22 嫉妬の炎が身を焦がす?
何故か出入口から一歩も動かない公爵様に、私は「公爵様、そんなところではなくこちらにいらしてください」と声をかける。公爵様は口を引き結んでむすっとしているけれど、怒っているわけではなさそうだ。先ほどまでは機嫌も良さそうだったのに、一体どうしてしまったのだろう。まさか、私がつまみ食いをさせてしまった(実際につまみ食いをしたのはミュランさんだけれど)のがよくなかった?
「ちゃんと公爵様の分もありますから、そんなに拗ねないでください」
「拗ねてなどない」
「では、少しお待ちくださいね。公爵様の分も炙りますから」
私がもう一つ薄切り肉を炙って準備する間、ミュランさんとゼフさんは固まってしまったかのように微動だにしなかった。ミュランさんなんて木串を持ったままだし。
「はい、公爵様。どうぞ召し上がってくださいませ」
私はまだ動こうとしない公爵様の元まで行くと、出来上がった熱々の薄切り肉の木串を差し出す。公爵様はそれをチラりと見るだけで、受け取ろうとはしなかった。まだ口を引き結んでいるし、こちらを見る公爵様の視線がジトッとしている。拗ねてないなんて言っていたけれど、やっぱり拗ねてるじゃない。なんだか子供みたいで可愛い。
「熱々が美味しいのですけど」
私は薄切り肉を公爵様の口元まで運び、なんとかしてその口を開けさせようと考える。
(えっと、義弟の乳母はどうやって口を開けさせていたかしら?)
三歳になる義弟がご飯を食べずに好き嫌いする時、確か乳母はこう言っていた気がする。
「はい、美味しいですよ? お口をあーんしてくださいね?」
乳母のように、なるべく優しく、笑顔で。乳母の「あーん」は魔法の言葉だ。彼女の手にかかれば、食べないとそっぽを向いていた義弟も口を開けてしまう。そういえば、乳母は義弟の名前も呼んでいたような。
「公爵様? えっと、アリスティード様?」
私が思い切って名前を呼んでみると、公爵様が目を丸くして驚いた顔になり、その口元が少しだけ緩んだ。よし、今だ。私はとびっきりの笑顔になると、もう一度名前を呼ぶ。
「アリスティード様。はい、あーん」
その瞬間、サッと顔を真っ赤にした公爵様が、ぱかりと口を開けた。その隙を逃さず、私は薄切り肉を口の中に入れる。やった、乳母のようにうまくできた!
公爵様は口を片手で押さえて咀嚼した。背後に立ち昇っていた真っ黒な魔力は霧散しているし、雰囲気も柔らかい。眉間の皺もないからもう大丈夫だ。昔の人は「美味しいものを皆で分かち合う場で争いは起きない」という名言を残しているけれど、それは本当だったみたい。
「どうですか?」
「……甘い」
「ふふふっ、脂に甘味がありますものね。お気に召しましたか?」
「ああ」
「もう少し食べますか?」
無言で頷いた公爵様の手を引いて、私は塩漬け肉の塊を切る作業に移った。調理場の隅に置いてあった椅子を近くに移動させ、そこに公爵様を座らせる。「立ったままでいい」と言った公爵様に、にっこり笑って「待っていてください」と告げると素直に従ってくれた。よかった、無事つまみ食いに参加できて満足されたようだ。
「さあ、穀物粥を練り上げましょう!」
さすがに騎士たち全員分は量があるので、肉の準備もミュランさんたちにも手伝ってもらうことにする。
「ミュランさん、ゼフさん。このお肉を小さく微塵に切ってくださいますか?」
振り返った私は、直立不動で並んで立つ二人の騎士にお願いした……のだけれど、なんだか二人の様子がおかしい。ソワソワしているような、ぎこちない雰囲気だ。それでも、パッと片手を上げたミュランさんが、元気よく返事をしてくれた。
「はっ、はい! それを微塵に切り刻むのですね」
「バカ、お前、お邪魔だろう⁈」
「しかし、閣下にお任せするわけにはいかないじゃないか」
「あー、もだもだする!」
何やら小突き合いながらも作業を始めた二人の騎士は、私と公爵様の方をチラチラと見ては目を逸らす行為を繰り返す。そういえばゼフさんは、結局薄切り肉に手をつけなかったけれど、穀物粥の中に入れても大丈夫なのだろうか。
「ゼフさんは味見しなくて大丈夫ですか?」
「閣下がお食べになって大丈夫なものなら大丈夫なんでしょう」
「わかりました。無理にとは言いませんので」
誰だって苦手なものはあるのだから、無理強いはいけない。しかし、ミュランさんはゼフさんの後頭部を刃物の柄で小突いて説教を始めた。
「いいえ、メルフィ様――じゃなかったメルフィエラ様。こいつにも是非。私が許可します。ゼフは食わず嫌いなんです。いつも携帯糧食に文句を言うんですよ」
「煩いなミュラン」
「肉も野菜も、固いだの臭いだの。食べられるだけでありがたいんだぞ?」
「はいはい、わかりましたよ。ひと切れだけですからね」
ゼフさんが了解したので、ひとまず薄切り肉を準備する。公爵様がそんな私をジッと見ていたので、公爵様にもうひと切れ薄切り肉を用意して、「あーん」を駆使して食べさせた。ついでに、ゼフさんにも食べさせてあげることにする。肉を切る作業でついた脂でゼフさんの手も汚れているし、「あーん」はこんな時に便利だ。薄切り肉をゼフさんの前に持っていくと、ゼフさんは怪訝そうな顔をして私を見た。
