51 怒れる姫君(公爵視点)
メルフィエラが曇水晶に描いた魔法陣には、破裂、つむじ風、粘着という古代魔法語が記してあった。攻撃系の魔法を学んだことがないというメルフィエラだが、魔法陣の構成には才能が垣間見える。曇水晶を破裂させた後に、風を起こして粘着質の液体をばら撒く、ということらしい。
問題は、どうやってあの怒り狂った天狼の鼻先で爆発させるかだ。天狼の背中に飛び乗ればことは早い……、が、そんな曲芸のような芸当を誰がするというのか。騎竜の手綱さばきはミュランが一番うまい。だが、魔法に明るくはないミュランでは、古代魔法語の魔法陣を発動させることはできない。
(仕方がない、ケイオスには怒られるかも知れんが、俺がやるしかあるまいな)
飛び掛かってくるベルゲニオンを薙ぎ払いながら、俺は一定の距離を保ちながら天狼の背後に回った。落とさないように、腰に曇水晶が入った網をくくりつける。
「ケイオス、聞こえるか?」
俺は騎竜の角から共鳴石を取り外すと、話しやすいように胸元に取り付けてから呼びかけた。
『こちらケイオスです』
すると、すぐにケイオスから返事が入る。
「これから天狼の背中に飛び移る」
『飛び移るってそんな、簡単に言わないでください。絶対に振り落とされますから』
「なに、魔法を仕掛けるだけだ」
『閣下がやることではありません!』
「ならば誰がやる? あの雷撃を躱せるのは俺だけだ」
天狼の放つ雷撃は、凄まじい威力だ。魔力量が過多の俺は、いざとなれば同程度の威力の魔法をぶつけて相殺することも可能だが、他の騎士たちにそれをさせるのは酷だ。
「心配するな。うまく気を削ぐことができれば、天狼は地面に真っ逆さまに落ちてくるはずだ。俺の回収は頼んだぞ」
『はあっ?! 回収って何ですかっ!』
ケイオスの叫声が響き、俺は止められる前に行動に移す。
「お前の言う通り、絶対に振り落とされるということだ!」
「まさか炎鷲で閣下を鷲掴みになんてできませんよ!」というケイオスの叫びを無視し、俺は鞍に固定した命綱を外して準備に入る。多少の怪我など日常茶飯事だ。炎鷲の鋭い爪が身体に食い込むくらい、どうということもない、はずだ。
俺はまだベルゲニオンを追い回している天狼の背後にぴたりとつく。その怒りの矛先はベルゲニオンにしか向けていない様子だ。それとも、俺たちが危害を加えないということを、本能で知っているのか。警戒もせずに空を縦横無尽に翔け回り、何度目かの雷撃を放つ。
「よし、このまま少し上に行く。俺が天狼の背中に降りたら、お前はすぐに退避するんだぞ?」
俺は騎竜に話しかけると、予備の手綱を手に持って機を待つ。天狼の速度と動きに合わせ、騎竜を慎重に慎重に近寄せた。
(もう少し、まだだ、まだ寄せられる……よし、今だっ!)
