37 その果実、甘いか渋いか[食材:スクリムウーウッド]
「さあ、リリアンさん。いきますよ」
「は、はいっ!」
私は、緊張した顔である一点を凝視するリリアンの目の前に、小さめの曇水晶をかざす。曇水晶に魔力を込めて意識を集中させると、油紙に描いた魔法陣が淡い光を放ち始めた。その魔法陣の真ん中には、人の頭部くらいの大きさの黒い球体が置かれている。
『ルエ・リット・アルニエール・オ・ドナ・バルミルエ……』
私はいつものように、物体から魔力を吸い出す呪文を唱える。すると黒い球体から、じわじわと液体が滲み出してきた。
「わぁ……すごくいい香りがします!」
リリアンさんが歓声を上げて目を輝かせた。とても素直な反応だ。でもうっかり手を伸ばして球体に触れそうになったものだから、リリアンさんの手はすんでのところでナタリーさんに止められる。
「こら、リリアン。触ったら駄目だ」
「わ、わかってますよぅ」
「姫様、この光を放つ液体が魔力なのですか?」
ブランシュ隊長は、食い入るように魔法陣を見つめている。今回の獲物は魔力の抽出が難しく、私は呪文を唱え続ける必要があるので返事はできない。そこで私は、それぞれ球体を凝視している三人に向けて頷いてから、さらに意識を集中させた。
『デルニア・オ・ドナ・バルミルエ・スティリス……』
曇水晶の中に、ゆっくりゆっくりと橙色に輝く魔力が集まってくる。とろりとした粘り気のその液体の正体は果汁だ。そう、黒い球体は果実だった。それもあのスクリムウーウッドの果実とあっては、私も美味しくいただくために気合いが入るというものだ。
「それにしても、スクリムウーウッドの果実がこんなにいい香りだとはね」
ブランシュ隊長が鼻を摘んでいた指を離して大きく息を吸い込む。
「隊長たちが食べた時は違ったんですか?」
「すごく臭かったよ。臭いなんて言葉では足りないほどの激臭だった」
「それに、こんなに真っ黒じゃなかったかな。もっと赤くて、見た目だけはいかにも美味しそうでしたよね、隊長」
「そうそう、見た目に騙されたっけ」
ブランシュ隊長とナタリーさんが、その時のことを思い出したのか渋そうな顔をする。確かに私の図鑑にも、スクリムウーウッドの果実は赤い果実でその香りはものすごい臭い、と書いてあった。そしてその味は渋いと。でもここにある果実は黒く、そして思わずかぶりつきたくなるほど甘い匂いがする。
実はこの黒い果実、ミュランさんの記憶を元に、公爵様が採って来たものだ。何故そんなことになったのか、話は四日前に遡る。
◇
ガルブレイス領ミッドレーグ城塞に着いたその日。私の簡単なお披露目を行う予定だったはずが、結局は延期になってしまった。支度が整う間際になって、公爵様から「魔物の討伐に行くことになった」と告げられたからだ。公爵様は遥々マーシャルレイドまでの距離を往復して、ほぼ休んでおられないはずなのに。私は、公爵様が出なければならないくらいの緊急事態なのかと身構えた。でも、ケイオスさん曰く、これがガルブレイスの『日常』であるらしい。なんでも、現場に残してきた炎鷲の部隊から、魔鳥ベルゲニオンの群れの一部が集団狂化しているとの報告が届いたとのことだった。
「すまないな」
「いいえ、それが公爵様のお務めです。私も、何かできることはありませんか?」
「旅疲れもあるだろう。お前は休んでいろ。本当は一緒にいてやりたいのだが、狂化した魔鳥共が町村を襲う可能性がある。さっさと掃討してくるから、ここで待っていてくれ」
「はい、公爵様」
「違うだろう、メルフィ。俺のことはなんと呼ぶのだ?」
