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56 カリッと揚がった包み揚げ3[食材:ベルゲニオン]

(大変、もう夕暮れだなんて)


 私は城の西の回廊を小走りに駆け抜け、南翼の自室へと急ぐ。赤い西陽が差してきていて、もう間も無く陽が落ちてしまうだろう。


 ベルゲニオンに夢中になるあまり、すっかり遅くなってしまった。本当は厨房にまでは行かないつもりだったのだけれど、大量のベルゲニオンを捌き終えた私に、レーニャさんや厨房の皆さんが、是非厨房を覗いて行ってほしいと言ってくれたのだ。レーニャさんと一緒に考えていた新しい料理のこともあり、私は少しだけ手伝うことにした。そうしたら、夢中になるあまり、こんなに遅くなってしまったというわけだ。


(いくらなんでもお目覚めよね?)


 本当はもっと早く公爵様のところに戻るつもりだったので、自分の趣味にかまけて放置してしまったと言う罪悪感がある。公爵様は眠る前、私に「ここにいてほしい」と仰っていたのに。私は自室の扉の方から入ると、汗や色々な液体で汚れてしまったドレスを脱ぎ、白いドレスシャツと紺色のスカートに着替えた。最後に鏡の前でさっと髪を整えた私は、公爵様の様子を確認しようと寝室の奥の扉を小さく叩く。


「公爵様、私です。メルフィエラです」


 返事がないので、扉を少しだけ開けて中の様子を窺う。魔法灯はついておらず、中は(とばり)が降りているせいで薄暗い。夕陽が落ちる前なので、帳の外が少しだけ赤くなっていた。


(まだお眠りなのかしら?)


 天蓋付きの寝台には、人のような塊が見える。私は足音を忍ばせると、そっと寝台に近寄った。寝台の上のこんもりとした山は、どうやら公爵様のようだ。まだ眠っているらしく、被った上掛けが僅かに上下を繰り返していた。私が部屋を出てからずっと、一度も起きてはいないのだろうか。用意していた水差しの水も手をつけた形跡がない。


「公爵様?」


 私は寝台の側に立つと、小さな声で呼びかける。壁にかかった刻標(ときしるべ)は、夕方五刻半になろうかとしていた。傷の手当てをしたのはお昼前で、公爵様はその後お昼をも食べずに眠ってしまった。もう起こしても大丈夫な時刻である。


「公爵様、もうすぐ陽が沈んでしまいますよ?」


 驚かせないように、私は優しく公爵様に呼びかける。でも、上掛けから覗く灰色の頭が動く気配はない。

 水差しの横に準備していた手巾がすっかり乾いていたので、私は手水鉢に手巾を浸してギュッと水を絞る。


「公爵様、もうそろそろお起きになりませんと、夜眠れなくなってしまいますよ」


 もう少し大きな声で呼びかけても、公爵様の身体はピクリとも動かない。よほど深く眠っているのだろうか。そこで私は、さらに声を大きくしてみることにした。


「公爵様、もうすぐ食堂が開く時刻です。お腹もすかれたでしょう。私と一緒に、美味しい料理を食べに行きませんか?」


 すると上掛けの中で、公爵様がゆっくりと寝返りをうった。私の方に顔が向いたのはいいのだけれど、閉じられた目は開く事はなく、濃い灰色のまつ毛が頬に影を落としている。


(すごく長いまつ毛……)


 眠る公爵様は、大人だというのにどこかあどけないような、子供のような顔をしていた。日頃は深い皺が寄りがちな眉間も、今は平らになっている。端正な顔立ちだから普段は恥ずかしくて直視できないけれど、寝ているのであれば心置きなく堪能できる。

 本人の知らないところでジロジロ見るなんて少し罪悪感はある。でも、寝顔にすら格好良さが現れるなんて、さすがは私の公爵様だ。


(ふふっ、公爵様は、意外とお寝坊さんなのですね)


 声をかけるだけでは目覚めないと踏んだ私は、公爵様の肩にそっと手で触れる。


「公爵様、起きてください」


 軽く揺すると、公爵様がぎゅっと丸くなって抵抗してきた。その仕草がなんだか大きな猫科の魔獣のようで微笑ましい。私は悪いとわかっていながらも、好奇心に負けてしまい、公爵様の鼻先を指でくすぐった。


