61 『狂血』公爵
公爵様の手が少し震えているように思えて、私は公爵様の琥珀色の目を見つめ返す。そこに見えた感情は、切なさだろうか。
「アリスティード様……」
私は名前を呟くことしかできなくて、空いた方の手で何故か苦しくなった自分の胸の真ん中を押さえつけた。公爵様はふっと顔を緩めて困ったように微笑むと、立ち上がって私の頭に手を置く。
「なに、気負わなくていい」
「はい」
「それより、天狼は恩を忘れぬ魔獣だと言われている。あれが無事回復したら、お前のささやかな願いごとのひとつや二つくらい叶えてくれるかもしれないぞ」
「まあ、でしたら……是非私とお友達になってほしいです。エルゼニエ大森林を案内してくれるとか、美味しい魔物を獲ってきてくれるとか」
「はっはっ、お前らしいな」
公爵様はニヤリと笑うと、今度は険しい顔をしてキッと天狼を睨みつけた。
『よいな、僅かでも我が番を傷つけてみよ。お前のその首、斬り落としてくれる』
ぞくりと背中が泡立つような公爵様の低い声音に、天狼が濁った赤い目をこちらに向けてきた。怒っている様子はない。私は天狼から自分の未熟さや不安を見透かされているような気がして、気を引き締める。
『そこでは治療はできぬ。魔法陣の上に移れ』
公爵様が古代魔法語で天狼に指示を出すと、天狼がゆっくりとその身を起こした。開いた口から涎がボタボタとこぼれ落ち、その息は荒い。それでも天狼は、怪我をしている右後ろ脚を引きずりながら、乾燥した藁を敷き詰めて作った即席寝床に移動して身を横たえる。藁の下は魔法陣が描かれた石材の床だ。
公爵様が、私の胴体くらいの太さがある荒縄を天狼の口に噛ませた。そして騎士たちが、天狼の四本の脚にそれぞれ丁寧に縄を巻き、魔法陣の四隅に打たれた杭に結びつける。
天狼に与えるための餌と水を準備した飼育員が、魔法陣から少し離れた場所に陣取り、私の側には、公爵様とブランシュ隊、それに魔法師の皆さんがついてくれた。他にも、天狼が暴れ出した時のために、武装したケイオスさんを筆頭に、騎士たちが魔法陣をぐるりと取り囲む。
先ほど、少しだけ魔力と血を抜いた時にも、天狼は不快感を顕にしていた。身体の中から強制的に魔力が抜けていくのは、さぞかし不快なことだろう。暴れられたら、こちらも怪我をするどころの騒ぎではない。
「では、始めます。魔法陣が発動している間は、中に踏み入れないでくださいね」
私は大きく息を吸い込むと、曇水晶を手にした。手持ちの中でも一番大きく、また一番綺麗な球体だ。今回は、その曇水晶にも魔法陣を彫り込んでいるので、扱いは慎重に慎重をきさねばならない。
(さあこれからよ、メルフィエラ。集中しなさい)
心の中で自分を叱咤して、私は魔法陣を発動させるために一歩前に足を踏み出した。
『ワ・ソ・シエルモ・イーラ・パルセー・ドュナ・ドュナ・マギクス・ワ・ソ・シエルモ……』
私はゆっくり慎重に魔力量を調整しながら、魔法陣に自分の魔力を流し込んでいく。身体を巡っている魔力が活性化して、私の指先が淡く光り始めた。曇水晶の魔法陣も一緒に反応を見せ始め、手の中で光が眩しいくらいに乱反射する。
