63 朗報は朝焼けと共に
公爵様に満杯になった曇水晶を預け、私は空の曇水晶を装置に取り付けた。
抜き出す血の量を安定させるために、まず曇水晶を組み合わせた装置に私の魔力を流し込まなければならない。空の曇水晶はひとつ。他に、ベルゲニオンの魔力が入った赤い曇水晶が二つ。この装置は、曇水晶の魔力が切れるまで描いた魔法陣のとおりに魔法が発動するのだ。
(魔法陣は大丈夫。供給魔力量も大丈夫。あとは様子を見て……)
魔力入り曇水晶が赤く輝き出すと、私は一旦呪文をやめて、起動した装置に天狼の魔毒が吸い込まれていく様子を固唾を飲んで見守った。
吸い出せる血の量は、天狼の体力を考慮して三刻で約三百リルテ。それ以上は命の危険があるので、少しでも状況が悪化したら即中止。術者である私の体感を元に、ミッドレーグの飼育員と魔法師が話し合って決めたことだ。
ヴウゥーン……ヴウゥーン……
魔法陣が発する小さな音が規則的に聴こえてくる。天狼の呼吸は最初の時より落ち着いていた。私が古代魔法語の呪文を唱えた時と同じように、魔毒で真っ黒な血がぽわりと浮き上がる。爪の先ほどのその一滴が曇水晶の中に吸い込まれていくと、私と同じようにして見守っていた魔法師たちから安堵の溜め息がもれた。
「素晴らしい。この曇水晶があれば、城壁の魔法障壁も安定して張り続けることができるのではないでしょうか」
「魔物なら掃いて捨てるほどいますからね。魔力には事欠かないガルブレイスにお誂え向きです」
「古代魔法ではなく、普通の魔法に置き換えることは可能なのですか?」
「魔力を安定して備蓄できるのなら、古代魔法にこだわる必要はなさそうですよね」
魔法師たちが、あれやこれやと意見を述べ始める。私がどの質問に答えようか迷っていると、ミッドレーグの魔法師を束ねる長だというオディロンさんが割って入ってきた。
「お前たち、これの凄さがわからないとはまだまだ未熟だね。現在のどんな魔法に置き換えようと、こんな化け物じみたことをやってのけられるわけがないじゃないか。僕には無理だ。身体がイカれてしまうよ」
オディロンさんがやれやれというように溜め息をついた。森の民の血を引くオディロンさんは、光の加減によっては若草色にも見える金髪をして、年も私の少し上くらいに見える。これでも公爵様がガルブレイスに来られる前からずっとミッドレーグで魔法師をしているといい、吸い出す血の量を複雑な計算式で弾き出したのも、このオディロンさんなのだ。
未熟だと言われてしゅんとなった魔法師たちに、何やら新たな任務を言い渡したオディロンさんが、くるりと私を振り返る。
「さて、北の姫君。貴女には休息が必要だ。自分の今の状態、わかってます?」
「今の状態、ですか?」
疲れているといえば疲れているのかもしれないけれど、装置がうまく起動した安堵で今は興奮の方が強い気がする。もう少し装置の様子を見るくらい、どうということもない。
私が首を傾げると、オディロンさんが先ほどよりも盛大な溜め息をついた。
「体内魔力の急激な放出による極度の疲労」
オディロンさんが、私の右手首をむんずと掴む。
「え?」
「加えて、古代魔法の長時間詠唱による魔力の枯渇」
「あ、あの」
その掴まれた手首から、何故か虚脱感が広がっていく。オディロンさんはただ手首を掴んでいるだけで、何もしていないというのに。
「貴女の身体の中は、魔力の流れが無茶苦茶になっているんですよ」
「でも」
「ぶっ倒れる前に、おとなしく天幕で寝なさい」
オディロンさんが、聞き分けがない子供に言い聞かせるような口調になる。
(ぶったおれる? 私が倒れるということ? でも、なんともないのに)
マーシャルレイドの研究棟では、二徹まではいけたのだ。まだまだやれると思っていたけれど、変に自覚すると自分の身体が自分のものではないような感覚がして、私はがくんと膝をついた。
「メルフィ!」
背後から公爵様の声がして、駆け寄ってくる音が聞こえてくる。しかし、ついた膝がガクガクと笑い出し、私は顔を上げることすら億劫になってしまった。