背中に二本の槍を背負い、腰に四本もの剣を佩いた完全武装の公爵様が、私のふわふわになった髪を一房すくい上げる。ブランシュ隊長が丁寧に洗って梳いてくれたので、ゴワゴワだった髪はすっかりふわふわで、いい匂いまでしていた。見上げると、公爵様の琥珀色の目がわずかに金色になっていて、バチリと目が合った私はその格好よさにドキッとしてしまう。
「は、早くお帰りくださいませ!」
「メルフィ?」
「もう、ア、アリスティード様はなんでそう、私を困らせるのがお好きなのですか」
私は真っ赤になっているであろう顔を見せたくなくて、顎をそらしてそっぽを向いた。くっくと喉を鳴らす公爵様は、多分、いや絶対に目を弓形にして意地悪な笑みを浮かべているはずだ。
「困らせているつもりではないのだがな」
「ふ、不意打ちは駄目です」
「わかった、宣言すればいいのだな」
公爵様の揶揄うような言葉に、私は思わず上目遣いで睨む。案の定したり顔で笑う公爵様が、急に真面目な顔になって私の腰に腕を回してきた。
「メルフィ、公爵夫人の務めを覚えているか?」
「公爵様を『労い、癒す』ことです」
「そうむくれるな。お前のそういう可愛いところに俺は癒されているのだ。少しくらいは許せ」
「……それ、本当ですか?」
半信半疑の私を、公爵様は意地悪ではない本当に嬉しそうな笑顔になって引き寄せる。
「本当だとも。だから、帰ったら美味い飯で俺を労ってくれ。そうだな、ロワイヤムードラーの残りで煮込みを食べたい。ザナスでもいいぞ。魔法を使うと腹が空くからな」
「私は、ふ、普通の料理でもいいと思いますけど」
「そうか? 俺はベルゲニオンでも美味ければいいのだが。それに、美味い食材を狩りに行くと思えば俄然やる気が出る。何か興味のある魔物はいないのか? ついでに獲ってきてやるぞ」
公爵様は、「俺が魔物を食べたい」ということを強調してくれているような気がする。ケイオスさんやミュランさんはいいけれど、この場には、私のことをよく知らないブランシュ隊長たちや、まだ顔を合わせたことのない騎士たちもいる。皆が私と公爵様の会話に耳を傾けているから、きっと私の予想は当たっているはずだ。公爵様が魔物食を食べたいと仰れば、騎士たちも受け入れやすい。
私はどうしようか迷ったけれど、公爵様は問題ないというように頷いてくれた。とはいえ、大物は気が引ける(だって今から狂化したベルゲニオンの群れを掃討しに行くのだし)ので、私はちょうどいいと思ってあの魔物を頼んでみることにした。
「で、では、スクリムウーウッドの果実を」
「スクリムウーウッド⁈ いや、あれは……」
公爵様が言葉を濁す。スクリムウーウッドは、公爵様がお食べになって後悔した魔物のひとつだ。私の背後に控えていたリリアンさんの方から、「やった!」という小さな声が聞こえたような気がするのは、きっと気のせいではないはずだ。
「とても臭かったのでしたね。でも、ミュランさんはネクタールよりも美味しかったと思ったようですし……ですよね、ミュランさん」
私から唐突に話を振られたミュランさんが、ゲホッと咳をする。
「メルフィエラ様、それをどこで」
「乙女の秘密です。ミュランさん、確かにスクリムウーウッドの果実だったのですか?」
「熟し過ぎたのか、真っ赤を通り越して真っ黒になっていましたけれど。とても香り高く甘く、とろけるような幸せが口の中に広がりましたね。まあ、食べ過ぎてその後は悲惨な目に遭いましたが」
公爵様は臭くて渋いと言ったスクリムウーウッドの果実。同じ果実なのにどうしてそんなに違う感想になるのか。味の好き嫌いだけではないような気がして、私は駄目押しのようにして公爵様におねだりする。
「本当についででかまいませんから。一番は、公爵様たちが怪我をせずに無事に帰ってくることです。ほんの少しだけ余裕がありましたら、是非スクリムウーウッドの果実をお願いしますね」