『ワ・ソ・シエルモ・イーラ・パルセー・ドュナ・ドュナ・マギクス』
まずは、私の魔力とこの魔法陣を繋ぐための魔法陣が反応して赤く輝いた。次いで、魔力を固定する魔法陣と、天狼の魔力に反応して体外に排出させる魔法陣が起動する。
(ここまでは大丈夫。天狼も……うん、大丈夫みたいね)
自分の魔力が魔法陣の隅々まで行き渡ったことを確認した私は、いよいよ『魔毒』を吸い出す呪文に切り替えることにした。
『ルエロ・リット・アルニエールン・オ・ドナ・マギクス・バルミルエ・スティリス……』
一気に吸い込むのは危険すぎるので、吸い出した魔力を魔法陣の上に留める魔法陣を周りにいくつか散りばめている。吸い出す速度を調整する魔法陣もあるが、それは安定した際に装置に連動させるものだ。
『オ・ドナ・マギクス・バルミルエ・スティリス・イードラ・デルニエット・オ・ドナ・ヴェネーノ……』
『ヴェネーノ』は毒を表す古代魔法語だ。私が何度か呪文を繰り返したところで、天狼の右後ろ脚がビクンと跳ねた。じわじわと滲み始めた血は、ドス黒く澱んでいる。
「ヴヴヴヴヴ……」
(苦しそうね)
荒縄を噛みしめて唸る天狼に、私は呪文の速度を落とし、流す魔力量も控えめにする。やはり、生きた魔物から魔力を吸い出すのは至難の業だった。生きようとする魔物から、魔物の生命の源とも呼べる魔力を無理矢理引き剥がすのだから、抵抗があって然るべきなのだ。
『ルエロ・リット・アルニエールン・オ・ドナ・マギクス……』
いつもなら、ここで魔力と共に大量の血が抜け出していくのだが、じわりじわりと滲むくらいではまだまだだ。魔力を表す『マギクス』と、毒を表す『ヴェネーノ』の組み合わせでは駄目なのかもしれない。古代魔法語は、言葉の意味を正しく理解して紡ぐ必要がある。
(ヴェネーノではないというのなら、魔力の澱み? 魔毒も魔力も同じもの。悪しき魔力、違う、そんなものではない……毒の血、血はサノス)
『ルエロ・リット・アルニエールン・オ・ドナ・ヴェネーノ・サノス……』
すると、血を意味するサノスという古代魔法語に反応して、天狼の右後ろ脚から赤褐色の血がゴポリと流れ出てくる。魔法陣が魔毒ではなく血にのみ反応している。私は慌てて呪文を止めると、もう一度最初から別の呪文を繰り返した。
魔力のみを吸い出さなけば、失血により死んでしまう。血と魔力は切り離せないものだけれど、より少量の血に魔力をたくさん込めなければならない。
何度も何度も呪文を変えては天狼の反応を見る。それを何度繰り返しただろうか。途中でブランシュ隊長から、冷たい飲み物を管により流し込まれたような気がする。甘い果実のようなものが口の中に放り込まれると、とりあえず咀嚼して飲み下した。天狼も私と同じように管で水を飲まされている。失われた血を補うためには仕方ないとはいえ、体力を消耗した身体には辛いだろう。
(どうすればいいの。精霊は詩的な言葉を好む……直接的な表現では駄目だとしたら、『昏き闇に侵された狂いし生命の川』とか、そういう比喩表現?)
