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62 回復の兆し

 どろりとした真っ黒の血が、魔法陣の上にぷかりと浮き上がる。ほんの爪の先くらいしかない小さな一滴の中に、どれだけの魔毒が含まれているのだろう。


(魔力が()()()()()()()……とても禍々しくて、不気味な色)


 慎重に引き寄せると、最初の一滴が曇水晶の中に吸い込まれていった。正確な分量を図るために、わざと圧縮の魔法はかけていない。この曇水晶には約三百リルテの液体を入れることができる。普通の酒杯一杯分だ。

 天狼の体格から、一日に採取できる血は最大でも四ダルテだ。それ以上は回復が追いつかないので危険である。私はできるだけ少ない血で多くの魔力を吸い取れるように、『ルゥナティクト・ノヴ・ブレドゥース』と『マギクス』と唱える声に力を込めた。


「グヴヴゥ……」


 天狼がその濁った眼で私を見る。すぐさま、私の隣にいた公爵様が、天狼を牽制するようにして()()に金色の魔力の炎を揺らめかせた。魔法陣の周りに並ぶ騎士たちも、腰を低く落として臨戦態勢になっている。

 天狼が、私に向かって少しでも牙を剥こうものなら、公爵様は本当に容赦なく首を斬り落としてしまうつもりなのだろう。


(無理をするなと仰ってくださいましたけど……)


 私はなおも集中する。どれくらいの速度で、どれだけの量を、どれくらいの時間をかけて抜き出せば天狼に負担がかからないのか。手探りの状態だけれど、失敗は許されない。


(そういえば、お母様は魔力を吸い出す時にどんな風にしていたかしら?)


 曇水晶を介する私とは違って、お母様は魔物から直接魔力を抜き取っていた。お母様が指を動かせば、まるで生き物のように魔力の塊が集まってきていたと記憶している。先ほど、魔力を試しに抜き取った時には私も素手だったけれど、見た目からしてこんなに害がありそうなものを素手で触れ続けるのは憚られた。


(ううん。今さら迷っていても駄目。私は私なりに、成し遂げてみせなくては)


 いつしか私の耳には公爵様たちの声も、天狼の唸り声も聞こえなくなっていた。




 ◇




 メルフィエラ様の赤い髪が、燃えるように輝いて、風もないというのにふわりと靡く。詠唱は淀むことなく続けられ、一滴、また一滴と黒い魔力の塊がメルフィエラ様が持つ曇水晶に溜まっていった。


「ケイオス補佐、この状態でもう三刻になります。姫様の体力的には、休憩を挟んだ方がいいかと思うのですが」


 私と同じように魔法陣の側に待機しているブランシュが、メルフィエラ様の背中を心配げに見遣る。


「そうですね。曇水晶ももうすぐ満杯になりそうなので、頃合いでしょうか……といっても、再び魔法陣を発動させるには同じくらいの集中力が必要です。オディロン魔法師長、貴方の見解はどうですか?」


 魔法陣については、私よりも魔法師たちに聞いた方がいい。私は、興奮を抑えきれない様子で魔法陣を見つめているひとりの魔法師に尋ねた。いつもは死んでいるその茶色の目が、騎竜を前にした子供のように生き生きと輝いている。ガルブレイスの魔法師の証である藍色の外套を羽織った彼は、ミッドレーグの魔法師長オディロンだ。

 返事がないので、私はもう一度名前を呼ぶ。


「……オディロン?」

「は? ああ、えー……なんですっけ?」


 恍惚とした顔のオディロンは、明らかに私の話を聞いていなかった。私が溜め息をつくと、オディロンはもじゃもじゃとした癖のある枯れ草色の髪を掻き上げて、いつもの覇気のない顔になる(本人曰く、これが真面目な顔らしい)。


「このままメルフィエラ様に詠唱を続けさせていいのかどうか、と判断を仰いでいるのですよ。貴方ならわかるでしょう、得意分野なんですから」


 すると、メルフィエラ様をちらりと見たオディロンが、ふるふると首を横に振った。


「古代魔法についてはからっきしですからね、僕は。だって今時、古代魔法なんて古臭くて面倒で使い勝手が悪くて全然洗練されてない死んだ魔法を使う場面なんてないでしょ」

「オディロン魔法師長、なんという言い方ですか!」


 ブランシュがムッとしたような声を上げる。しかし、オディロンはけろりとした顔で尚も言い放った。


「これでも褒めてるんですけどね、僕は。認めたくないですが、この僕をしてでも難しいんですよ、古代魔法ってものは。精霊の言葉なんて、陶酔系の詩人にでもならない限り理解不能です。そんなものを、あんな不安定な組み合わせの魔法陣でよくまあいとも簡単に……北の姫君は、王城の魔法師(じじい)たちの秘蔵っ子か何かですか?」


 口は悪いが、オディロンは別にメルフィエラ様を貶しているわけではないようだ。


「陶酔系の詩人……なるほど、姫様は詩人の素養がおありだと。ん? それでは、閣下も? あの閣下が……詩人」


 ブランシュが別のことで衝撃を受けている。それについては私も思うところがあるので、ブランシュの気持ちはわからないでもない。しかし今はそういうことを追及する時間ではないのだ。


「今はメルフィエラ様の出自については関係ありません。オディロン、貴方に聞きたいのは、詠唱を中断させて、メルフィエラ様に休憩をお取りになるように勧めても大丈夫なのかということなんですよ」

「大丈夫じゃないと思いますね、僕は。北の姫君は、吸い出す血液量を調整中みたいですし。まあ、倒れない限りこのままブランシュ隊長が給餌して、様子を見守る方向でいいんじゃないですか?」


