60 天狼よりもお前が(公爵視点)
メルフィエラが魔法陣を描き上げたのは、深夜三刻を回った頃だった。
用意していた染料を全て使い切り、さらに予備の染料を半分も消費した魔法陣。それは、俺が今まで見たことがあるどの魔法陣よりも複雑で、難解で、そしてメルフィエラの優しさがぎっしりと詰まったものになっていた。
敷き詰めた石床材に魔法陣が定着するまで時間がある。俺は天狼に断りを入れてその場をミュランに任せると、騎士たちが準備した遠征用の天幕に向かった。あれこれと現場の指揮をしていたケイオスが、俺に気づいて水を差し出してくる。俺は木の杯を受け取ると、一気に飲み干した。
「よもや自分の城の庭で野営をすることになるとはな」
「天狼から目を離すわけにはいきませんので、それも仕方のないことかと。しかし閣下、我々は慣れておりますが、メルフィエラ様は……」
ケイオスがメルフィエラのために用意していた水や果実、そして軽食に目を向ける。いっさい手を付けられた形跡がないそれは、メルフィエラが休憩を取っていないことを示していた。
「何度かお声をかけたのですが、集中なさっているのか生返事です。まるでどこぞのお方のようですね」
ケイオスが俺を意味ありげな顔で見てくる。身に覚えがある俺は、咳払いをしてごまかした。研究に没頭して寝食が疎かになることがある、とはメルフィエラ本人から聞いていた。俺自身もその傾向が強い。しかし今は、ケイオスが口うるさい理由がわかる気がした。俺がメルフィエラを心配するように、ケイオスも俺のことが心配なのだと、やっと気づいたばかりなのだ。ガルブレイス公爵たる自分がやらねば、という気負いと、持って生まれた魔力過多の体質により、俺は多少の無茶が当たり前になっていた。
「責めるな。俺も今になってようやく、お前の気持ちがわかった気がする」
なんというか、気を張り詰めているメルフィエラを見ていると、ハラハラする気持ちと、出来ることならば代わってやりたくなる気持ちと、要するに俺は、『心配で不安』だった。
「そうですか。ようやく閣下にも私の言葉が届くようになったのですね。メルフィエラ様に感謝しなければ」
「まあ、お前には色々と苦労をかける」
「苦労など。私の忠誠は貴方にあるのですから、それこそ当たり前です」
「お前も適当に休めよ。俺はメルフィを連れて来る」
ケイオスは、恭しく腰を折ると「では、失礼ながら」と前置きをして軽食を取りに行った。
魔法灯の明かりの下、メルフィエラは城の魔法師たちと共に魔法陣の乾き具合を確認している。いつまでかかるかわからない長丁場になりそうな予感に、俺はメルフィエラを強制的に休ませることにした。
「メルフィ、いい加減に休憩を取れ」
「公爵様……」
俺がそう言って肩を叩くと、顔を上げたメルフィエラが気まずそうに目を逸らした。どうやら、自覚はあったようだ。
「果実水は好きか? 空腹であれば、水菓子やベルゲニオンのスープを使った穀物粥もあるぞ?」
「果実水をいただきます。あの……ごめんなさい」
「お前が倒れては元も子もないからな」
「はい」
メルフィの手を引いて天幕に戻った俺は、城から持ち出してきたふかふかの長椅子に座らせる。それから、甘味を多めに入れたナムの実の果実水を作り、硝子杯に注いでメルフィエラに持たせた。
「ナムの実はガルブレイスの秋の味覚だ。美味いぞ」
「ありがとうございます……あっ、シュワシュワする」
硝子杯を受け取ったメルフィエラは、こくこくと喉を鳴らして果実水を飲み干していく。さほど顔色は悪くはなく、体調も大丈夫そうだ。俺は安堵の溜め息をつくと、隣に座った。
「もう少し飲むか?」
「いえ、大丈夫です。でも、あの……少しだけ、お腹が空きました」
食欲があるのはいいことだ。恥ずかしいのか、お腹を押さえて頬を染めている。メルフィエラのために準備した軽食を並べてもらい、好きなだけ食べるように促すと、真っ先にベルゲニオンの穀物粥を手にした。
「あ、私だけいただいてもいいのでしょうか」
「遠慮することはない。そこらの騎士も魔法師も、できる時に腹ごしらえをするのだ。魔法陣を発動させると、安定するまではお前はあの場所から動けないのだろう?」
「はい。生きている魔獣から魔力だけを吸い出す方法を知らなくて、微調整しながら少量の血を抜かなくてはなりませんので」
ひと匙すくって粥を口にしたメルフィエラが、微笑を浮かべて「美味しい」と呟く。その姿を見ていると、俺も腹が減ってきた。蒸したモニガル芋とベルゲニオンの肉団子を齧りながら、時折唸る天狼に目を向ける。
「メルフィ」
「はい?」
「お前の役に立てそうになくてすまない」