「どうした⁉︎ オディロン、何があった⁉︎」
私は、後ろから身体を支えてくれた公爵様に、申し訳ないと思いながらも寄りかかる。オディロンさんは私の手首を離すと、少しあきれたような声を出した。
「やれやれ。昔の坊ちゃんと同じですよ。過剰な魔力放出による急激な魔力切れ。見た感じ、この子は大丈夫かなと思いましたけど、大丈夫じゃありませんでしたね」
「メルフィの前で坊ちゃんというな! 魔力切れなら自然回復が一番だが……メルフィが俺と同じ?」
「古代魔法の魔法陣はバカみたいに魔力を喰うんですよ。特に、この魔法陣は異常なくらい複雑な魔法陣を幾つも組み合わせてますから」
「まさか、メルフィも魔力過多傾向にあるのか?」
「坊ちゃんほどではありませんが、普通の人よりも魔力は多いんじゃないですか? 魔力過多の人は、自分の限界を把握するのは難しいですからね。自分の魔力の底を知らない分、考えなしに魔力を放出しまくって倒れたのはいつでしたっけ?」
「う、ぐっ……そんな目で見るな。今は自己管理できているぞ!」
「どうだか。それよりも、坊ちゃんの姫君が寝落ちしそうになってますよ?」
「メルフィ⁉︎」
そんな会話をどこか遠くで聴きながら、私はゆらゆらと揺れる揺りかごのようなものに乗せられた。何故か耳のすぐそばで、規則正しい心臓の音がする。見えているはずなのに、頭はうまく働いてくれず、私はただぼんやりと中空を見た。
(温かい……気持ちいい)
揺れと温かさとトクトクとなる心音のせいで眠くなり、私はゆっくりと目を閉じる。
「メルフィ、眠りたいだけ眠っていいぞ」
(この声は、公爵様?)
すぐ近くで聴こえる公爵様の優しい声に、私は本当にそのまま眠ってしまいそうになりながらも、大事なことを思い出して少しだけ覚醒した。
「こーしゃくさま」
「ん、なんだ?」
「三刻、三百リルテ」
「は?」
「三刻で三百リルテは厳守です」
「…………わかった」
「テンローに水分をいっぱい」
「心配するな。俺が責任持って見ておこう」
さすがは公爵様、頼もしい限りだ。
公爵様がきちんと見てくださるのであれば安心だと脳が理解した瞬間、私は睡魔に身を委ねた。
私が次に覚醒したのは、陽が暮れてからだった。
寝返りをうって微睡んでいた私は、ふわふわとして温かい何かを自分のお腹の横に見つけて、ぎゅうっと抱き寄せる。
「きゃう」という可愛らしい鳴き声を上げたふわふわのそれは、意思を持って動き始めた。
(……天狼、の、仔? なんでこんなところに)
私の手を甘噛みして、頭をグリグリとすり寄せてくる天狼をぼんやりと見ていた私は、自分がどこにいるのかわからなくなって飛び起きた。
(ここ、どこ⁉︎)
周りを見れば、そこが公爵様の野営用天幕だと理解した。けれど、何故自分が寝ていたのかよく覚えていなかった。とりあえず戯れついてくる天狼の仔をあやしながら、喉の渇きを覚えた私は置いてあった水を二杯飲み干す。干した果実も置いてあったので、ついでに二つ三つ摘んで食べた。
「お前、お腹は空いてないの?」
「きゅわ?」
足元に転がった天狼の仔のお腹は、ぽっこりと膨らんでいた。
「ふふ、お腹はぽんぽんみたいね」
柔らかく手触りのよい天狼のお腹を撫でていた私は、天幕内の魔法灯には明かりがついていないのに、天幕越しに煌々と輝く光が見えることに疑問がわいてきた。
「あ……ああっ⁉︎」
まだ寝ぼけていたらしい。私は天狼の治療中だったことを思い出して、慌てて天幕の外に飛び出した。
白く大きな体躯を横たえた天狼が、魔法陣の上に敷かれた藁の上にうずくまっている。ケイオスさんやミュランさんなどの騎士たちが見張りにつき、公爵様とオディロンさんたち魔法師が魔法陣の装置を取り囲んでいた。
「公爵様、ごめんなさいっ! すっかり眠りこけてっ」
「きゃうんっ!」
私は公爵様の元に駆け寄ろうとして、草に足を取られて蹴つまずく。足元を走ってついてきていた天狼の仔ともども、地面に転がってしまった。
「メルフィ⁈」
「ったた……」