「私も厨房で料理を作るのを手伝ったんです。とっても滋養に良さそうなスープができました。レーニャさんと考えた、変わりダネもあるんですよ? 起きて、食べにいきましょう」


 鼻先をくすぐられた公爵様が、少し眉を寄せる。なかなかしぶといと思ったその時、公爵様が何の前触れもなく、私の指をパクンと口の中に入れてきた。


「ひゃあっ!」


 びっくりして手を引いた私は、思わず短い叫び声をあげてしまった。


「も、もう! 私の指は食べ物ではありませんっ」


 私が公爵様の口から指を引き抜くと同時に、どうやら完全に目が覚めていたらしい公爵様が、素早い動きで起き上がる。そして、慌てふためく私を見てニヤリと笑った。そのいたずらが成功したような笑みに、私はすかさず抗議する。


「もう、本当に、公爵様ったら! 私を揶揄っても、何も面白くはありませんからね!」

「はははっ、すまない。こんなに優しく起こされたことはなかったのでな。ついやり過ぎてしまった」


 公爵様はぐっと大きく伸びをすると、刻標を見て驚いたような顔をした。(とばり)の向こうは、まさに陽が落ちる瞬間なのか、隙間からは眩しいくらいの赤い陽が見える。


「もう夕暮れなのか」

「はい、あれからしっかり六刻ほど経っています」

「まさかこんな時刻まで寝てしまうとは」


 公爵様がガシガシと頭をかいた。私は寝台を離れると、水差しからグラスに水を注いで公爵様に手渡した。


「いつお目覚めになっておられたのですか?」


 公爵様はその水をぐっと飲み干すと、「メルフィが俺の部屋に入って来た直後くらいだな……知らず知らずのうちに、疲れが溜まっていたらしい」としみじみと呟いた。それから無造作に灰色の髪をかき上げ、指をパチンと弾いて部屋の四隅の魔法灯を灯す。薄暗かった部屋の中を、温かい色の魔法の光が照らし出した。


 私は空のグラスにもう少し水を注ぎ足すと、公爵様に濡れた手巾を手渡す。


「疲れているに決まっています。だって、私と出会った遊宴会の時から、公爵様はずっと働きどおしですから。少しくらい休んだって、誰も文句を言う人なんていません」


 ケイオスさんからは、むしろ感謝をされたくらいだ。「部下にはしっかり休みを取らせるくせに、ご自分のことはいつも後回しにするんです」と困った顔で教えてくれた。騎士は身体が資本なので、疲れを溜め込みすぎて倒れてしまっては元も子もない。手巾で顔を拭った公爵様は、幾分スッキリしたような様子だ。そこで私は、公爵様の後ろ髪がはねていることに気づいた。一房だけ、ぴょこんと飛び出している。

 私は思わず、寝癖がついた公爵様の髪に手を伸ばす。


「ふふふ、後ろの方に少し寝癖がついていますよ」


 髪質が少し硬めだからか、撫でつけてもすぐに癖のついた髪が飛び出してきた。


「か、髪を濡らせば元に戻る。それより、夕食の時刻なのだろう? 支度を整えて食べに行くか」


 恥ずかしそうな顔をした公爵様が、寝台から降りようとしてその動作を止めた。


「メルフィ、肩の包帯は何とかできないか?」


 公爵様の左肩は、ケイオスさんが包帯でしっかりと固定しているため、とても動かしにくそうだ。でもそれは早く怪我を治すためなので、私にはどうにもできない。


「今日はそのままで我慢してください。明日の傷の具合が良ければ、ケイオスさんが何とかしてくれると思います」


 本当は、私に怪我の手当ができたらいいのだけれど、私は包帯の巻き方ひとつ知らない。ガルブレイスの公爵夫人たるもの、傷の手当や治療などできて当たり前にならなければ。


 最初に出会った時に遊宴会の天幕で見たとおり、公爵様は素晴らしい筋肉をしていた。身体を動かす度に、しなやかな筋肉が浮き上がる。食べることに適した肉は、筋肉と脂肪がほどよく混ざり合っているものだ。公爵様の筋肉は、残念ながら食肉には向かないけれど。

 肩の傷を気遣って、少しゆったりめの服を選ぶ。公爵様の衣装棚の中は、黒っぽい服ばかりだった。曰く、「黒は汚れても気にならない」だそうで。私も完全に同意すると、嬉しそうな顔をした公爵様が、今度お揃いの服を作ってくださることになった。できれば、上下に分かれた服がいい。