「えっ……それは、どういう……」
メルフィエラが、困惑したような顔になる。
有り余る魔力を効率よく消費するため、俺は火力の高い魔法については誰よりも得意としていた。騎士たちを巻き込まなければ、多少の誤差など何の問題にもならない。また、ここでは魔物を生け捕りにする必要がないため、高い威力の魔法で一気に滅する方が疲労も少なくていい。
今、このガルブレイスで古代魔法を使えるのは、メルフィエラと俺しかいない。こんなことならば、王城にいた頃にもっと古代魔法について学んでおくのだったと悔しくなる。魔力量が多いせいか、術者が継続して微調整しなければならない魔法は成功率が低く、あまり熱心に練習する気になれなかったのだ。
「俺は、魔力と火力は底無しだが、こういった繊細な魔法は不得手でな」
「そんなことありません。公爵様がいてくださるからこそ、私は治療に専念できます」
「お前は頼もしいな。だが、あまり根は詰めてくれるなよ。取り出した魔毒がお前に害をなすとなれば、俺は即中止する」
メルフィエラが、空になった器を両手でギュッと握る。緊張しているのか、その動きが止まった。
「メルフィエラ。この魔法陣は、お前自身に何の影響もないのだな?」
「は、はい。天狼の魔毒は、全て曇水晶に入れ込みます。ですが、血は少しずつしか抜けないので、どれくらいで正常な魔力に戻るのかは未知数なのです」
「その間ずっと詠唱しなければならないわけではあるまい。早く吸い出す血の量を把握できれば、あの装置を利用できるのだな?」
今朝方、俺はメルフィエラに貸し与えた部屋で、ベルゲニオンの死骸から魔毒を抜く実験を見ている。その時は、メルフィエラが詠唱していなくても、曇水晶内の魔力を使って魔法陣が発動していた。その時の装置が準備されているので、順調に進めば使用するつもりなのだろう。
「ふふっ、公爵様は全てお見通しなのですね。私もずっと呪文を唱え続けるのは難しいですから、ベルゲニオンの魔力を使わせてもらおうと思います」
「まあ、元凶は鳥共だからな。せいぜい役に立ってもらうとしよう」
俺はベルゲニオンの肉団子を口に放り込むと、メルフィエラも神妙な顔をして同じように肉団子を放り込んだ。見た目に反して美味い肉を提供してくれたベルゲニオンだが、狂化した挙句に俺たちを追いかけ回し、さらには天狼の仔を襲って親を激怒させた罪は償ってもらわなければならない。
「それにしても、短時間でここまで本格的な資器材が揃うなんて、マーシャルレイドではあり得ないことです。まさか染料が手に入るなんて思いもしませんでした」
「ミッドレーグもそうだが、各砦とその町には結界が不可欠でな。騎士の中には魔法に長けたものも多くいる。ここには魔法道具屋が軒を連ねている通りもあるのだぞ」
魔法道具屋と聞いたメルフィエラが、とてもいい顔になった。きっと行きたいに違いない。それに、ガレオの鍛治工房にも連れて行ってやらなければならず、この騒動が無事解決したら城下街に出向くことを思いつく。
(直に冬が来る。少し時間が取れるようになれば、各砦から魔法師を呼んでみるか)
特に春と秋は魔物が活性化して襲撃率が高くなる。騎士とは違い表舞台には立たないが、ガルブレイスの魔法師たちも猛者ぞろいの変人ばかりだ。多分、一人くらいは古代魔法に興味を持ってくれる者もいるに違いない。
それに、各砦の長たちが謁見に来る予定もある。メルフィエラが天狼の治療に成功すれば、既に難色を示してきている長を黙らせることができそうだ。俺が決めたことだと押し通すことも可能だが、メルフィエラ自身の力で認めさせることができれば、後々の禍根とはならないだろう。
身支度を整えた俺たちは、ケイオスや騎士、魔法師たちを呼んで指示の徹底を図る。要となるのはもちろんメルフィエラだ。
「さて、準備はいいか?」
「はい、準備万端です!」
「ブランシュ隊はメルフィエラにつけ。魔法師はでき得る限りの補助をせよ」
ブランシュには、メルフィエラに少しでも異変があれば止めに入るように言ってある。俺と同類であるメルフィエラは、絶対に無茶をする。それは断言できる。
俺はメルフィエラの手を取ると、少しだけ力を込めて握った。
「メルフィエラ」
「はいっ!」
「いいな、少しでも負担を感じた時は治療をやめるんだぞ。初代の盟約があるとはいえ、天狼がガルブレイスに仇をなすのであれば容赦はせん」
「わかりました」
「お前は、既にガルブレイスの一員なのだ。それに……」
俺はその場に片膝をつくと、そのままメルフィエラの手を持って額につける。
「俺は、天狼よりもお前が大事だ。それだけは、忘れてくれるなよ」