 投げやりとも取れる言い方だが、オディロンはメルフィエラ様とその魔法陣から目を離さなかった。再びやる気のなさそうな目に光が灯ったことからみて、魔法師としてのオディロンは、古代魔法を研究の対象として認めているらしい。


「……だそうです。ブランシュ隊の皆は、このままメルフィエラ様のお世話をお願いします」

「わかりました。それにしても姫様は華奢なお身体だというのに、体力は我々騎士に匹敵するのではないでしょうか」

「マーシャルレイドでは研究に次ぐ研究の日々を送っておられたようですから、体力面ではうちの変人魔法師たちと同じなのかもしれません」


 魔法陣を発動させ続けているメルフィエラ様は、ずっと立ったまま微動だにしなかった。時折、緑色の目が瞬きをするだけで、あとは魔力が巻き起こす力の流れにより髪が靡くくらいである。


(まあ、何かあれば閣下が無理矢理にでもお止めくださるでしょう)


 メルフィエラ様の額に滲む汗を、ブランシュ隊の騎士リリアンが甲斐甲斐しく拭っていた。その隣で付き添う閣下は、()()を天狼に向け、右手でとある魔法を紡いでいる。


(やれやれ、閣下も閣下ですよ。左肩にあれだけの怪我を負っておきながら)


 閣下はもはや、昨日の怪我のことなど忘れているのだろう。動かすのに邪魔だからか、ギチギチに巻いていたはずの包帯を引きちぎっている。そして、目を魔力で金色に輝かせ、全力でメルフィエラ様を護ろうとなされていた。

 そう、閣下は今、気づかれないようにメルフィエラ様の姿を隠すための魔法を使っている。それは、古代魔法語の魔法陣を不特定多数の者に見せないようにするためだ。マーシャルレイドでロワイヤムードラーを捌いた時から、閣下はメルフィエラ様が古代魔法を使う時に広範囲に結界を張っていた。

 それは、魔物食が禁忌だからという理由だけではない。

 物体から魔力を吸い出してその魔力を圧縮して曇水晶の中に保管する、という技法を不用意に外部に晒さないためだ。

 

(ここにいる者の中に、悪用する者はいないとは思いますけれど……)


 私は天狼の様子に合わせて騎士たちを指揮しているわけではない。その役目はミュランが負っている。閣下から言い渡された私の役目は、少しでも不審な動きをしている者がいないか探ることだ。この治療に携わった騎士や魔法師を疑いたくはないが、よからぬことを考える者が出てこないとも限らない。


(古代魔法は、オディロンですら扱いに難しいということですから、杞憂に終わってほしいものです)


 ガルブレイスの魔法師は、決して軟弱ではない。騎士と共にエルゼニエ大森林の魔物討伐に赴き、魔法師らしく魔法で戦える実力を持っている。魔物との戦いは、冷静な状況分析と迅速な行動ができなければ生き残れない。

 先ほどオディロンは、古代魔法は難しいと言い切った。実力を兼ね備えた魔法師たちの長ですら、古代魔法を操れないと明言したのだ。


(エルゼニエ大森林の地中に流れる魔力を悪用して、神話に聞く『古代魔法兵器』を創り出せる猛者はいないでしょうが)


 自分でできないのであれば、あとはメルフィエラ様を誘拐しようと考える者が出てきてもおかしくはない。沸いて出てくる様々な問題に、私は眉間に寄った皺を揉んだ。


 今は、城の中から出ることがないメルフィエラ様だが、いつまでも閉じ込めておくことはできない。閣下も、それをお望みではない。かくいう私も、メルフィエラ様を是非エルゼニエ大森林や、各砦に案内したいと考えている。


(アザーロの砦は、冬の初めに冬毛のパウパウが飛来してくるんですよね。閣下もアレがお好きですし、メルフィエラ様も喜んでくれるのではないでしょうか)


 ガルブレイスは危険な魔物が山ほど棲息しているが、いいところもたくさんあるのだ。閣下が側にいればメルフィエラ様も安全なので、もっと仲を深めるためにも泊まりがけでお出かけするのはどうだろうか。

 ついついそんなことを考えていた私は、メルフィエラ様が動きを見せたことで気持ちを切り替えた。

 魔法師たちが、慌ただしく曇水晶の装置の準備を始めている。メルフィエラ様は閣下から二個目の曇水晶を手渡され、何か短い会話を交わした。集中力は途切れておらず、疲れているだろうに、その顔には笑みらしきものが浮かんでいる。


(そういえば、天狼も唸らなくなりましたね)


 時折、咥えた管から流れてくる水を飲む仕草を見せており、心なしか呼吸がゆっくりと落ち着きを見せ始めたように感じられた。見慣れない魔法陣を怖がってか、近寄って来ようとしなかった天狼の仔が、今はリリアンに抱えられて尻尾を振っている。


 時刻は昼十一刻に差し掛かろうとしている。

 閣下がメルフィエラ様から受け取った曇水晶は、ドロドロとした魔力が不気味に蠢いており、私が今まで見たどの黒より真っ黒で、危険な臭いがした。




三百リルテ……三百ミリリットル

四ダルテ……四リットル


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― 新着の感想 ―
[一言] 頑張るメルフィエラとそれを守るアリスティード様。前から伏線ありそうと思っていたら、やっぱり。「メルフィエラを守る地位も権力もある」って、見栄切ってましたしね。このまま皆の協力のもと、治療が順…
[一言] いやぁ…マジで長丁場ですね…周りの人も疲れそうだ(笑)
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