど、天狼は野生なので当番制で見張っているのだ)。
私が申し訳なく思いながらも面倒を見てもらえるようにお願いすると、騎士は二つ返事で心より引き受けてくれた。人懐こい仔天狼は姿も仕草も可愛らしい。モルソに夢中な仔天狼を見下ろした騎士は、優しい顔を向けていた。
「さあ、お部屋に戻りましょうか」
私は包丁を綺麗にしてから、当番の騎士たちに挨拶をして天幕を離れる。
「近道なんで隠し扉から行きましょう。初めてのお出かけに相応しい秋晴れなんですから、きっとラフォルグ夫人がやきもきしながら待ってると思いますよ」
リリアンさんの後について行くと、小さな紋様が浮かぶ壁の前にたどり着く。私が公爵様に教わった通りに魔力を込めて呪文を呟くと、何もない場所にぽっかりと入口が開いた。何度見ても不思議な出入口だ。
「城下町に行くだけなのに、そんなに気合いを入れなきゃ駄目かしら?」
別に、今着ている茶色に赤い葉の模様が入った服でもいいと思った私の呟きに、リリアンさんが反論する。
「駄目に決まってます! 閣下とのお出かけですよ?」
「でも、着飾っても汚してしまうかもしれないのに」
「大森林に魔物を屠りに行くんじゃないんですから汚れたりしませんよ。姫様は、閣下をあっと言わせるような綺麗な装いで驚かせてみたくないんですか?」
十五歳のリリアンさんは恋愛ごとに興味津々なので、私と公爵様の関係が非常に気になっているらしい。公爵様はそのままの私でいいと仰ってくれたけれど、思えば私は血塗れだったり、魔物の血で汚れた服だったり、身も清めていないボサボサの髪によれよれの服だったりと散々な姿しか見せていないような気がする。
(そうだ。晩餐の時に盛装をしたら、公爵様は嬉しそうだったから……)
考えると、私も公爵様の豪奢な外套を翻す姿や裾の長い騎士服が好きだ。簡素な服もとても格好いい。公爵様は元々長身で立派な体躯をしていて、美丈夫だから。何を着ても似合うので目のやり場に困る。そう、直視するとあまりの格好よさに赤面してしまうので、非常に困っているのだ。
「メルフィ、包丁は持ったか?」
公爵様が、爽やかな笑顔で聞いてくる。
いつもは琥珀色の目が若干金色になっているのはどうしてなのだろうか。もしかしたら、直前まで何かの魔法を使っていたのかもしれない。ベルゲニオンと天狼の襲撃のせいで、城壁に設置した魔法障壁をやり直したと聞いている。ここ数日、魔法師長のオディロンさんが公爵様の執務室に入り浸っていたから、きっとそうに違いない。
そして、公爵様は領民と同じような服を着て変装していたけれど、滲み出る威厳のせいで全く変装になっていなかった。ざっくりとした白い長袖の服に、濃い茶色の袖なし上衣。それと、薄茶色のズボンというどこにでもある服だというのに、言わずもがな格好いい。
「はい、いただいた鞄に入れました。ルセーブルの鍛治工房に連れて行ってくださるなんて、夢のようです!」
「約束だったからな。それに俺も、お前に町を案内したかったのだ」
公爵様が、紫色の飾り羽が付いた上衣と同じ素材の帽子を被る。
「うむ、やはりこういう服は動きやすくていいな。お前のそういった髪型も新鮮だ」
「子供っぽくはないでしょうか」
「町娘といった感じがしていいと思うぞ? 今日は一応、お忍びだからな」
私が部屋に戻ると、リリアンさんの言う通り、ラフォルグ夫人以下侍女の皆さんが気合いを入れて待っていた。ただし、準備されていたのは盛装ではなく、ガルブレイス地方で盛んに着られているという服だ。
妙に嬉しそうな侍女の皆さんが、手際よく支度を整えてくれる。私は今、公爵様と同じ白い長袖の上から、袖なしで裾が長い紺色の上衣を羽織り、パルーシャと呼ばれる薄い布を幾重にも重ねてふんわりと仕上げた白いスカートを穿いていた。袖なしの上衣には複雑な刺繍が施されており、腰を様々な花の模様入りの太い帯で飾るのだ。
そして髪型は、二つに分けた三つ編みだ。マーシャルレイドでは、二つに分けた三つ編みは子供の髪型だ。しかしここでは違うらしい。仕上げにパルーシャのような布を重ねてひだを作った頭巾を被ると、ガルブレイス娘の出来上がりというわけだった。
