18 ガルブレイスからの迎え
「シーリア様、体調の方はもうよろしいのですか?」
シーリア様はどうやら詐病ではなかったらしく、化粧をしていても顔色はあまりよくない。珍しいことに、部屋の中では三歳になる義弟のルイが乳母と遊んでいた。ここにいるはずのお父様はどうしたのだろう。それに、公爵様が寄越した迎えの人たちは?
私は何かあったのかと心配になり、執事のヘルマンを振り返る。しかしヘルマンも知らないとばかりに首を横に振り、シーリア様の方をチラチラと見遣った。
「あの、お父様は……」
「ドラゴン臭くて最悪の気分だわ。メルフィエラさん、行くなら早く行ってくださらない? あのギャーギャーと煩い鳴き声がルイに悪い影響を与えていますの」
「お父様に挨拶をしたら出発します」
「ああそう。あの人なら外に出ているわよ」
「そうですか。私はてっきりここにいるものだと」
「貴女の荷物に不備がないか確認するのですって。あの気味の悪い貴女の部屋もさぞかしすっきりしたことでしょう。余計なものを残して行かないでちょうだいね」
今日のシーリア様は、濃紺の控えめなドレスだ。派手さはないけれど、この間王都で見てきたばかりのドレスに似た仕立てで、最新の流行りのレースがついていた。特に伝えるつもりはなかったけれど、シーリア様の言葉で私は公爵様のお土産の一部を置いていくようにしていたことを思い出す。
「シーリア様、ロワイヤムードラーの金毛を置いていきます。今年の冬はいつもより寒くなるようですから、暖かい服を仕立てる時に使ってください」
「魔獣の毛だなんてぞっとするわね」
「とても貴重で高価なものだそうです。私には過ぎた品なので、シーリア様と御子息様に」
「あら、そう。念入りに浄化しないと使えないものを置いていくなんて」
そうは言うものの、ロワイヤムードラーの金毛はお気に召したようだ。いらないとは言わないところがなんともシーリア様らしかった。元々、私とシーリア様の関係は遠くの親戚よりも希薄だ。
「長い間、ありがとうございました」
だから私は、当たり障りのない挨拶だとしてもきちんとけじめをつけようと思い、深く腰を落としてゆっくりと淑女の礼をとる。ところがシーリア様の方は違ったらしい。シーリア様は整えられた眉を片方だけ上げて、暑くもないのに羽根扇でゆっくりと扇ぐ。目だけで笑っていて、その口端は歪んでいた。
「ふん、白々しい挨拶だこと。おめでとう、メルフィエラさん。どんな手を使って公爵様を誑かしたのか知りませんけれど、修道院に行かずにすんでよかったですわね。せいぜい、公爵様に飽きられないよう努力なさいな」
気怠そうに長椅子に座ったまま、シーリア様は羽根扇で口元を隠す。私の婚約が決まってからの十日間、自室に篭ってしまったシーリア様とは一切顔を合わせることはなかったけれど、その皮肉混じりのもの言いは健在だった。最初、顔色が悪いと思ったのは私の目の錯覚だったのかも。とりあえずいつもの調子でお元気そうだ。
「はい。精進いたします」
「わかっているとは思いますけれど、あえて言っておきます。たとえ貴女に公爵家の血が混じった子が生まれたとしても、マーシャルレイドの爵位を継ぐのは我が子ルイだけです。貴女の籍は、もうここにはなくなるのですからね」
「はい、私は嫁いで行く身です」
「貴女にマーシャルレイド伯爵家を継ぐ権利は一切ありません」
「肝に銘じておきます。今後は、ガルブレイス家のために尽くします」
「ああ嫌だ。そんなところまで優等生のエリーズ様にそっくりだなんて! 昔からそうだわ。とりすました顔をして、いいところを全部持っていくのよ。まったく、親子そろって忌々しい」
私の返事が気に入らないというように、シーリア様がピシャリと音を立てて羽根扇を閉じる。エリーズとは私のお母様のことだ。シーリア様からお母様の話を聞いたことはない。でも今の言い方は、まるでお母様のことを昔から知っているような口ぶりだ。シーリア様とお母様は歳も随分違うし、王都出身と南の地方出身だから、一体どこで知り合ったのだろう。