とてもじゃないけれど、私の古代魔法語の辞書の中にはない単語だ。その時、思いつく限りの古代魔法語を試していた私の脳裏に、ふいに浮かんできた言葉があった。
(自我を狂わせる魔力、狂う……狂化。狂った魔力と血)
私はギクリとした。曇水晶を握る手に力が入る。私がその姿を探して横を見ると、心配そうにこちらを覗き見る琥珀色の目があった。
「公爵様」
「どうした、少し休むか?」
「いいえ、その、公爵様」
私はそのひと言を発せずに躊躇した。
公爵様は、社交界ではずっとそう呼ばれて蔑まれてきた。
血を好み、常に血臭を求めて魔獣を屠る変わり者。残虐非道の血に狂った公爵。ガルブレイスの『狂血公爵』。
その悪意しか感じられない蔑称に、どれだけ心を痛めてきたのか。私にはそれが嫌というほどわかるだけに、それを聞くことが憚られたのだ。
(でも……)
知りたいのは、そんな低俗な噂話に由来する言葉の意味ではない。『魔毒』という言葉を表す古代魔法語だ。私は決心すると、公爵様を見上げた。
「公爵……アリスティード様。教えてください」
「なんだ? 何があった?」
公爵様が距離を詰めて、咄嗟に私の肩を掴もうとして、伸ばした手を止めた。
「開始から三刻だ。夜が明けたことに気づいているか? 話なら天幕で聞こう」
言われてみれば、魔法灯の明かりではなく、周りがすっかり明るくなっていた。そんなことにも気づかないくらい集中していたらしい。気遣いはすごくありがたい。でも私は、強制的に休ませようとする公爵様を制して、質問を続ける。
「精霊は詩的な表現が好きだと、アリスティード様は仰いました」
「あ、ああ、俺は王城の魔法師からそう聞いたが」
「では、古代魔法語で『狂血』を表す言葉を知りませんか? 詩的で、精霊が喜びそうな表現で」
私の質問をキョトンとした顔で聞いていた公爵様が、声を上げて笑い出した。
「メルフィ、か、畏って、何かと思えば。ど、どんな難題が発生したのかと、焦ったではないか」
あまりに笑うので、私も、側にいたケイオスさんとブランシュ隊長も呆気に取られた顔になった。
「気にするな、メルフィ。なるほど、『魔毒』よりも可能性は高いな」
「もう、笑い事ではありません! 私は、それを口にするのも嫌だったのです」
私が抗議すると、公爵様は笑いを収めて優しい眼差しで私を見つめてくる。
「何故だ? 狂血公爵とはいかにも強そうではないか。物騒だが、牽制するにはもってこいな二つ名で、俺はそう悪くはないと思うが……とまあ、冗談はさておき」
公爵様は咳払いをすると、『狂血』を表す古代魔法語を最も簡単に答えてくれた。
「『狂血』を直接言えば『ドゥブニ・サノス』だが、それではないのだろう?」
「はい、血を表す『サノス』に対する反応が強くて、魔毒にはあまり反応がありませんでした」
「詩的な表現となると、そうだな……バーサキルス? いや、『ルゥナティクト・ノヴ・ブレドゥース』なんかどうだ?」
公爵様の流暢な古代魔法語は、とても響きが美しく、まるで歌うように聴こえる。
「ルゥナティクト・ノヴ・ブレドゥース?」
「月に気を奪われし者が真血に酔う、と言えよう。直訳すると、ルゥナティクトが狂いしもの、ブレドゥースが血に迷いしもの、だ。意味は狂血と同じだが、より精霊じみた言葉だな」
公爵様は、王城の魔法師たちからどんな風にして古代魔法語を学んでいたのだろうか。あまりに美しいその表現に、ケイオスさんが「まさか、閣下に普通の貴族のような教養があったとは⁉︎」と驚いている。
「アリスティード様、ありがとうございます」
「なに、お前の助けとなれてよかった。それが正解かどうかはわからんが、違えばまた考えればいい」
私は公爵様に頷くと、天狼に向き直って曇水晶を掲げる。そして、『ルゥナティクス・ノヴ・ブレドゥース』と何度も頭の中で唱え、それが表す意味を叩き込んだ。
『ルエロ・リット・アルニエールン・オ・ドナ・マギクス・バルミルエ・スティリス……』
私の呪文に、魔法陣が反応して再び輝き始める。私の中に確信があるせいか、魔力の伝導率が格段に上がっているような気がした。それが証拠に、私の赤い髪が仄かに輝きを帯びている。
『イードラ・デルニエット・オ・ドナ・ルゥナティクト・ノヴ・ブレドゥース……』
ゆっくり、ゆっくり、さらに慎重に。私が七度目の呪文を繰り返し唱えた時、私の魔力が天狼に引きずり込まれるような感覚がした。
(うっ……なんという抵抗なの⁉︎ でも、これが抜けたら)
私はしっかりはまって抜けない酒瓶の栓を抜くように、感じ取った詰まりを引き抜いていく。
「あっ⁉︎」
ついにスポンと栓が抜けたような感覚がしたかと思うと、新たに天狼の右後ろ脚から流れ出した血が、真っ黒に染まり、濃い魔力を含んだものになっていた。