50 怒れる天狼(公爵視点)
『閣下、すみません! どうやらレントダルフォンではなかったようです』
騎竜に取り付けた共鳴石に、物見塔の騎士から申し訳なさそうな声で報告が入る。
「ああ、こちらからも確認した」
騎竜で上空に待機していた俺も、レントダルフォンと思しき黒い魔物の影だったものが、空中でパッと散開するのを見ていた。レントダルフォンは、古い樹木の皮のような鱗を持った身体に、獅子の頭がついた翼ある超大型魔獣だ。エルゼニエ大森林のさらに奥地、ガルバース山脈の中腹を棲家とする魔獣であり、こんなところまで降りてくるとは考えられなかったのだが。ひとつの塊が散り散りになったそれは、明らかに鳥の姿をしていた。
『また狂化したベルゲニオンでしょうか』
今日は休みだったはずのミュランが、自分の騎竜に乗って空へと上がってきた。魔物の正体にうんざりしたような声だが、その気持ちは俺にもわかる。今年はベルゲニオンの当たり年らしく、相見えるのはこれで三度目だ。
「どうやら丸焼きが気に入ったらしいな。望み通りにしてやろうか」
『ここでそんなことしたら魔法障壁が持ちませんから。せめてここから三千フォルンは離れて一掃してください』
「わかっている。まったく、執念深い鳥共だな」
だが、仮に狂化したベルゲニオンであったとしても、こんなところまでやってくるなど普通ではあり得ないことだ。その動きにはいつもの規則性はなく、何かに怯えるように慌てふためいているようにも見える。試しにとミュランに指示を出して、共に上空で待機していた騎竜たちに鋭い威嚇の声を上げさせた。
『ギュオオオォォォォォォォォォッ!!』
十頭以上の騎竜の威嚇の鳴き声は、当然人の耳にも辛い。俺は耳を塞ぎながらベルゲニオンの様子を見ていたが、あまり効いていないようにも見える。
『なんですかね、こいつら。狂化というよりは、錯乱しているみたいですね』
ミュランの言う通り、絶対強者であるドラゴンの威嚇は、本当ならば聞こえた時点で本能的に逃げ出すものだ。しかし、ベルゲニオンたちは怯えてはいるものの、こちらに向かって来る速度を緩めようとはしなかった。
(なんだ、こいつらは何に怯えている?)
距離が縮まり迎撃態勢に入った騎竜部隊に、俺は待ったをかける。
「ミュラン、本命はこれではない。備えろ、後ろから大物が来るぞ」
『えぇっ?!』
嫌な予感がして、俺は物見塔の騎士に遠見の魔法でベルゲニオンたちがやってきた遥か後方を覗かせることにした。
「どうだ、何が見える?」
『閣下、虹色の帯が見えます! ベルゲニオンの後方、二千フォルン……速いっ?!』
「やはりか」
虹色の帯は、『天翔』の魔法による軌跡だ。その魔法を使う魔物は、ガルブレイス領広しといえど、ただ一種類しかいない。夏のエルゼニエ大森林に行ったことがある者ならば、一度は目にしたことがあるだろう魔法の虹。
「我らの守り神は鳥ごときにやられはしないということか。ミュラン、天狼の成獣が一頭こちらに来る」
『はぁっ、天狼ですか?! もうすぐ冬ですよ?』
「何事にも例外はつきものだ。さて、初代の盟約を破るわけにはいかないが、民に危害を加えるようであれば話は別だな。そうなる前に、先に鳥共を蹴散らすぞ!」
『了解です!』
ミュランが部隊を前に出して、騎竜部隊特有の長槍を構える。騎士たちが次々と槍先に魔力を装填し、ミュランの合図と共に騎竜を一気に加速させた。しかし、天狼に追われて来たベルゲニオンは、そのままミュランたちを無視するかのように飛び込んできて、魔法障壁にぶつかり始める。
『ああもうっ、これだから鳥頭って嫌いだ!』
ミュランが繰り出した一撃を受けたベルゲニオンが、そのまま魔法城壁に突っ込んでいく。バチッという音が鳴り、少し焦げ臭い匂いが辺りに漂いだすが、次々と飛来してくるベルゲニオンは怯む様子もない。やがて羽根を撒き散らしながら舞い上がったベルゲニオンたちは、その場をぐるぐると旋回し始めた。どうやら、天狼から逃れるために、ミッドレーグ城塞に逃げ込もうとしているらしい。
(まずいな。何度も突っ込まれると障壁がもたん)
ミュランたちにベルゲニオンを任せることにした俺は、脇目もふらずにこちらに向かってくる天狼に向かって警告を開始する。天狼は頭の良い魔獣だ。こちらに攻撃する意図がないと理解してくれれば、引き返してくれるはずだ。
「正直、朝のひとときの邪魔をされて機嫌が悪いのだ。頼むから、これ以上面倒なことをしてくれるなよ!」
『ギュルオオオオオオォォォォォォッ!!』