「これはもう付けなくていいだろう」


 私も手伝って、何とか服に袖を通すことができた公爵様が、クラヴァットを前に私を見る。公爵様の髪色に合わせて、銀糸で縫い取られたものだけれど、私は男性の身嗜みを手伝った経験は初めてだ。


「すごく素敵だと思うのですが、教えていただけたら頑張って結んでみます」


 どのようにしたらお洒落な結び目になるのかさっぱりわからない。私は、公爵様に習いながらクラヴァットを結ぶことにした。マーシャルレイドでは執事のヘルマンが、毎朝お父様にしていた姿を思い出す。


「そうだ、その長い方を引っ張りながら短い方をここから通して……う、む。少しズレたか」


 公爵様から一番簡単だという結び目を習ったけれど、結んでみても全然うまくいかない。すると公爵様は、最初に大きな輪っかを作って、そこで結び目を作るように指示してくれた。


「まずこの布を縦に四つに折るだろう? それからもう半分に折って……いいぞ、その真ん中を持って、さらに半分の位置で輪っかになるようにして小さく結び目を作って、その輪っかを俺の首に通してくれ」


 私は公爵様に言われるままに、輪っかを作って公爵様の頭にくぐらせた。指示通りに結び目を持ち、短い方の布をそろそろと引っ張っていく。首の隙間を調整したら、今度は長い方の布で結び目を隠すように巻き、一番最後に上から覆い被せて形を整えた。


「うむ、なかなかに綺麗な仕上がりだぞ」

「公爵様の教え方が上手なのです」

「そうだ、メルフィ。騎士が他人にクラヴァットを結ぶ行為を許す意味を知っているか?」


 いきなり問われたけれど、私には公爵様が何を言っているのかいまいちピンとこなかった。


(クラヴァットを結ぶ行為? 許すとは、何を?)


 教えてもらいたくて、私は公爵様を見上げて首を傾げる。すると公爵様が、うっと短く声を詰まらせて咳払いをした。


「クラヴァットを結ぶことを許したら、何の意味があるのですか?」

「……く、首は急所だ。騎士が、その急所を相手に無防備に晒すことを、ゆ、許す意味は、し……」

「し?」

「し、信頼だ。その者が、自分を絶対に裏切りはしないという、絶対の信頼があるという意味だ!」


 そう力説した公爵様の顔が、真っ赤になっている。驚きの方が大きくてぼう然としてしまった私を、公爵様がちらりと見下ろしてくる。


「私、嬉しいです」

「嬉しいのか?」


 半信半疑という風に聞いてきた公爵様に、私は声を張り上げる。


「嬉しいに決まってます! 公爵様にそこまで信頼していただけるなんて……私、私は何を差し出せばいいのでしょう。と、とりあえず、ベルゲニオンの下処理で満杯になった曇水晶は公爵様に差し上げるとして、今日の夕食? 他には、他には……」


 持参金などなく、他に何も思いつかなくて焦る私の肩に、公爵様が大きな手を置いてきた。公爵様の優しい琥珀色の目の中に、私の顔が映っている。


「別に物でなくてもいいのだぞ。そうだな……お前の、こ、ここっ、心とかをだな!」

「コココココロ? 聞いたことがありませんっ、それは、どのような魔物ですか?!」


 さすがガルブレイスのエルゼニエ大森林、不思議な響きの聞いたこともない名前の魔物がいるなんて。どうしても知りたくなった私が公爵様の手をギュッと掴んで詰め寄ると、公爵様は「これだからっ、俺は、三点などと……」という意味不明の言葉を呟いて項垂れてしまった。




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― 新着の感想 ―
[一言] ここでヘタれる公爵様なればこそ、我ら領民は愛してやまぬのですぞ!やーい3点3てんー!
[良い点] まだ、実食には届きませんでしたね。ダメダメ公爵とド天然令嬢ならではの、進まない恋、カワイイです。 肝心なところでつっかえるなんて、千点中3点どころか、1点(^◇^;) [一言] 次回も楽…
[一言] 公爵様、ドンマイ (o・_・)ノ”(ノ_<。) 更新ありがとうございます。 ベルゲニオンのスープと鶏皮団子のお味はどんなでしょ⁈ 次回も楽しみです(o^^o)
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