33 公爵家の使用人事情
凍らせていたロワイヤムードラーの肉を飼育員に渡し(それでも美味しい部位は死守した)、私は公爵様に連れられて、いよいよ城の中に入ることになった。
近くで見ると、公爵様の屋敷はとんでもなく大きな建物だ。要塞だけあってか、窓や出入り口が狭く造られている。外壁は余計な装飾を一切省いてあって、リッテルドの砦のように物見窓がついていた。
表側の入り口に向かう途中に用水路が引いてあったので、私は興味本位に覗いてみる。するとそこには、バクタと呼ばれる残飯処理用の魚が悠々と泳いでいた。ザナスのような魔魚ではないけれどバクタも雑食性だ。マーシャルレイドの家でもこの魚を飼育していて、調理場から流された残飯を食べていた。そういえば食べたことはなかったけれど、美味しいのだろうか。
(あれ、水面が赤い?)
そこでふと、私はその水面に赤い色が映っていることに気づいた。正確には、私の周りだけ色付いている。頭に手をやって確認すると、そこにはふわふわというか、ブワッと広がって少しごわついた髪があった。
(やだ、髪が! さすがにこの格好で皆さんにご挨拶……はできない、無理)
裏手に降りて来たので正面の方から正式に入城するのだろう。きっと入り口には、お出迎えの騎士や使用人たちが勢揃いしているはずだ。彼らの主人たる公爵様が婚約者を連れて帰還したのだから、今か今かと待ち構えているに違いない。それなのに、こんなに乱れた格好でいいとは思えない。ボサボサの頭をしたヨレヨレの旅装の自分をお披露目する公爵様……駄目、それは絶対によくない。マーシャルレイド伯爵家の娘としても、何か色々と駄目な気がする。
(どうしよう。これは手櫛でなんとかできるものではない気がする)
試しに指で梳いてみたけれど、絡まった髪はすでに手遅れの状態だった。でも私は、マーシャルレイド家から使用人を連れて来てはいない。こういう時にどうしたらよいのかわからず、私はとりあえず公爵様に相談してみることにした。
「あの、公爵様。少しご相談がありまして」
「どうした、何か気になることでもあったか?」
気になる。でも公爵様が気にしないのであればいいような気もするけれど……いや、やっぱりそれではいけない。公爵様の婚約者として、最初が大事。公爵様が、私が覗いていた用水路を覗き込む。
「バクタか。これは煮込みにするとまあまあ美味いぞ」
「まあ、バクタは煮込みでいただくのですね! マーシャルレイドでも飼育されていましたけれど、食べたことがなくって」
「非常食として重宝されているのだ。食べてみるか?」
「いつか是非……って、えっと、バクタのお話ではなくて、公爵様、あの、皆さんに挨拶をする前に身嗜みを整えたいのです。失礼があってはと思いまして」
髪の毛に、今朝つけたはずの髪留めが引っかかっていたので、私は慌てて髪留めを手の中に握り込んで隠した。適当に髪を結っていたから、ベルゲニオンの大群から『加速』を使って逃げた時にすっかり解けてしまったのだろう。それに服は昨日と同じ旅装だし(さすがに下着は替えたけれど)。
私はどうしても、公爵様を慕う騎士や使用人たちから、「相応しくない」と思われることだけは避けたかった。公爵様があまりに凝視してくるので、少し恥ずかしくなる。
「着替える場所などあれば、お借りしてもよろしいでしょうか」
私が小さな声でお願いすると、公爵様が衝撃を受けた! というような顔になった。
「すまない、メルフィ!」
「いえ、公爵様のせいでは」
「俺としたことが、なんの配慮もなくすまない。ケイオスにもあれだけ言われていたというのに」
公爵様は眉間に指を当てて唸り、キョロキョロと周りを見回す。ちょうど後ろからついて来ていたミュランさんを見つけると、「ミュラン、緊急事態だ!」と叫んで呼びつけた。そんなに慌てる必要もないことなので、緊迫した顔で駆け寄って来たミュランさんや他の騎士たちに申し訳なくなる。
「閣下、どうなされました⁈」
「ケイオスはまだか」
「炎鷲の厩舎ですから、もう少し時間がかかるかと」
「ならばお前でいい。ミュラン、すぐにでも侍女を……ああっ、侍女はいないのだった! 仕方ない、ブランシュ隊の誰かを呼べ!」
「ブランシュ隊? えっと、今からリリアンやサブリナを呼ぶのですか?」
「リリアンでもサブリナでもナタリーでも、この際ブランシュでもいい、女性ならば誰でも」
「ブ、ブランシュ隊長を……わかりました!」
どうやら『ブランシュ隊』とは、女性騎士たちが所属している部隊のようだ。慌てて駆けていくミュランさんを見送り、公爵様が切羽詰まったような目を向けてきた。大股で近寄って来ると、私の両肩をがしりと掴む。
「メルフィ、気が利かぬ男で悪かった」
「そんなことありません」
「実はな、この屋敷には貴婦人の身の回りの世話をする侍女がおらぬのだ。長いこと男所帯だったものでな」
侍女がいないということは、前ガルブレイス公爵様の奥方様もいらっしゃらないのだろうか。その前に、前公爵様に奥方様や御子がおられたのかすら知らない。私は、今更ながら自分の失態に気づいてしまった。
(私のばか、基本的なことをきちんと聞いておかなければならなかったのに!)