俺の苛々を感じ取っているのか、騎竜の鳴き声が凶悪なくらいに響き渡る。俺の騎竜は、ミッドレーグで飼育しているグレッシェルドラゴンたちの長だ。ミュランからすかさず、『閣下やりすぎですって!、他の騎竜が怖がってるじゃないですか!』と文句を言われてしまったが、穏便に済ませるには、ここの上空が誰の縄張りであるか知らしめねばならない。だが、グレッシェルドラゴンの咆哮では、怒れる天狼を阻むことはできなかった。
(……歯牙にも掛けない、とはこういうことか。これは一戦を交えなければなるまい)
猛然と空を翔ける天狼が、とうとうミッドレーグ城塞の上空までやってきてしまった。そして俺たちではなく群れからはぐれたベルゲニオンに狙いを定める。ベルゲニオンの『加速』よりも、天狼の『天翔』の方が速かった。
急所の首を狙った攻撃により、一瞬にして首を喰いちぎられたベルゲニオンの骸が、無造作に投げ捨てられて落ちていく。無残にも翼を引き裂かれた個体は、落ちた先の魔法城壁に触れて絶命した。
『ああぁっ、こんなところでおっ始めるなよ』
『どうやら怒りに我を忘れているようですね』
『額の角が短いから雌か……って角! なんか角が紫に光ってますけど』
その報告に、俺の全身の毛がぶわりと立った。まずい。
「いかんっ、全員、退避っ、全力で退避しろっ! 雷撃に巻き込まれるぞっ!!」
俺は騎竜の手綱を引くと、雷撃の射程距離から素早く離れた。そして他の騎竜たちが天狼の周りから退避したことを確認し、安堵したその瞬間――
『ウォオオオオオオォォォォォォンッ!』
天狼の怒りの咆哮が響き渡り、紫色に光る角から無差別に雷撃を放ち始めた。バリバリという雷特有の音の後に、ドンッという鈍い音が聞こえる。それは何度も放たれ、ベルゲニオンの群れの半数くらいが一瞬にして黒焦げになってしまった。
「怒れる天狼の無慈悲なる雷撃か……恐ろしいものだ」
久々のゾクゾクとするような感覚に、手綱を握る手に力が入る。
『そうですか? 普段の閣下もあんな感じなので、私は別に』
『だよな。閣下っぽいな、あの天狼』
『すっげぇ魔法をバカスカ撃つところがそっくりだ』
『俺、閣下のおかげで退避だけは得意だぜ!』
共鳴石から聞こえてくる騎士たちの笑い混じりの雑談に、俺は緊張感のなさを叱責するべきか、それとも肝が据わっていると褒めるべきか真剣に考えた。
「あのな、お前たち……」
散々な言われ様だが、騎士たちに悪気はないので怒るに怒れない。自分では、きちんと宣言してから魔法を放っていると思うのだが、こんな危険極まりない天狼と同じにされるのは心外だ。
俺たちの目の前で雷撃を披露した天狼は、ようやく満足したのかその動きを止め……たりはしなかった。角を光らせたままベルゲニオンに襲いかかるその姿に、もはや狂化しているのではとすら思えてくる。
『まさか閣下、こいつは、あの小さい天狼の母親だったりするんでしょうか?』
保護した天狼の仔のことを知っているミュランが、疑問を呈してくる。
「わからんが、その線が濃いな」
『きっと匂いがするんですよ、仔の。狂化したベルゲニオンの残党がこの群れにいて、だからこんなに執拗に攻撃を繰り返しているのでは?』
鼻のいい天狼であれば、それも可能であるかもしれない。しかし、もしそれが当たりならば。
「では、次の標的は俺だな。お前たちは残りの鳥をなんとか蹴散らせ。魔法城壁はあと半刻ともたん。天狼は俺がなんとかする!」
次は、つい先ほどまで天狼の仔と戯れていた俺が狙われるということになる。この狭い上空では、騎竜では小回りがきかず、思うように動けない。城壁の上には、騎竜の体力を考慮して、ケイオスたちの炎鷲部隊が待機している姿が見えた。しかしこのままでは、確実に魔法障壁を破られてしまうのは目に見えている。俺は天狼をミッドレーグから引き離すため、わざと単騎で前に進み出た。魔眼を最大限開放し、狼の視線の先に騎竜を割り込ませて無理矢理視界に入る。
(お前を傷つける意図はない。頼むここは引いてくれ)
人間の言葉が通じるのか定かではないが、初代ガルブレイス公爵は、天狼を相棒としてこの地を治めたという。初代にできて、俺にできないわけがない。
天狼の真っ赤な目が、初めて俺を捉える。邪魔をするな、という怒りを込めた魔力が、針のように俺に突き刺さってきた。正直、怖い。だが、俺はガルブレイス公爵だ。引くわけにはいかない。負けるわけにはいかないのだ。
(引けっ、初代とは血の繋がりすらないが、お前の古い血がここを覚えているだろう?)