ついにその背中に騎竜の爪が触れそうになった瞬間、俺は一気に飛び移った。
『グガアッ!』
さすがに飛び乗られるとは思ってはいなかったようだ。飛び移る時に天狼の首に手綱を引っかけたせいか、首を振って唸り、空中で一回転して身をよじる。俺は歯を食いしばって手綱に片腕を巻きつけて天狼の毛を掴むと、自分の腰に空いた手を伸ばした。
「悪いな、このまま暴れられるわけにもいかんのだっ!」
俺は黄緑色の曇水晶をひとつ取り出す。風に流れて臭気は散ってしまっているように思えるが、黄緑色の(俺の目にはかなり禍々しく見える)液体は、魔力によって怪しく輝いていた。
(まずは一発、これで正気に戻ってくれるとありがたい)
俺は曇水晶に魔力が馴染むようにするため、自分の血を付けようと考え……メルフィエラの心配そうな顔を思い出す。そういえば、この間は舐めるだけでいいと言われた気がする。だが、曇水晶から発される臭気は凄まじく、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。迷っている余裕などない。しかし。俺は目を瞑ると、曇水晶の表面をペロリと舐めた。
「ごほぉっ」
うっかり吸い込んでしまい、俺は盛大に咽せた。一瞬にして目に涙が浮かぶくらいの刺激臭だ。
「かっ、ぐ……き、きついっ」
この作戦を考えたのはメルフィエラだが、臭気と魔力を吸い出す時は大丈夫だったのだろうか。きっと、あの宝石のように美しい緑色の目に涙を浮かべ、必死に耐えていたに違いない。戻ったら、たくさん労ってやらねば。
あとはこれを鼻先に投げ、起爆の呪文を唱えるだけでいいのだが、実力行使に出た俺を放置する天狼ではない。右へ左へと蛇行し、なんとかして振り落とそうと身体を震わせる。天狼の毛を掴んでいる手が痺れ始めたので、俺は勝負に出ることにした。
『グルルルッ、ガァッ!』
「くっ、人様の敷地内で暴れ回るなっ!」
天狼が首をこちらに向けようとした瞬間を狙って、俺は曇水晶を投げると『破裂』の古代魔法語を唱える。ガシャッという音が鳴り、続いて『つむじ風』で液体を拡散させた。
『フギャンッ、グルッ、カカカッ』
すぐさま、あの刺激的な臭いがあたりに漂い、天狼の鼻先を中心として黄緑色のつむじ風が巻き起こる。スクリムウーウッドの果汁に粘着性が加わっており、風にのった黄緑色の液体は、天狼の白い毛にべったりとくっついた。
直撃したわけではない俺ですら涙が出るほど臭いこの匂いは当然、天狼にも効果はあった。天狼が、頭を激しく振って暴れだす。不快そうに喉を鳴らし、前足で仕切りと自分の鼻先を引っ掻こうと必死になっていた。
(よし、効果はあったが、もう少し重ねがけしておくか?)
直撃さえしなければ、まだ耐えられる。そう自分に言いきかせて、俺は曇水晶をもうひとつ取り出すと、天狼の鼻先目掛けて投げ、先程と同じように呪文を唱えた。
『ギャヒャン!』
情けない鳴き声をあげた天狼が、高度をガクンと落として失速した。今度は眉間の部分に当たったらしく、刺激的な匂いのあの液体が、目にも入ってしまったようだ。俺はといえば、鼻がすっかり麻痺していて、目もまともに開けられないくらい涙が溢れ出てきていた。
(メ、メルフィ……確かに効いたぞ。しかし、これは、効きすぎだ……)
手足をばたつかせた天狼の脚の翅から、虹色の魔力が消えていく。『天翔』の魔法の威力が弱まり、天狼の高度が一気に下がった。
「五番、六番、七番、障壁解除だ! このまま城壁内に落とす。城壁の迎撃部隊はそのまま、騎竜部隊と連携して徹底してベルゲニオンを蹴散らせ!」
『りょ、了解です』
あまりの臭さに戦意を喪失してしまったのかわからないが、苦しげに吠える天狼が、解除された魔法障壁の隙間に落ちていく。
(振り落とされはしなかったが、ここらが潮時か)
天狼と共に地面に墜落するわけにはいかないので、俺は魔法障壁内で待機していたケイオスを呼んだ。
「ケイオス、飛び降りるぞ!」
『まったく、昔から無茶ばかりっ』
炎鷲を旋回させていたケイオスとその部下が、俺と天狼目掛けて飛んでくる。炎鷲が十分に近づいてきたことを確認した俺は、手綱から手を離して天狼の背中を蹴った。すかさず、一番近くにいた炎鷲が滑空してくる。明らかに自分を捕獲しようと、炎鷲の鋭い爪がグワっと広がってこちらに狙いを定めていた。地面に叩きつけられるよりは幾分マシだが、とても痛そうだ。衝撃を予想して身構えた俺に、炎鷲の爪が襲いかかる。
「ぐっ……!」
がしっと掴まれた瞬間、俺の左肩に焼いた刃が押し付けられたような熱い感覚が走った。思わず声を漏らしてしまったが、何とか痛みに耐える。肩当ての隙間をついて、炎鷲の爪が食い込んでしまったらしい。
『閣下っ、無事に掴まれていますか?!』
「……ああ、獲物になった気分だな」
肩が濡れた感じがするので、結構な血が流れているようだ。まだ感覚はあるので大事には至らないだろう。地面を見れば、ベルゲニオンの死骸が散乱しており、そこに天狼が不時着している。
「ケイオス、俺を天狼の側にそのまま降ろせ」
『それは聞けない命令です。我々が結界を張りますので、閣下は呼吸を整えてから来てください』
「おいっ、ケイオス、どこに連れて……」
天狼の上を通り過ぎ、俺は炎鷲に掴まれたまま城の近くの広場まで連れて行かれる。まさか怪我をしたことがバレた訳ではあるまい。とタカを括っていたのだが。俺の視線の端に、鮮やかな赤い色が見えた。
(メルフィ?! 何故外に?)
