58 天狼と狂化と古代魔法語
私は飲み干した先から新たに注がれた穀物酒を再び口にする。これはいけない。とても病みつきになりそうな取り合わせだ。
公爵様の方を窺うと、ちょうど私と同じように鳥皮包み揚げと穀物酒を堪能しているところだった。酒杯をあけた公爵様がニヤッと笑う。
「このタレが絶妙だな」
「レーニャさんが考案したのです。実は、マニッカと山羊の乳を使っています」
「マニッカ? なるほど、この緑色はマニッカだったのか」
公爵様が、鳥皮包み揚げにタレをたっぷりつけてパクりと口に放り込む。私も同じようにタレをつけた。山羊の乳が濃厚で、少しばかり酸っぱいものの、これくらいの酸っぱさなら公爵様も大丈夫みたいだ。それに、肉団子の方に葉野菜や根菜をここぞとばかりに投入していたけれど、まったく気にならない。レーニャさんの野菜を食べさせたい執念が見事に昇華されている。
「鳥皮で包むとは面白い」
「本当は、薄く伸ばした穀物粉の生地で包んで揚げるのですが、揚げた鳥皮と合うのではないかと思いまして」
「なるほど、食文化とは奥深いものなのだな」
食べて飲んで、飲んで食べて。料理を平らげた公爵様が、少し膨れたお腹をさすりながら空の酒杯を逆さに伏せた。
「はい。知れば知るほど、やりたいことが増えていきます。私は、ガルブレイスの種類豊富な香辛料のことで頭がいっぱいです。うまく融合させることができれば、もっともっと美味しい料理を生み出せるはずなんです」
「メルフィは……研究熱心だな」
「た、食べることが好きなもので」
「ははっ、俺も好きだぞ?」
公爵様が、満足げな柔らかい表情を向けてくる。琥珀色の瞳に魔法灯の光が反射していて、満腹になってゴロゴロと喉を鳴らすドラゴンのように見えた。ふとした瞬間に見せてくれる無防備な公爵様の姿は、私の心臓にとても悪い。ドキドキして顔が熱くなるのは、お酒のせいだけではないはずだ。
(と、鳥皮の包み揚げもスープもお口に合ったみたいだし、よかった)
私は残っていたお酒を飲み干すと、公爵様に倣って酒杯を伏せた。
鳥皮の包み揚げは、外側の衣の効果である程度皮の色が隠されていたせいか、公爵様も抵抗なく食べていた。ひと口で食べられるようにと小さくしたのもよかったみたいだ。揚げた先からあっという間に食べ尽くされていて、レーニャさんも忙しいながら嬉しそうだった。噛めばカリッと揚がった衣と皮が香ばしく、中の肉団子からは肉汁が溢れ出す包み揚げのおかげで、穀物酒の消費量も増えたようだけれど。
(スープに入った野菜も皆食べてくれたから、とろとろになるまで煮込むのはありね)
レーニャさんと一緒に毒見をした時は、根野菜が少し硬い食感だったのだ。厨房長にお願いして、ずっと鍋を火にかけてもらっていたところ、野菜が口に入れるととろけてしまうくらいに柔らかくなっていた。
マーシャルレイドは寒い地方だけあってか、煮込み料理はだいたいとろとろだ。ガルブレイスでも受け入れられるか少し心配だったけれど、噛まずに飲めるというところが良かったらしい。
もちろん、魔物食を騎士たち全員が受け入れてくれているわけではない。気味悪そうな目を向けてくる人や、あからさまに避けている人もいる。強制はできないので、これから少しずつでも受け入れてもらえるようにしていくことも今後の課題になりそうだ。
夕食を終えた私たちは、何故か乾杯をしてくる陽気な騎士たちから見送られながら自室へとゆっくり歩いて戻る。滑りやすいから転ばないように、と繋いだ手に思わず力が入った。
「……公爵様、肩の具合はいかがですか?」
「きちんと固定されているぞ」
「疼いたりとかしていませんか?」
「メルフィは心配性だな」
私の心配をよそに、公爵様はあっけらかんとした顔で私の髪をくしゃりと撫ぜた。