「わかった。お前がそこまで言うのであれば。見つけたら持ち帰って来よう」
公爵様は私をギュッと抱きしめると、身体を離してケイオスさんを振り返る。
「よし、陽が暮れる前に砦に向かうぞ」
「了解です。騎竜は明日朝に手配しますので、閣下は炎鷲に騎乗してください」
「では、ブランシュ。よろしく頼むぞ。帰りが遅い時は、メルフィエラを書庫に案内してくれ。どの本でも閲覧の許可をする」
ブランシュ隊長がキリッと敬礼をして、カツンと踵を鳴らす。公爵様はそれ以上何も言わずに、口の端を上げて少し笑った。「それでは配置につけ!」というケイオスさんの指示により、騎士たちが部屋から出て行く。公爵様が、「見送りはここでいい」と先に仰っていたので、私はシエルの間に残されてしまった。
(公爵様、アリスティード様……どうか、ご無事で)
昼間あれだけ、私たちが乗ったドラゴンを追いかけてきていた魔鳥だ。それが狂化した群れなど、想像しただけでゾッとする。また曇水晶で爆発させたらどうかと思わないこともないけれど、残っている魔力入りの曇水晶はロワイヤムードラーのものだけだ。あれは魔力が濃く、量も大量なので、爆発させると公爵様たちも巻き込まれるかもしれない。
(ああ、待つだけというのはもどかしい)
その晩はソワソワしてあまり寝付けず、次の日を迎えた。公爵様は結局次の日も帰って来られず、私はブランシュ隊長の勧めで書庫に行ったのだけれど、全然集中できなかった。面白そうな本や資料があるのに、ほとんど身が入らない。研究をする気にもなれず、私はブランシュ隊の三人とケイオスさんが寄越してくれた侍女に心配されながら、シエルの間で静かに過ごした。
結局、公爵様がようやくベルゲニオンを掃討して帰ってきたのは、三日後の真夜中だった。
◇
真っ黒なスクリムウーウッドの果実は、エルゼニエ大森林に魔鳥を狩りに行ったついでに、公爵様が私のためにわざわざ見つけて来てくださったお土産だ。果実を見たリリアンさんは大喜びで「食べてみたいので手伝います!」とはしゃぎ、私もリリアンさんに負けないくらいの好奇心に駆られてしまった。ほぼ無休だった公爵様は、現在隣のテールの間で就寝中である。私はケイオスさんにお願いして、公爵様が寝ている間にブランシュ隊と一緒に下処理をすることにしたというわけだ。
『ルエ・リット・アルニエール・オ・ドナ・バルミルエ・スティリス・ウムト・ラ・イェンブリヨール!』
私は慎重に、最後の呪文を唱え終える。魔樹系の魔物の下処理は、魔獣系の魔物よりも難しい。明確な弱点を持つ魔獣と違い、魔樹は基本的に植物と同じだ。その違いは、養分と一緒に魔力を吸って成長するところくらいしかない。
魔獣は、心臓がとまれば明確な死となる。頭を刎ねられてもおしまいだ。それに対して植物でもある魔樹は、心臓も内臓も脳もない。枝を折っても、幹も折った枝もしばらく生きている。魔樹の明確な死とは枯れること(燃やすこと)であるため、生きた状態の果実から魔力を吸い出すのは至難の技だった。
(それにしても、魔力が濃い)
極力果汁を残して魔力のみを吸い出そうとした結果、まるで溶かした飴のような粘り気の魔力入り曇水晶ができてしまった。
「姫様、もう終わりですか?」
リリアンさんは、スクリムウーウッドの果実に目が釘付けのようだ。私は果肉に含まれる魔力しか吸い出していない。果実は、その魔力を種に凝縮しているものがほとんどだ。グズグズしていたらせっかく吸い出した魔力が、再び種から果肉に浸み出してくるかもしれない。
私は、早く食べてみたいのかもじもじソワソワしているリリアンさんに、スクリムウーウッドの果実を切ってもらうことにした。