ガルブレイス領の魔物のことばかりを考えていて、少しもそういうことを気にしていなかった。最初からこんな風では、公爵夫人として務まらないと思われても仕方がない。完全に私の失態だ。内心とても焦っている私の目の前で、公爵様は目に見えて焦っておられた。
「メルフィ、本当にすまない。決してお前を軽んじているわけではないのだ。段取りはしていたのだが、ばか鳥共のせいで事情が少し変わってしまった。すまない。ガルブレイス公爵家に正式な公爵夫人を立てるのは久方ぶりでな……多分、ここ四代くらいは夫人はいなかったはずで、あー、なんだ、それで、お前の家のように、気の利いた侍女たちがいるわけではない」
「魔物の歓迎を受けたのは公爵様のせいではないのですから、お気になさらず……」
「いや、駄目だ。お前のことをほしいと望んだのは俺なのだからな。大丈夫だ、確かケイオスが手配はしていた。今呼んだブランシュ隊も悪い奴らではない」
「ブランシュ隊の方は皆女性なのですか?」
「ああ、ブランシュ・ルセーブルという女性騎士を隊長とした女性の部隊だ。皆、肝が据わっていて強いぞ」
「それは素敵な部隊ですね!」
マーシャルレイドには女性騎士はいなかったけれど、私は何度か王都で王妃様の護衛騎士を見かけたことがある。皆キリリとした女性で、同性の私から見ても格好よかった。ガルブレイスの女性騎士の皆さんは、どういう感じなのだろう。
しばらく待っていると、カタコトと石か何かが擦れるような音が聞こえてきた。何の音だろうと周りを見回すけれど、音がする方向には壁があるだけで誰もいない。するといきなり壁の一部が凹んで、人ひとりが通れるような四角い穴が空いた。まったく突然のことだったので、私はびっくりして公爵様の背中に隠れる。
「な、なんですか⁈」
「心配はいらん。あれは中から魔法で開く扉だ」
「魔法の扉……」
公爵様の言う通りに、中からひょっこり顔を出したのはミュランさんだった。
「閣下、準備が整いました。南翼のシエルの間です」
「わかった。そのまま中に入る……人払いを」
「了解です」
私は公爵様に促され、魔法の扉に近寄った。どういう構造になっているのかわからなかったけれど、分厚い外壁に通路が出来ている。通り抜けたところで公爵様が何かの呪文を呟くと、その通路がカタコトと音を立てて綺麗に塞がってしまった。
「驚いただろう? 屋敷の至るところにこうした隠し扉があってな」
「これは古代魔法の一種ですよね?」
「うむ。この隠し扉に使っている魔法は古代魔法で正解だ。ここにいる誰もが使えるわけではないが、お前ならば大丈夫だ。後から呪文を教えよう」
「隠し扉から出入りしてもいいのですか?」
「中々に便利だぞ」
隠し扉のあった細い通路から少し歩くと、広い通路に出てきた。絨毯などは敷かれておらず、ピカピカに磨かれた石畳の床になっている。天井は高く、柔らかな魔法の明かりで照らされていた。
屋敷の中は、外からの印象とは違って、凝った造りになっているようだ。石畳は足音が響くので、私はなるべく音を立てないように気をつけながらそろそろと歩く。
「ここは南翼と呼ばれるところだ。東西南北にそれぞれわかれているが、南翼が一番陽当たりがよい場所で、俺の部屋もここにある。今から行くシエルの間は、これからお前の部屋になる場所だぞ」
「ありがとうございます」
正直、私はどんな部屋でもいいのだけれど、陽当たりがいい場所はありがたい。マーシャルレイドは寒い地方だから、私は特にそう感じてしまうのだけれど、ガルブレイスは結構南にある。私にとって、今のここの気候はとても過ごしやすい。
幾つもの部屋を通り過ぎ、階段で三階まで上がったその先に部屋が二つ並んでいた。片方は誰もいないけれど、もう片方の扉の前にはミュランさんと三人の騎士たちが並んでいる。
「閣下、メルフィエラ様、どうぞ中へ」
「ああ、その前に。彼女がメルフィエラ・マーシャルレイド伯爵令嬢だ。彼女の言葉は俺の言葉でもある。皆、心せよ」
カツンと音を鳴らして踵を揃えた三人の騎士が、胸の前に手を当てて騎士の敬礼をする。その内の一人が一歩前に進み出ると、よく通る声で自己紹介をしてくれた。キリリとした涼しい顔立ちの、背の高い格好いい騎士だ。
「ブランシュ・ルセーブルと言います。どうぞお見知りおきを、姫様」
彼女が、ブランシュ隊長らしい。驚いた、こんなに格好いい方が女性騎士だったなんて。想像以上に素敵で、私は少しばかり(いや、多分ものすごく)惚けてしまった。ブランシュ隊長は、王妃様の護衛騎士以上に格好いい。
「あー、もう、違いますって隊長。そこは奥様とお呼びするって決めてたじゃないですか」
「だって、こんなに若くて可愛くて綺麗なお姫様を奥様だなんて古臭い言い方で呼べないよ」
「それわかります。姫様の方が絶対いいです」
並んでいる三人の騎士は、どうやら全員女性騎士だったらしい。皆それぞれにキリリとしていて格好いいけれど、この雰囲気だとなんだか仲良くなれそうな気がする。でも、ミュランさんが顔を両手で覆っているのは何故だろう。公爵様は、なんとも言えない顔をしているし。
「どうかメルフィエラと呼んでください。公爵様のお役に立てるよう、しっかり勉強します。ここでのしきたりや、生活などを、どうかご教示のほどよろしくお願いいたします」
私が(ボサボサの髪とヨレヨレの旅装で)淑女の礼をすると、三人の騎士たちが「了解いたしました、メルフィエラ姫様!」と、声を揃えた。