「ガルブレイスの傷薬は改良に改良を重ねたすごい薬だからな。明日には動かせるようになっていると思うが」
「痛くなったら、すぐに教えてくださいね?」
「了解した、我が婚約者殿の心労がかさまないよう鋭意努力する」
少し戯けた公爵様が、胸に手を当ててピシッと騎士の礼をして見せる。そこで私も公爵様を真似て胸に手を当てて同じような礼を返した。
(……はぁ、格好いい)
キリッと引き締めた顔で、私を見つめてくる公爵様が、妙にキラキラと輝いているように見える。今日は四杯しかお酒を飲んでいないので、決して酔っているわけではないと思いたい(公爵様の格好良さには酔っているかもしれないけれど)。
「なかなか様になっているな」
「ふふっ、そうですか? ブランシュ隊の方々がとても格好よくて、私もやってみたいなって思っていたんです」
お互い顔を見合わせて笑ったところで、回廊の向こうからガシャガシャと騒がしい金属音が聴こえてきた。
やってきたのは、巡回中の騎士だ。
「閣下、ご報告が」
駆け寄ってきた騎士が、私の方に視線を向ける。私がいては報告できないのかもしれないので、「先に戻ります」と言いかけた私を制し、公爵様が右手で私の肩を抱き寄せた。
「どうした。ここで構わん、手短に話せ」
公爵様が促すと、騎士がこれまた見事な直立不動の姿勢になった。
「はっ! 実は、天狼の様子が少しおかしいとの報告が来まして。先にケイオス補佐が向かっております」
「天狼が?」
その報告に、私の心臓がどくりと跳ねる。まさか、私が精製した臭いアレが悪かったのだろうか。気が気ではなくなり、私は不安から公爵様の右腕を握った。
すると騎士が、とんでもないことを付け加える。
「それがどうやら、狂化の傾向があるようでして」
公爵様の身体が瞬時に強張った。私もまさかという思いで騎士に目を移す。
「なっ⁈ それで、暴れているのか?」
「暴れてはいませんが、目覚めた時は苦しそうにしています」
「わかった、すぐに向かう。メルフィ、お前は部屋に――」
公爵様が私を見下ろしてきたので、私は強い意思を込めた目で見返した。
「私も一緒に行きます」
「しかし」
「もし初期段階であれば、なんとかできるかもしれません。まだ開発途中ですが、あの魔法陣を使えば」
私は、すがるような思いで公爵様を見た。ベルゲニオンの死骸からも、少しずつではあるけれど魔毒を抜き出すことに成功している。処置が早ければ助かるかもしれない。
「きちんと指示に従いますから、どうかお願いします」
◇
「きゅうぅぅん」
母親の側でそわそわとしていた天狼の仔が、不安そうな鳴き声を上げる。
横たわる天狼の様子は、私の目にも少し変に映った。「変に見える」と言っても、具体的にどこがどう変なのか上手く説明できない。ただ、私の感覚がそう訴えてきていた。
「疲弊しているな」
「何といいますか、あの、疲れているだけではなくて、どこか普通では無いような気がします」
天狼は白い毛並みに、宝石のような真っ赤な目を持っている。仔の目はとても澄んだ赤色だけれど、母親のほうの目はどこかくすんでいるというか、僅かな濁りがどうしても気になった。
「まさか、本当に狂化しているのではあるまいな」
公爵様が天狼の側に歩み寄る。
狂化した魔物は、魔毒を含むことにより、その血が濁った色になることが多い。それが顕著に現れるのが目であり、秋の遊宴会で私を襲ったバックホーンも、黄色く濁った目をしていたことを思い出す。
私は力なく横たわる天狼に少しだけ近寄ると、一番怪我がひどい右後ろ脚を観察した。天狼の仔が擦り寄ってきたので、私は安心させようとしゃがんで手を差し出す。すると、天狼の仔がぐいぐいと頭を押し付けてきた。
(傷口から毒が回った? でも、腫れや化膿の兆候はないわ)
