52 新たな約束
炎鷲から放り出されるようにして地面に伏せた公爵様の姿に、私の背筋に冷たいものが走った。むくりと身体を起こした公爵様が、まるで痛みを我慢するかのように顔をしかめている。私は曇水晶を両手で握りしめると、不安な気持ちを押しころして一歩を踏み出した。
この曇水晶には、芳香剤として使用していた熟れたスクリムウーウッドの魔力が入っている。実は、ケイオスさんのところに未成熟のスクリムウーウッドの匂い入り曇水晶を持っていった時に、その効果を中和させる魔法陣を用意しておいてほしいとお願いされていたのだ。
炎鷲に乗って待機していたケイオスさんが、わざわざ降りて来てくれたことにも驚いたけれど、まさか本当に私の提案を受け入れてくれるとは思わなかった。
「なるほど、そのえげつない臭いがする液体を、天狼の鼻先で爆発させるというのですね」
「はい、嗅覚がすごくいいはずだと聞いています。きっと、傷つけることなく、天狼の気を削げるのではないかと。防御の魔法陣も準備しました」
渡した黄緑色の液体の入った曇水晶は三つ。後の二つのロワイヤムードラーの赤い曇水晶には、身を守るための古代魔法語を有りったけ描いた。ケイオスさんは、黄緑色の曇水晶を手に取る。どれも小型のものだけれど、素手で触りたくないほどの刺激臭が漂っている。ケイオスさんはその匂いに顔をしかめると、空を見上げた。魔法障壁の向こう側では、ベルゲニオンと騎士たちの激しい攻防戦が繰り広げられている。
「ケイオス補佐、聞けば、姫様の魔法陣でベルゲニオンを撃退したとか。ここは、姫様のお力をお借りしましょう」
思案するケイオスさんに、ブランシュ隊長が後押しをしてくれる。
「姫様の魔法陣の威力は直に見ましたからわかりますよ。まったく、お二方ともつくづく規格外の類友なんですから。閣下の事ですから、こんなものを渡したら、嬉々として相打ち上等な手段を使うんじゃないですかね」
どこか諦めたような物言いのケイオスさんだったけれど、決断した後の行動は早かった。すぐさま小型の騎竜で曇水晶を届ける手筈を整えてくれ、ブランシュ隊長とリリアンさんがその任を受けてくれた。
そこで私はケイオスさんから、「閣下がその匂いを全身にかぶることを想定して、中和薬を用意しておいてほしい」と頼まれたのだ。でも、薬といっても何もない。だから私は、自分の部屋に設置していたあの芳香剤を利用して、即席で魔法陣を構築し、消臭薬を作ったという次第だ。
私は、草まみれになって驚いたようにこちらを見ている公爵様に向けて、曇水晶の消臭薬をかざす。本当に捨て身覚悟で仕掛けるなんて、ご自分のことをちっとも大事にしていない。せっかく私と一緒に生きる意味を探すと仰って下さったのに。
(でも、その原因を作ったのは私……)
私は自分が公爵様の役に立つどころか、むしろその命を危険にさらしてしまっているのではないかと思い、そんな自分に腹が立って腹が立って仕方がなかった。ケイオスさんやミュランさんのように戦えたら、公爵様が傷つかなくてもすむのだろうか。もっと賢くて、力があれば。きちんと魔法の勉強をして、完璧な魔法陣を構築しなければ。考えれば考えるほど悔しくなる。鼻がツンとして目に涙が滲んできたけれど、これはきっとスクリムウーウッドの刺激臭のせいだ。
私は、天狼のところに戻ろうとする公爵様の額に、魔法陣を描いた油紙を貼り付ける。公爵様が戸惑っていることがわかっていたけれど、私は集中して古代魔法語の呪文を唱え続けた。曇水晶が私の魔力に反応して輝きを強くする。それに合わせて、私の髪も燃えるように真っ赤に光り始めた。
「メルフィエラ、泣かないでくれ。お前と約束をしていたというのに、すまなかった」
公爵様の謝罪に、私はすんと鼻をすすった。痺れるような臭いが収まってきて、代わりに甘い香りが漂い始めると、私は仕上げに公爵様の身体に曇水晶の中身を振りかける。顔を覆う油紙の隙間から、公爵様の気まずそうな顔が覗いていた。
「違うんです。私の不甲斐なさが悔しくて。あんなつけ焼き刃の防御の魔法陣なんかで、公爵様をお守りできるなんて思っていた私のせいなんです。ごめんなさい」
「防御の魔法陣? メルフィ、一体何を言っているのだ?」
公爵様が立ち上がり、油紙を額から外す。困惑したようにこちらを窺ってきた公爵様の腰の網には、黄緑色の曇水晶と赤い曇水晶がひとつずつ入っていた。
「防御の魔法陣が効かなかったのですよね? それで、あの酷い匂いをかぶってしまったのでしょう?」
すると、公爵様は腰に下げていた網から、赤い曇水晶を取り出した。魔法陣を食い入るように見つめ、それからハッとしたような顔になってこちらを見る。
「そういうことだったのか! 俺をあの臭いから守るためにこれがあったのだな? あまりに強い魔法陣だったから、てっきり城塞全体に使うものだと……すまない、お前の気持ちを無下にしてしまった」
「使っておられないのですか?」
「いや、こんな高度な魔法陣を、俺のためだけに使えんぞ?」
どうやら、短い伝言しか残せない伝令蜂では、私が意図することが伝わらなかったようだ。公爵様自身に使ってほしかった防御の魔法陣を、公爵様は城塞に使うつもりだったなんて。
