53 古代魔法兵器?
結局公爵様に手を引かれたまま、私は騎士たちがいる場所まで来てしまった。取り囲んでいる騎士たちの隙間から覗くと、三十フォルン先の赤く光る魔法陣の中に、低い姿勢のままぐったりとしている天狼が確認できる。
「わかるか、あれはお前の母親だろう?」
公爵様が、腕の中の天狼の仔に話しかける。でも天狼の仔は、まるで興味がないというように、くわっと欠伸をした。結界に加えて嫌な刺激臭に阻まれているので、母親の匂いがわからないのかもしれない。特に反応を示さない天狼の仔を、公爵様は頭上より高い位置に持ち上げる。
「ほら、どうだ?」
「きゃうん!」
匂いではわからなかったようだけれど、姿を見せた途端に、天狼の仔が公爵様の手の中でそわそわと動き始める。そしてすぐに、切ない鳴き声をあげた。
「きゅん、きゅーん、きゅーん」
一転してジタバタともがき出した天狼の仔の鳴き声に、騎士たちが何事かと振り返る。その声は、真剣な顔で魔法を紡ぐケイオスさんにも届いたようだ。視線をこちらに向けたケイオスさんが、驚いたような顔をした。
「閣下……と、メルフィエラ様?!」
「ケイオス、様子はどうだ?」
公爵様が声をかけると、取り囲んでいた騎士たちが場所を譲るようにして避けてくれた。どうやら、私が渡した曇水晶の魔法陣は、ケイオスさんが発動させていたらしい。赤い曇水晶を手にし、天狼に向けて魔力で描いた捕獲用の魔法陣を展開させている。
「ほう。お前も存外、古代魔法を使えるではないか」
「それはメル……つけ焼き刃ですが、師匠の教え方がよろしいもので。なんとか臭気は抑えられていますが、あの天狼は多分、気絶していると思われます」
「師匠、な」
「三重結界なんて、まるで古の対魔竜王戦で使用されたという古代魔法兵器ですよ」
ケイオスさんと公爵様が、意味ありげな顔で私の方をチラッと見てきた。これは、褒められていると思ってもいいのだろうか。捕獲用といっても、防御の魔法陣を応用したものだから、中にいる天狼が傷つくことはない。格子状に張り巡らされた結界は、ただただ『結界の中にいる対象を守る』ことを特化させているだけなのに。
「ところで。辛そうだな、ケイオス」
「対魔竜王戦の魔法兵器ですからね。私ごときは維持するだけで精一杯ですっ」
曇水晶を利用しているとはいえ、古代魔法語に明るいわけではないケイオスさんには、維持し続けることが負担になっているようだ。曇水晶の中にあるロワイヤムードラーの魔力をうまく還元できていないので、自分の魔力で発動させている可能性があった。現代魔法であれば負担にならなかったかもしれないと思い至った私は、ケイオスさんに対して申し訳なくなる。私の古代魔法なんてそんな大それた魔法ではないし、想像に任せて構築したものなのでさぞかし扱いづらいことだろう。思わずケイオスさんに手を伸ばした私に、公爵様がそっと耳打ちをしてきた。
「ケイオスに任せておけ。あいつはそんなにやわじゃない。それより、俺にしてくれたように、臭いを中和させる事はできそうか?」
よく見ると、目を閉じた天狼の鼻先には、魔力を含んだ黄緑色の液体がべっとりと付着している。それは、公爵様が鼻先で破裂させた曇水晶が見事に命中したことを物語っていた。
「多分できない事はないかと。公爵様、先ほどの油紙をお持ちですか?」
「これか?」
公爵様がもがく天狼の仔を小脇に抱え直し、私が額に貼り付けた油紙を懐から取り出す。
「それを天狼に貼り付けることができれば。魔法陣なしでは、残りの魔力でどこまでできるかわかりません。でも、できることはやってみます」
私がそう説明すると、公爵様は手に持っていた油紙をまじまじと見た。私も曇水晶を取り出して確認する。残された魔力はそう多くない。