「領民の皆さんは、普段からこういう服を着ているのですか?」
私は、意外と動きやすいパルーシャのスカートを広げて見せる。布を重ねてあるというのに、軽くて風通しがよい。
すると、公爵様が空咳をして視線を逸らした。
「着ることもあるというかだな。期間限定の女性限定というか、そ、そんなところだ」
期間限定の女性限定。確かに公爵様はパルーシャは穿いていないのでそうなのだろう。期間限定ということは、暖かい地方特有の秋の装いなのかもしれない。
「まあ、閣下。そんなところだ、ではありませんよ。ガルブレイスの女性にとって、パルーシャの衣装は憧れなのですからね」
公爵様の説明が納得いかなかったのか、ラフォルグ夫人が口を挟む。侍女の皆さんも夫人に同意するように、うんうんと頷いた。
「まったく、荒事ばかりにかまける殿方はこれですからね。メルフィエラ様、パルーシャは……いえ、これは私の口から説明しても意味がありません。閣下から直接お聞きくださいませ」
ラフォルグ夫人の目がきらりと光ったように見えたのは、多分見間違いではないと思う。心なしか、女性陣の見えない圧が強い。うっと声を詰まらせた公爵様が、気を取り直して「こんなところで言えるわけないではないか」とラフォルグ夫人に文句を言う。
ぽりぽりと頬を掻いた公爵様が、少し目元を赤くして手を差し出してきた。
「遅くなるとガレオの機嫌が悪くなるからな。とりあえず出発するぞ」
私が公爵様の手を取ると、しっかりと握ってくる。
「はい、今日はよろしくお願いします」
「ああ。行きたがっていた魔法道具屋にも連れて行こう。欲しいものがあれば好きなだけ言うといい」
「魔法道具屋まで!」
天狼の治療で、マーシャルレイドから持ってきた魔法道具が足りなくなっていたのだ。こんなにも早く新しい魔法道具が手に入るなんて思っていなかったので、余計に嬉しい。それに、ガレオさんの工房では私専用の料理用刃物を造ってもらえるのだ。
「公爵様、ありがとうございます」
私が礼を述べると、公爵様は「こんなことで喜んでもらえるのであれば、毎日でも連れて行ってやる」と言ってくれた。さすがに毎日は行き過ぎだけれど、その心遣いが嬉しい。
ラフォルグ夫人以下侍女と、居残りのリリアンさんに見送られて、私と公爵様は正面の出入口から外へ出る。実は、入って来る際にはここを通らなかったので、出入口に並び立つ騎士たちに驚いてしまった。ミッドレーグ城塞は、王城とまではいかなくとも、公爵家に相応しい権威ある場所であった。
馬車に乗るのかと思いきや、公爵様は私の手を繋いだまま正面の階段を降りたところで、細い路地に入り込む。
「公爵様?」
「ん? ああ、悪い。いつもの癖でな。お前は徒歩で大丈夫か?」
「靴も柔らかいので歩くのはかまいません……でも、護衛の方がついて来ておりませんが」
そうなのだ。リリアンさんたちに見送られ、途中ですれ違ったケイオスさんからは、「夕食は食べて来ますよね?」と確認されただけであった。マーシャルレイドでも歩くのが普通だったから馬車はなくてもいいけれど、公爵様は公爵様だ。お目付役や護衛の二人や三人くらいついて来るのが普通だと思う(お父様が外出する際も護衛がいたので)。
「勝手知ったる自分の城下町だ。護衛など成人してから付けたことがないな」
「え?」
「魔物を狩りに行くならひとりでは危険だが、人相手なら俺だけで十分だ」
しかし、今日の公爵様は武器などを一切身につけていないように見える。
「メルフィ、心配しなくとも俺が護る」
瞬間、金色に輝いた公爵様の目を見て、私は納得した。そうだった。公爵様には最強の魔法があるのだ。
「それに、ミッドレーグの住人の二割が騎士だからな。そこら中に非番の騎士がうろついている」
だから何も心配するなと言った公爵様に向かって安心して頷いた私だったが、心配なのはそれだけではないことにはたと気づく。
護衛がいない、ということは、公爵様と二人だけのお出かけなのだ。
(ふ、二人きり!)
急にドギマギしてきた私は、動揺のあまり公爵様の手をぎゅっと握り返してしまった。