俺は視線に魔力を込めて、天狼の攻撃を躱せるギリギリの間合いまで騎竜を進める。唸り声を上げながらも俺の存在を認識した天狼に、俺は手ごたえを感じていた……のだが。
『ギャアァァァァァァァッ!』
俺たちの間を通り過ぎて行ったベルゲニオンに、天狼の気が逸れてしまった。天狼が、再びベルゲニオンを追いかけ回しながらバリバリと雷撃を放つ。
「こんの、鳥頭めぇぇぇっ!!」
俺は背中に装着していた槍を抜き放つと、空気を読まずにギャアギャアと飛び回るベルゲニオンの首を撥ねて回った。駄目だ、魔法城壁がもう持たない。
「ケイオスっ、障壁が破れたら、入り込んだ鳥を全て殲滅せよ! 一匹たりとも逃すな!!」
物見塔経由で指示を出すと、炎鷲部隊が一斉に城壁内に舞い始める。城壁が破れれば、天狼の仔がここにいることがばれてしまうだろう。そうなれば、初代には申し訳ないが、天狼を屠らなければならなくなる。
と、その時だった。
『閣下ぁぁぁっ、お待ちください!』
俺を呼び止める声がした方を見ると、ブランシュがリリアンを後ろに乗せて小型の騎竜で向かって来ていた。
「メルフィはどうした!」
『姫様は部屋におられます! 実はその姫様から、閣下に渡してほしいものがあると言付かりました』
ブランシュが、扱いなれない小型の騎竜を必死で乗りこなし、こちらに近寄ってくる。
『姫様が、あの未成熟のスクリムウーウッドの果実から、魔力入りの臭気を曇水晶の中に吸い出してくださいました。これを天狼の鼻先で爆発させて、気を逸らすことができないかと』
「メルフィが? なるほど、あの臭いか……」
未成熟のスクリムウーウッドの臭いは、正直二度と嗅ぎたくはない悪臭だ。それが鼻にまとわりついたら、うまくいけば鼻のいい天狼の注意を逸らすことは可能だろう。なるほどこの方法であれば、天狼を傷つけなくてすむ。俺はブランシュから曇水晶の入った網を受け取ることにした。
「ブランシュ、こちらに投げてくれ」
『そうしたいのは山々ですが……』
ブランシュは騎竜を操るので精一杯のようだ。ブランシュ隊は騎竜乗りではない。普段はシュティングルという四つ脚の鳥で地を駆けているため、勝手がわからずうまく操作ができていない。
それでも、誇り高きガルブレイスの騎士だ。ブランシュは騎竜の高度を上げ、身を乗り出したリリアンが、俺に狙いを定めて曇水晶が入った網を放り投げてきた。
「ぐっ……これはかなり、くるな!」
風に煽られて斜めに落ちてくるそれを手にした途端、何とも言えない刺激的な匂いが広がる。網の中には黄緑色の液体の入った曇水晶は三つ。それに、鮮やかな赤色の大きな曇水晶がひとつ入っていた。
(ん? これは、伝令蜂か?)
網を縛っていた紐の先には、見慣れた銀色の球体がくっついている。指先で触れると球体から羽が生え、いつもの伝令蜂が俺の周りをブンブンと飛び回った。
『公爵様!』
その伝令蜂から聞こえてきた声に、俺は思わず曇水晶を持つ手を滑らせそうになった。
『公爵様、そのスクリムウーウッドの匂い入り曇水晶には、小さな爆発と風の魔法が込められています。威力は大した事ありませんので、口の中に入れて爆発させればうまく匂いを振り撒くことができるかもしれません。それと、ロワイヤムードラーの曇水晶には、防御の魔法陣を刻み込んでいます。必ず使ってください!』
思わぬ人からの伝令に、俺の口は自然とほころんだ。やはり、メルフィエラは優秀な魔法師だ。しかも機転が利いている。これは兄上が聞いたら絶対にほしがる逸材かもしれない。王都の魔法騎士団も、喉から手が出るほどにほしがるだろう。いや、ほしがられてもやらないが。
俺は黄緑色の曇水晶を握ると、暴れ回る天狼に狙いを定めた。
「派手にやるか、メルフィ!」