6 赤毛のあの娘(公爵視点)
「なるほど。獣狩りに興じていた者たちが、うっかり森の奥まで行き、魔獣の住処に入ってしまったのか」
その男は豪奢な金色の髪を揺らし、上質な革の寝椅子でくつろいでいた。俺の報告をひと通り聞いて頷くと、近くに寄れというように手招きする。ここはラングディアス王国の第二十九代国王、マクシム・ド・リヴァストール・ミルド・ラングディアスの天幕で、俺はメルフィエラを見送った後、狂化した魔獣の件の報告に来ていた。近寄るとろくなことがないので、俺はその手招きを無視する。
「ただの魔獣であればよかったのですが。あれはずいぶんと魔毒を溜め込んでいたようです。それでもけが人死人も出ず、俺の務めも無事果たせました」
「感謝しているよ、公爵。君がいてくれるから、僕はこうして呑気にしていられる」
「陛下、俺は当たり前のことをしたまでです」
ガルブレイスの名を受け継いだ時から、俺のすべては陛下の、王国のためにあった。それが俺に与えられた責務であり、俺が生きている限りこれからも変わらないものだ。そんな俺の返事が気に入らないのか、陛下はムッとした顔になる。
「ねえ、アリスティード」
「なんですか、陛下」
「陛下だなんてよそよそしいなぁ。昔のように『マクシム兄様』って呼んでくれてもいいんだよ?」
「断る!」
十七年前、陛下が立太子された時、俺は臣下に下り、ガルブレイス公爵家の養子として迎えられた。陛下とは実の兄弟ではあるが、俺はその時から陛下のことを兄と呼ぶことをやめたのだ。国が抱える特別な事情があっただけで、別に俺たちの間に禍根はない。しかし、けじめはつけておくべきだと思うのだが。
「やれやれ、わかったよ。この頑固者。それで公爵、その手に持っているものは何だい?」
目敏い陛下は、俺がさりげなく後ろ手に隠し持っていた籠を見つけたようだ。さっさと報告だけして戻るつもりだったが、どうやらすんなりと解放してくれる気はないらしい。
「何でもありません。陛下はお気になさらず宴を楽しまれてください」
「ふーん。そんなに僕に教えたくないんだ?」
「俺からの報告は以上です」
「いいのかなぁ? お兄ちゃんは可愛い弟のことなら何でも知ってるんだよね……例えば、赤毛のあの娘とか」
綺麗な顔に綺麗な笑みをたたえた陛下が、長椅子から立ち上がる。俺は籠を死守するため、陛下から素早く距離を取った。
「それ、君が助けた娘から貰ったものだろう?」
「陛下には関係ありません」
「なんだかいい匂いがするなぁ」
「陛下!」
素早い身のこなしで俺の背後に回った陛下が、籠の中に手を突っ込む。
「へぇ、干し肉か。なんとも美味しそうじゃないか」
「ばっ、やめろ!」
「アリスティードのけちんぼ。あ、これ、美味いな」
俺が慌てて陛下の手を掴んだ時には、既に遅かった。陛下は干し肉を咀嚼し、子供のように顔を輝かせる。俺が言えた義理ではないが、毒見はどうした毒見は⁈
「これは何の干し肉だい?」
「……はぁ、絶対に口外しないでくださいよ」
「うんうん、しないしない。お兄ちゃんは約束は守る男だ」
「スカッツビットの干し肉だそうです」
「トゲトゲ魔獣か! これは三ツ星の牛より美味しいぞ」
俺が渋々ながら干し肉の正体を告げると、陛下は益々興味を持ってしまった。三ツ星の牛とは言い過ぎ……でもないか。この干し肉は旨味成分が豊富に含まれているのか、噛めば噛むほど香ばしい味が口いっぱいに広がるのだ。王都の牧場で飼育されている食肉用の牛肉よりも、正直言って旨味が強い。
「これも『悪食令嬢』が作ったものかい?」
「メルフィエラです。本人からはそう聞いています。南の香辛料の料理を参考にしたそうです」
「なるほど。彼女の悪食は、ただの下手物趣味とは違うようだね。それで、どうだい?」
陛下が嫌な笑みを浮かべて俺を見る。これは……いつものお節介の予感がする。
「どうもこうも。陛下にはご関係のない話かと」
「関係ある話だよ! 君が関係ないただの令嬢を庇うわけがない。仲良さげに談笑していたとなればなおさらだよね」
「別に談笑など」
「マーシャルレイド伯爵家の赤毛ちゃん、えーっと、メルフィエラちゃんは、失礼ながらまだ婚約者もいないって話だし。君だっていつまで僕を待たせるんだい? あの娘ともっとよく知り合いなよ。ようやく君のお眼鏡に適った、貴重な娘なんだからさ」
「ちっ」
俺は、隠しもせず聞こえるように舌打ちをした。それでも陛下のにやにや笑いはおさまらない。誰だ、俺とメルフィエラのやり取りを覗き見た挙句、陛下に面白おかしく伝えた奴は! どうせ、陛下に取り入りたい貴族たちの仕業なのだろうが、好き勝手あれこれ言われる筋合いはない。干し肉のことについては、俺を迎えに来ていた貴族騎士の誰かだ。くそっ、見つけ出して口封じをしてやる。