「ごめんなさいっ、きちんと伝えられなくて」
「いや、お前のせいではないっ」
「ですが、その左肩のお怪我は?」
公爵様の左肩には、怪我をしているのか肩当ての下に血が滲んでいた。そのことに気づいた私は、他にも怪我をしているのではないかと気が気ではなくなってしまった。左手は動いているから、骨に異常はなさそうだけれど。他に、何か違和感があるところがないか、全身に目を走らせる。すると、思わずといったように左肩を押さえた公爵様が一瞬顔をしかめたのを、私は見逃さなかった。
「公爵様、早く治療を」
「このくらいの怪我は想定の範囲内だ。心配はない」
「そんな、公爵様はすぐに我慢をなさいます。この間の手の甲の傷も、結局は手当てをさせていただけませんでしたし」
「手の甲はすっかり治った。終わったら、きちんと治療を受けるから、な?」
「お強くたって、痛いものは痛いのです。私が心配で心配で夜も眠れなくなったら、公爵様のせいですからね!」
少し強く言った私に、公爵様はぱちくりと瞬きをして、何故か口元に笑みを浮かべた。なんだか嬉しそうにも見える。
「公爵様?」
「いや、な……お前に心配をされると、俺もただの人だということが実感できてな。実を言うと、痛い。だが、今は天狼のところに行かせてくれ。俺にはガルブレイス公爵として、あいつを森に還さなければならない責務がある」
そう力強く言った公爵様が、私に手を伸ばそうとして、途中で止まる。
「俺の臭いは大丈夫だろうか。甘い香りはしているが、まだ、に、臭うか?」
私は自分の手や腕の匂いを嗅ぐ公爵様に近寄ると、公爵様の手に顔を近づけた。そして念入りにクンクンと匂いを嗅いで調べる。背の高い公爵様の頭には届かないので、私はしゃがんでもらうと、その髪の匂いを念入りに嗅いだ。
「ど、どうだ?」
「いつもの公爵様の香りに、甘い匂いがしてなんだか美味しそうです」
「美味しそう……んんっ、それは、どういう?」
「食べたくなる香りです」
「食べたっ?!」
公爵様からは、熟れたスクリムウーウッドの芳醇で甘い香りが漂っていた。
「大丈夫です。私の部屋と同じ甘い果実の香りですよ?」
「そうか、そういう意味か」
危険な状態は脱したと判断した私は、天狼の仔を見張ってもらっていたナタリーさんを呼び、一緒に確認してもらうことにした。ナタリーさんは遠慮がちに歩いてくると、「失礼します」と断ってから、公爵様の上衣の裾に鼻を近づける。
「どうですか、ナタリーさん。まだ匂いますか?」
「私は大丈夫だと思います……そうだ、天狼に判定してもらいましょう」
私と同じように公爵様の匂いを嗅いだナタリーさんが、ピュイッと指笛を吹いて天狼の仔を呼んだ。呼ばれたことがわかったのか、天狼の仔はトコトコと近寄ってくる。匂いを警戒してか、ある一定の範囲から近づこうとしなかった天狼の仔が、公爵様の前にちょこんと座った。そして、まん丸な赤い目をキラキラさせて、「くぅ?」と小さく鳴く。その様子を見るに、どうやら匂いは大丈夫のようだ。
公爵様は、しゃがみ込んで天狼の仔を抱き上げると、ケイオスさんたちが取り囲んでいる天狼の親の方向を見やった。
「さて、行くとするか」
公爵様の腕の中には、おとなしく抱かれてこちらを見ている天狼の仔がいる。
「あの、やはりこの仔の母親なのですか?」
「おそらくは。今からこいつを連れて行って、それを確かめようと思う」
私も、公爵様が見ている方向に目を向ける。たくさんの騎士が取り囲み、上空には炎鷲部隊が待機している。強い結界が築かれているらしく、空間が広範囲に赤く光っていた。
「メルフィ、お前も来るか?」
まさか誘われるとは思わず、私は「えっ?」と大きな声を出してしまった。私には、部屋で待機するように言われていたのに、外に出てきてしまった負い目がある。何もできないし、一緒に行っても迷惑になるだけでは。
「あの結界ならば、お前に害が及ぶことはない。ここからでも相当強固だということがわかるからな。だが、あれはケイオスの魔法ではないな?」
「はい、もうひとつのロワイヤムードラーの曇水晶で造った、捕獲用の魔法陣です。用途を説明したら、上空では使えないので、捕獲した後に使わせてもらうと言われました」
私がそう話すと、こちらをじっと見つめていた公爵様が、私に向かって手を差し伸べてきた。
「行くぞ、メルフィエラ」
「でも、足手まといになります」
「こんな魔法陣を描ける者が足手まといならば、ここの騎士たちは皆赤子のようなものだぞ」
私がおずおずと伸ばした手を、公爵様がしっかりと握ってくる。
「お前は俺が守る」
「は、はい」
「……だから、お前も…………俺が無茶をしないように、しっかりと手綱を握っていてくれ」
「は、はいっ!」
公爵様がズンズンと歩き出したので、私はナタリーさんを振り返る。するとナタリーさんが、私に向かってにっこりと笑い、続いて歩き出した。公爵様の歩みは速く、しかもこちらを見てくれないので、どんな顔をしているのかわからなかったけれど。耳の先に見覚えのある赤みが差していたので、きっと照れくさかったのだろうと思うことにした。