「なんですか?」
「はい、ゼフさんも。あーん」
「なっ、何考えへるんへふぐっ……」
私は少し強引に、問答無用でゼフさんの口の中に肉を押し込んだ。目を白黒させながら、ゼフさんが口を閉じる。それから何度か咀嚼した後、ごくりと肉を飲み込んだ。
「どう、でしたか?」
感想を聞こうと待つ私から目を逸らし、ゼフさんがぼそっと呟く。
「……美味かった、です」
◇
ロワイヤムードラーの塩漬け肉入り穀物粥は、騎士たちに大好評だった。塩漬け肉を微塵に切った後、軽く炒めたことがよかったようだ。香ばしい匂いと脂の旨味、それに塩加減が絶妙で、大きな器があっという間に空っぽになる。まだ何か食べたそうにしている騎士に、私が「残りのロワイヤムードラーの塩漬け肉を全部食べていい」と告げたところ、あんなに嫌がっていたゼフさんがミュランさんと競うように調理場へと駆け込んで行った。
「ほら、メルフィ。あーん、だ」
私はというと、公爵様の隣に座り、穀物粥を食べさせられている真っ最中だ。私は子供でもないのだし、両手だって空いている。それに拗ねてなんかないのだから、「あーん」をする意味が見当たらないというのに。私に粥の乗った匙を差し出してくる公爵様は実に機嫌がよく、いい笑顔だった。
「公爵様も、塩漬け肉をお食べになってこられたらいかがでしょう。私は自分で食べますから」
「駄目だ。俺が食べさせてやる」
「もう、仕方ないですね」
私は口を開け、公爵様が差し出した匙から粥を食べる。胃の中に染みわたっていくような旨味は絶品だ。ロワイヤムードラーの肉は、私が食べて来た魔物の中でも五本の指に入るくらいの美味しさだった。
「メルフィ」
「なんでしょう、公爵様」
「そのことなんだがな」
結局、穀物粥を最後まで食べさせてくれた公爵様が、言いにくそうに切り出してくる。そのこと、とは何を指しているのか、私にはまったく見当もつかない。
「その、普通に呼んでくれ」
「公爵様」
「違う」
「ええっと……アリスティード様?」
「うむ、それだ」
私が名前でお呼びすると、公爵様が満足げに頷いた。
「ケイオスによると、婚約者はお互い名前や愛称で呼ぶのが常識らしい」
「そういえば、お父様とお母様も名前で呼び合っていましたね」
なんと常識だったとはまったく知らなかったけれど、私の両親もそうだったのだから、ケイオスさんが言うことは正しいのだろう。今までずっと『公爵様』としかお呼びしていなかったから、名前でお呼びするのは少し恥ずかしい。でも、今から慣れておかないと。
「で、では。あ、アリスティード様」
「なんだ、メルフィ」
メルフィという愛称は、今ではお父様しか呼んでくれなくなってしまったので、公爵様からそう呼ばれると照れてしまいそうになる。
「もう少しきちんとお呼びできるように練習しますね」
「ははっ、なんなら愛称でもいいぞ?」
「あ、愛称ですか」
公爵様のお名前は、アリスティード・ロジェだからティード? それともロジェ? まさかもしかしてアリス? と考えて、私はアリスと呼ばれて返事をする公爵様を思い浮かべる。血塗れになりながら、金眼を輝かせて魔物と戦うアリス……いや、それはちょっと違うかもしれない。アリスは女性の名前だから、やっぱりティードかロジェだと思う。
「えっと……その、ティード様」
私が小さな声で愛称を呼んだその瞬間、公爵様の琥珀色の瞳が金色に輝いた。尋常じゃない輝き方で、私はまるで金色の光に吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。
「公爵様、目が金色に!」
「あ、ああ……少し、制御が」
「具合がお悪いのですか? 誰か、ミュランさん!」
私の慌てた声に、調理場からミュランさんが飛び出してきた。
「いや、大丈夫だ。久しぶりに魔力の制御が効かなくなっただけだ。問題ない」
「ですが」
駆け寄ってきたミュランさんと騎士たちが公爵様を取り囲む。まさか、私の魔物食のせいだろうか。その可能性を否定できず、私は不安からギュッと拳を握りしめた。
「大丈夫ですよ、メルフィエラ様」
「ミュランさん、私」
「閣下は魔力が強く、そして保有量も常人とは比べ物にならないくらい多いのです。少し放出したらすぐによくなりますよ」
ミュランさんが、心配している私に向かって説明してくれる。公爵様も、薄目を開けながら、私を見て大丈夫だと微笑んでくれた。
「ちょうどいい。明日のためにザナスを獲りに行ってくるか。何十匹か獲ったら症状も落ち着くだろう」
「では、我らがお供いたします」
「メルフィ、少し出てくるが心配ない。大物を獲ってくるからな」
公爵様が安心させるように私の頭をポンと撫で、数人の騎士を連れて部屋を後にしてしまった。どうやら公爵様は、普通の人よりも多く魔力を放出しなければならない体質のようだ。魔物だけではなく、人も魔力を内包している。魔物は魔力が溜まって凝ってしまうと、魔毒を作り出して狂化する。では人は。人は魔力が溜まって凝ってしまうと、一体どうなるのか。
(まさか、お母様のようになるの? 公爵様も、お母様のように……いや、そんなの絶対にいや!)
そう思うと、私は身体の震えが止まらなくなってしまった。