「陛下、俺はこれから待機に入ります。明日以降の狩りは中止にしてください」
「はいはい、まったく君は冗談が通じないんだから。狩りは中止に。君は待機。あ、こら、アリスティード。まだ話は」
俺は呼び止める陛下を無視して天幕を出た。まったく、お節介な兄を持つと、弟は苦労する。
(だが、陛下の言う通りなのかもしれんな)
俺はメルフィエラの姿を思い浮かべる。赤く燃えるような髪をした彼女が、まさかあの悪食令嬢と噂のマーシャルレイド伯爵の娘とはな。白い頬に飛び散った魔獣の血がやけに映え、俺は何故かそれを美しいと思った。こぼれ落ちそうなくらいに大きな緑の瞳で見つめられると、妙に気分が高揚した。その華奢な身体のどこに、取り残された老夫婦を助けようとする豪胆な心があったのか。魔獣を恐れることなく、返り血を浴びてすら美しい娘に、俺は一瞬で目を奪われてしまったのだ。
「閣下」
陛下の天幕から少し離れた場所で、ケイオスが数人の部下を連れて待ち構えていた。ケイオスはガルブレイス公爵家というより、俺に忠誠を誓った騎士だ。家令の仕事までこなす有能な男で、俺は誰よりも頼りにしていた。
「バックホーンの住処は制圧済みです。狂化したのはあの一頭だけだったようですね」
「皆、ご苦労だった。念のため、陛下には明日以降の狩りを中止にしていただいた。宴が終わるまで待機に入るぞ」
「あと二日もですか……あのご令嬢は、明日以降の遊宴会にも出席しますかね?」
何か言いたげな顔のケイオスに、俺は、「こいつもか」とあきれ返る。陛下といいケイオスといい、何故そっちの方向に話を持っていくのか。他に興味のある話題はないのか、暇人共め。
「さあな」
俺は素っ気なく返す。多分、メルフィエラは出席しない。王都に戻り、そのまま領地に帰るはずだ。彼女は、俺が土産を持っていくと言ったことを本気にしてはいなかった。普通ではない出会い方をして、散々な目に遭ったばかりなのだ。きっと彼女は、俺が社交辞令を言っているのだと、そう思っていそうだ。
それよりも俺は、別れ際の彼女の様子が妙に気になっていた。あの緑の瞳に浮かんだ涙は、本物の涙に間違いない。哀しげな笑みを顔に貼り付けた彼女が、何を考えていたのか……同じような境遇にある『狂血公爵』の俺には理解できた。
「あーあ、閣下……もうこんなに食べてしまって」
ケイオスが、俺が提げていた籠の中身を覗いて残念そうな声を上げる。
「ふん。お前は気味悪がっていただろうが。魔獣を食べるのは反対ではなかったのか?」
普通の者であれば、魔獣の肉など食べたりはしないし、嫌厭する。ケイオスもご多分に漏れず、メルフィエラのことをかなり警戒していた。彼女が伯爵家の令嬢でなければ、ケイオスは速攻で排除していたかもしれない。
「それはそうですが……ご令嬢には失礼なことをしてしまったと、反省しております。思い返せば、我々も魔獣を食べ、飢えを凌ぐこともありました。偏見を持っていた自分が恥ずかしい」
殊勝にも項垂れたケイオスの言葉に、俺はふんと鼻を鳴らす。そう、俺もケイオスも、後ろからついてくる部下も、皆魔獣の肉を食べたことがあるのだ。広大なガルブレイス領には、魔物が沸いて出てくる大森林があった。エルゼニエ大森林と呼ばれる場所には、様々な魔物が棲息している。俺たちはその魔物が国中に散っていかないように、定期的に討伐する役目を担っているのだ。
長期討伐ともなると、最後の方には食料も尽き、その日の食べ物を狩らなければならない。どうしようもなくなって、最終手段として魔獣を食べるのだが……まあ、あれだ。メルフィエラ曰く『下処理』とやらをしていないせいで、だいたいにおいて体調が思わしくなくなる。満腹感を得られる反面、時間差で酷い目に遭うのだ。だから、ケイオスは魔物を嬉々として食べるというメルフィエラを疑心暗鬼の目で見ていたのだろう。
「ということで、閣下。これは私がいただきます」
もの思いに耽っていた俺の隙をつき、ケイオスが籠の中身をごそりと掴み取る。騎士としても優秀なケイオスは、その手いっぱいに干し肉を握っていた。
「おい、勝手に取るな!」
「これは成分の分析用です」
「俺は見たぞ、絶対口の中に入れた」
「ほへはわはひのふんへふ」
「ケイオス!」
「閣下、マーシャルレイド伯爵家に行く時は私もついて行きますから、あしからず」
「誰が連れて行くか!」
「閣下だけでは不安です。『狂血公爵』がいきなり訪ねてきては、きっと伯爵は腰を抜かしてしまいますよ」
なんだこの手のひらの返しようは。メルフィエラと約束したのは俺だ。絶対に、このしたり顔のお節介を連れてなど行くものか!
そうは思うものの、今までの人生の中で年頃の令嬢の家に行くなどしたこともない俺は、結局ケイオスの手を借りてマーシャルレイド家に手紙をしたためたのであった。