天狼の母親の白い毛にこびりついてしまった血液は、固まっているため当然赤黒く見える。傷口に近い部分の血が、どこか濁っているような気がして、私は試しにと、小さな声で魔力を吸い出すための呪文を古代魔法語で呟く。
『ルエ・リット・アルニエール・オ・ドナ・バルミルエ・スティリス……』
空の曇水晶は持ち合わせていないので、少しだけと思いながら手をかざす。かつてお母様がやっていたように、指先をつまむような仕草を繰り返しながら、魔力と血を引き寄せた。すると、まだじくじくと血が滲む傷口から、赤褐色に光る血がじわりとに染み出してきた。
「メルフィ、何を」
騎士と話し込んでいた公爵様が、私がしている事に気づいて振り返る。
「大丈夫なのか? 曇水晶もなしにできるとは聞いていないが」
「少しであれば可能です。見てください、公爵様。傷口から滲んでいる血が暗く澱んでいます。やはり、狂化する一歩手前かもしれません」
ゆっくりと私の手の中に集まってきた天狼の魔力と血を見ると、公爵様がハッとしたように目を見開いて近寄ってきた。
詠唱を続けると、手の中で魔力と血が丸い形状になった。傷口から直接吸い出した血は、魔力の影響もあり普通は明るく輝くはずなのに。魔力そのものが濁っていることは一目瞭然だった。
「メルフィ、直に触れると危険だ」
「私なら大丈夫です。それよりこれを」
私は魔力と血でできた球体を公爵様に見せる。公爵様が、私の手の中の黒い液体と天狼を見比べた。
「これは、今抜き出したばかりなんだな?」
「はい、どうしても気になって。そうしたら、傷口からこんなに黒々とした血が」
「グルル……」
私の魔法が不快だったのだろうか。ぐったりしていたはずの天狼が、急に体を起こしてこちらを見つめてきた。
「メルフィ!」
公爵様の鋭い声が飛び、私は一瞬にして公爵様の懐の中にいた。公爵様は天狼から目を離さずに、ジリジリと距離を取る。
「これ以上は危険だ」
「公爵様、待ってください。いきなりごめんなさい。あなたに危害を加えるつもりはないの。ただあなたの身体の中にある悪いものを取り除きたいだけだから」
通じるかどうかわからないけれど、敵意がないことを示すために私は必死に語りかける。訓練された狼が人語を解すようになるからといって、野生の天狼が人語を解すのかは不明だ。しかもエルゼニエ大森林の奥深くで暮らしているのだから、人と遭遇したことがあるかどうかも怪しい。私は咄嗟に思いつき、古代魔法語に切り替えてみる。
『私、あなた、癒す。悪い魔法、毒、討ち滅ぼす』
古代魔法語は、かつて精霊が教えてくれた言葉だと言われている。私はお目にかかった事はないけれど、エルゼニエ大森林の奥深くには、精霊と呼ばれる不思議な存在がいてもおかしくはない。もしかしたら、精霊の言葉であれば通じるのではないかと考えた私は、ひたすら敵意がないことを伝えようと試みた。
「きゃう?」
私の側にいた天狼の仔が、首を傾げるような仕草をする。
『あなた、助ける。毒、吸い出す』
「くぅ、くわん!」
『私、あなた、癒す』
「きゃう、きゃう!」
意味が通じているのだろうか。私の古代魔法語に、天狼の仔が相槌を打つように鳴き始めた。
「なるほど……古代魔法語か」
公爵様が思案するように私と天狼を見比べると、琥珀色の目を金色に輝かせた。そして、なおも唸っている天狼に対し、公爵様はよく通る声で詩のような古代魔法語を話し始めた。
『我らは汝を害するつもりはない。おとなしく我が番の治療を受け、速やかに森へ帰るがいい』
流石は公爵様だ。惚れ惚れするほど美しい発音に、私もついつい聴き入ってしまった。
『我は当代の長なり。初代の盟約を違えるに非ず』
すると、低い声で唸りながらこちらを威嚇していた天狼が、ピタリとおとなしくなる。これは、意味が通じたと思っても良いのだろうか。
『私、あなた、癒す』
私がもう一度同じ言葉を繰り返すと、天狼はふいっとそっぽを向いて静かに伏せた。