「本当はあいつを洗ってからの方がいいような気もしないでもないが、嗅覚の鋭い魔獣にあの臭いは辛かろう。この距離でいけそうか?」
こんなに離れた場所から魔法陣を発動させた事はないので、なんともいえない。
「できればあと十フォルンほど近寄りたいです」
公爵様は、「よし、ならばやるか」と呟くと、まだもがいている天狼の仔の頭を優しく撫でた。
「おとなしくしていろよ?」
「きゃう!」
「さあ、いい子だ。お前もこんな状態の母親を助けたいだろう」
公爵様の瞳に、金色に輝きが灯る。あの、えも言われないほどに美しい魔眼が発動し、公爵様が天狼の仔と目を合わせた。
「俺たちが何とかしてやる。いいな?」
公爵様の優しい声音と力強い魔力に、天狼の仔がおとなしくなった。私もついつい見惚れてしまいそうになり、慌てて視線を逸らす。惜しい。こんな時でなければ、公爵様の魔眼を心ゆくまで堪能できたのに。
「くわぅ……」
「よし、先に臭いを消すため、結界を解除する。全員、個別に障壁を展開せよ! 解除した途端に喰い殺されないよう、油断はするな」
「結界を解除ですか? しかし、メルフィエラ様が」
ケイオスさんが難色を示したものの、近くにいた四人の騎士たちがすぐに私の側に来てくれた。私が見上げると、騎士たちがニッと笑って「我々がお守りします!」と頼もしい言葉をくれる。
公爵様も彼らに頷き返すと、
「気を抜くなよ、あの臭いがくるぞ。ケイオス、魔法を解除せよ!」
と指示を出した。すると、今まで展開されていた魔法の格子がフッと消える。それと共に、抑え込まれていたスクリムウーウッドの刺激臭が、一気に拡散した。
「ぐわっ」
「目っ、目が染みる……」
「ゴホッ、ゴホッ」
「鼻が、曲がる」
騎士たちが悶え苦しむ様子に、私は早く楽にしてあげなければと、気合いで匂いを我慢した。目がチカチカして、涙が滲み出す。公爵様が手招きをしてきたので、私は十フォルンほど前に進み、天狼に向かって曇水晶を掲げる。
「いつでもどうぞ!」
まず、公爵様が天狼の仔を地面に放す。すぐにでも駆け寄りたい様子を見せていたけれど、匂いが嫌なのか、哀しそうに鼻を鳴らしてウロウロし始めた。
「か、完全に伸びているな……」
天狼の様子を窺っていた公爵様が、その鼻先に近寄り、素早い動きで油紙の魔法陣を貼り付けてくれた……と思ったら、慌てて私のほうに駆け戻ってくる。
「やはり直接はきつい!」
二十フォルンほど離れていると言うのに、その匂いは益々きつくなるばかりだ。騎士たちもずっと咳き込んだりしていて、側で守ってくれている騎士も顔をしかめていた。私はこの作戦を立案した張本人だ。責任を持ってなんとかしなければ、という一心で呪文を唱える。
(やっぱり、効果を増幅させたのがいけなかったのかも……きっと、魔法が変な風に発動してしまったのね)
匂いを魔法で増幅させているとはいえ、未成熟のスクリムウーウッドを食べた公爵様たちは、よほどの飢餓か、生命の危機に瀕していたのだろう。天狼すらも、あまりの臭さに気絶してしまうほどだというのに。それとも、気絶したのには何か別の要因があるのか。ぐったりと閉じられた目はそのままだ。かろうじて呼吸に合わせて身体が動いているので、生きていることはわかるけれど。
繰り返し繰り返し呪文を紡いでいくと、ようやく鼻に付着していた黄緑色が薄まってきた。こんなに長く魔法を使った事はなかったので、私の息はだんだんと荒くなっていく。
(大丈夫やればできる。私だって、役に立てるのだから)
天狼の汚れた毛並みが、ついに白色になってきた頃、私はようやく呪文を唱えるのをやめた。クンクンと鼻で呼吸をしてみるけれど、あの刺激的な匂いはもうどこにもない。掲げていた曇水晶の中身も、ほぼなくなっている。