転ぶなんて子供の頃以来だろうか。すぐに駆けつけて来てくれた公爵様に助け起こされた私は、恥ずかしさから目を合わせられなかった。天狼の仔の方は大丈夫なようで、白い毛についた汚れをペロペロと舐めている。
「もう少し休んでいろ。そんなにすぐには魔力切れは回復しない。まだ五刻半だぞ?」
「魔力切れ……でも、そういうわけにも」
「大丈夫だ。お前の装置は順調に動いているぞ。ほら、あれを見てみろ」
そう言って公爵様が指し示したのは、天狼から吸い出した魔毒入り曇水晶だ。ひとつはまだ濃い黒をしていたけれど、もうひとつは、黒味が少し薄れて赤い色味があらわれている。私の視線を感じてか、オディロンさんがさらにもう三つほど曇水晶を見せてくれた。多分直近で吸い出したものと思しきひとつは、明らかに血とわかる色合いだ。
「これは……あの、含まれている魔力量に差はないのですか? 魔法陣は正常に動いていますか? 術式は?」
吸い出す血の量に対して、魔力濃度が薄すぎるのではないかと心配になった私は、矢継ぎ早に質問をする。
「ちゃんと描かれた通りに動いていますよ、貴女の魔法陣は。何かひとつ欠けても成立しない、奇妙奇天烈な魔法陣ですがね」
そう言ったオディロンさんが、複雑そうな顔を見せる。私の魔法は、きちんと学術院などに通っていない自己流の魔法だから、オディロンさんのような魔法師には不思議に思えるのだろう。
私は膝についた草をはらうと、公爵様の手を取って装置の方に歩いた。ベルゲニオンの魔力入り曇水晶は、もうほぼ残量がない。今設置してある、吸い出すための曇水晶には、半分ほど血が溜まっていた。
「澱みもそこまで酷くはありません。もうそろそろ、天狼の回復力に賭けてもいい頃合いだと思いますよ、僕は」
オディロンさんの言う通りだと思う。私の目にも、もう魔法陣で無理矢理吸い出さなくても大丈夫なように見えた。天狼の身体を蝕んでいた魔毒は、ほぼ吸い出せたと考えてもいいような気がする。
私が公爵様を見上げると、公爵様もそう感じていたようだ。藁の上で眠っているように見える天狼に目をやり、大きく頷いた。
「装置を止めて、少し様子を見てみるか。つい三刻前くらいから、あれの具合も目に見えて良くなってな」
「そうなのですか?」
「ああ。メルフィが寝ている間に、バックホーンの肉の塊も食べてみせたのだ。さすがは野生だな」
食べることができなくなれば、即刻死が待ち受けている。無理矢理与えられたものではなく、天狼が自ら食べたのであれば、本当に具合は良くなってきているのだろう。
そこでふと、私は何かがおかしなことに気づく。
(私が眠ってしまったのは、昼過ぎだったような気が……)
四、五刻ほどで、そこまで回復するものなのだろうか。それに、三刻に三百リルテ(曇水晶一個分)の血を吸い出すようになっていたので、曇水晶が五つもあるのはどう考えてもおかしい。
(えっと、今は、夕方五刻半?)
秋の陽暮れは早いので、すでに陽が落ちている。夕暮れから間がないのか、まだ空の裾が薄っすらと明るく……
(え? 東の空が、明るい?)
私はハッとして、公爵様を見上げる。
「どうした、メルフィ。何か気になることがあるのか?」
「あの、公爵様。五刻半とは、まさか明け方の五刻半なのですか?」
「ああ、そうだが。どうした、何故そんな顔をする?」
なんたる失態だろう。私は愕然としすぎて、公爵様の手を掴んだまま脱力した。人生で初めての魔力切れを起こした私は、なんと十五刻以上爆睡してしまったらしい。
(天狼の命が関わる大事な時に、なんという)
そんな私の足元に、天狼の仔が身体をすり寄せてくる。まん丸な赤いつぶらな目に、なんだかいたたまれなくなってしまった私は、しゃがみ込んだ。
やがて夜が明け始め、ミッドレーグは真っ赤な朝焼けに包まれる。天狼の真っ白な毛が赤く染まり、私も天狼の仔も、公爵様も真っ赤になる。
「ウゥォン」
夜明けと共に目覚めたのか、天狼の母親が小さく鳴き声をあげる。目を開けた天狼を見た私は、その赤い目から澱みが消えていることにホッと息をついた。