白いドレス姿のメルフィエラが、赤いふわふわの髪をなびかせてポツンと立っている。少し離れた場所にいるのはブランシュ隊のナタリーか。騒ぎを気にしていないのか、天狼の仔も転げ回っている。何があった? ブランシュは、メルフィエラは部屋にいると言っていなかったか?
『閣下、降ろしますよ』
ケイオスが炎鷲を地面スレスレのところで飛ばし、ばさりと大きく羽ばたかせて速度を落とすと、掴んでいた俺の身体を解放した。が、勢いがつきすぎていて、俺はごろごろと地面を転がる羽目になった。受け身は取ったものの、衝撃のあまりに息が詰まる。それでも何とか体を起こして座り込んだ俺は、駆け寄ってくるメルフィエラをぼう然と見遣った。
『ではメルフィエラ様、閣下をよろしくお願いします』
「はい!」
どうやら、メルフィエラとケイオスの間で何かのやり取りがなされていたらしい。ケイオスは炎鷲を旋回させると、天狼がいる場所に戻っていく。見ると、指示のとおり、ありったけの炎鷲と騎士たちがぐるりと取り囲んでいた。あれだけ勢揃いしていては、さすがの天狼も下手に動けないようだ。
一体何がどうなっているのかさっぱりわからない俺に、メルフィエラが橙色の曇水晶をかざしながら近寄ってきた。
「メルフィ、どうして」
「公爵様、まずはその匂いを中和します」
「中和?」
もはや鼻が麻痺していて、嗅覚がおかしくなっている自覚はある。しかし、今はそれどころではないのだが。
「メルフィ、すまないが、俺は行かねば」
するとメルフィエラが、いつもは優しく弧を描いている眉を寄せて、俺をキッと睨んできた。
「ケイオスさんに結界の曇水晶を持たせてあるのでしばらくは大丈夫です。本当、ケイオスさんやブランシュ隊長の言う通りなのですから」
メルフィエラの声が心なしかキツい気がする。心当たりなどない俺は、メルフィエラから乱暴に額に貼られた魔法陣の油紙を、ふぅっと吹き上げた。
「あの曇水晶をブランシュ隊長に託した時、『閣下は絶対に捨て身を覚悟で天狼に向かっていきますよ』って言われました。ケイオスさんも、『閣下ならば相討ち上等な手段を使いますね』って」
メルフィエラの魔法陣が発動し、温かい魔力が俺の身体を包み込む。まるで慈しむような優しい魔力に、俺は詰めていた息を吐き出した。
「メルフィ、それは、だな」
「私、全部見てました」
メルフィエラは俺の前に膝をついてしゃがみ込む。油紙の隙間から見えたその緑色の目には、今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんでいた。しかし、悲しみというよりは、何か別の……。
「簡単に命を賭けたりしないでください。公爵様がお強いことはわかっています。でも、私と一緒に生きる意味を考えてくださると、そう仰ってくださいましたではありませんか」
そう言って、古代魔法語の呪文を唱え始めたメルフィエラは、見るからに俺に対して怒っていた。