「メルフィ、よくやってくれた」
一番近くで天狼の様子を見ていた公爵様が、私の方に戻ってくる。
「これで目が覚めてくれるといいのですけれど」
「ああ、そうだな」
何故か公爵様についてきた天狼の仔が、「くぅん」と鳴いた。
「どうした、お前の鼻にはまだきついか?」
「くぅ……」
「天狼ちゃん、あなたの母親はきっともう大丈夫よ」
先ほどから切なくなるような声で鳴いていた天狼の仔は、公爵様と私を見上げて「きゃん!」と一声鳴くと、ぐったりとした天狼の方に一目散に駆け寄って行った。そして目を覚まさせようとしているのか、しきりと鼻や口元を舐め始める。
「目覚めれば、これで一安心だな」
「でも、このままここに放置しておいて大丈夫なのですか?」
「近くで見たが、かなりあちこち怪我をしている。大丈夫とは言い難いが、どうかそのまま森へ還ってほしいものだ」
公爵様は難しい顔をして天狼を観察している。鼻先以外を見ると、白い毛皮のあちこちに血液が固まり絡まっている箇所があった。大きな傷はないみたいだけど、ベルゲニオンに襲われたのか、細かな傷がたくさんついている。特に右の後脚傷など、かなりの広範囲に赤黒い血がこびりついていた。
「気絶しているうちに、誰か手当てをしてやれ」
公爵様はどうやら、天狼の怪我の手当てをしてあげるつもりのようだ。
「では、飼育員を呼びましょう。警戒班を残し、各班は事後処理を。上空のベルゲニオンが片付き次第、臨時的に魔法障壁を張り替えます」
ケイオスさんの指示に、騎士たちもこの場に残る者以外は、そこら中に落ちているベルゲニオンを片付け始めた。あれだけ大量に空を舞っていたベルゲニオンも、ミュランさん率いる騎竜部隊の騎士たちがほとんど蹴散らしてくれたようだ。
炎鷲から容赦なく鷲掴みにされてどこかへ連れて行かれるベルゲニオンに対し、天狼の扱いはかなり丁重だ。天狼はガルブレイス公爵家にとって守り神だと言っていたし、やはり大切な存在なのだろう。飼育員たちが到着すると、天狼の身体を丁寧に診ては、毛を水で洗って軟膏のような薬をつけていく。その過程を眺めていた私は、公爵様も怪我を負っていたことを思い出す。
「公爵様。公爵様にもお怪我があるのですから、しっかり治療を受けてくださいね?」
すると私と同じように作業を見ていた公爵様が、しまったと言うような顔になった。そして、ケイオスさんの方をチラリと見る。もちろん私は皆に聞こえるように言ったので、ケイオスさんが器用に片眉をクイッと上げてこちらにやってきてくれた。
「メルフィエラ様、閣下にもお怪我があるのですか?」
「はい。左肩のところから血が流れています。あれは絶対に返り血ではありません」
私の話を聞いたケイオスさんは、公爵様に無言で歩み寄ると、その左肩を容赦なくがしっと握った。
「つうっ……ケイオスいきなり何をする!」
「閣下、この傷はいったいどうしたのですか?」
「ただのかすり傷だ。それほど痛くは……こらっ、力を込めるな!」
「メルフィエラ様、ご報告ありがとうございます」
にっこりと微笑んだケイオスさんからお礼を言われたけれど、雰囲気が少し怖い。公爵様も顔を引きつらせていて、私は報告してはいけない人に報告してしまったのではないかと、少しばかり心配になる。
(でもうやむやにしてしまったら、また公爵様は怪我なんか放置してしまうのだから)
私は、「まだやることがある!」と主張し、ケイオスさんと言い合う公爵様の右手をギュッと掴む。
「こうしゃ……アリスティード様、先に治療をしましょう? 私もご一緒します」
勢いよく私を見下ろした公爵様が、こくりと無言で頷いた。