「いいこと、メルフィエラさん。もし婚約が破棄されるようなことがあれば、次は猶予などありません。出戻ってきたら即刻修道院に入っていただきます」
「はい。そのような事態にならないよう、努力してまいります」
「嫌なら二度とここには戻って来ないことね。ああ、せいせいした。これ以上話すことなどないわ」
シーリア様は、私に興味をなくしたように言葉を切ると、羽根扇を振って義弟の名前を呼んだ。部屋の隅で遊んでいた義弟が不思議そうにこちらを見て、トコトコと歩いてくる。シーリア様は長椅子まで歩いてきた義弟を抱き上げると、その柔らかそうな頬にキスをして立ち上がる。そして私を見ないようにするためか、後ろを向いてしまった。最初から最後まで、私とシーリア様の心が交わることはなかったけれど、自分の息子に向ける愛情は持ち合わせているようだ。
「シーリア様、御子息様、くれぐれもお身体に気をつけてくださいませ……お父様をよろしくお願いいたします」
シーリア様は私の挨拶には答えず、こちらを見ることもしなかった。でも、それでいい。シーリア様が私のことを疎ましく思うのは、貴族なら当たり前のことなのだから。
私はマーシャルレイド伯爵家の長子らしくできず、普通の令嬢のように淑女としての研鑽を積んでこなかった自覚はある。お父様に跡継ぎがいない時点で、私は社交界デビューを果たす前に婚約者を得ていなければならなかったのに。シーリア様が後妻として迎えられた時には、私は既に魔物食の研究ばかりしていて、社交界にまったく興味を持っていなかったのだ。誰かに言われるまでもなく、私は貴族として失格だった。それにお互い歩み寄ろうにも、そもそもの考え方も違う。シーリア様にとって、私の考えは理解に苦しむものでしかない。
「それでは失礼します」
客間を退出した私は、足早に玄関へと向かう。「まさか奥様がこちらに来られているとは知りませんでした」と平謝りをするヘルマンを促し、外に出てお父様を探した。
(えっと、お迎えは馬車じゃなかったの?)
てっきり迎えは馬で来ていると思っていたけれど、玄関には馬や馬車の陰も形もない。でも、私の自室がある別棟の方からは、ドラゴンのような鳴き声が聞こえている。シーリア様がドラゴン臭いと言ったのはこれだったみたいだ。どうやら私は、お父様たちと入れ違いになってしまったらしい。
私はぐるりと屋敷の裏側に回り、別棟の方へと急ぐ。少し息切れしたところで、荷物を運んでいるお父様の姿を見つけた。
「お父様、こちらにいらしたのですね!」
「おお、メルフィ。支度はもういいのか?」
「はい、準備は終わりました」
荷物を使用人に渡したお父様が、こちらを向いて何か言いたそうにしている。長旅になると思い旅装に着替えていた私の姿を見て、お父様は目を細めた。
「その外套が着れるようになったんだね、メルフィ。それはエリーズがここに来た時に着ていたものなんだよ」
「この毛皮の外套がお母様のもの……南の地方から来たのよね? お母様もマーシャルレイドの冬にびっくりしたのではなくて?」
「そうだな。雪を初めて見たと喜んでいてね。心ゆくまで雪に塗れた結果、来てそうそう風邪を引いたんだ」
「まあ、お母様ったら。でも、想像できないわ」
お母様がそんな無邪気なことをしてただなんて知らなかった。私の記憶の中のお母様は、キリリとしていて、いつも夜遅くまで机に向かっていた。
「エリーズはあれでいてどこか抜けていて、子供のようなことばかりしていた……ああ、いや、そうか……私はお前とそんなことすら話すことがなかったんだな」
「どうしたの? お父様、何か」
急に気落ちしたような顔になったお父様に、私は気になって側に寄る。その時、聞き覚えのあるドラゴンの鳴き声がして、私はそちらを振り返った。
「まあ、あれは公爵様⁈ まさか迎えに来てくださったのですか?」
一番立派なグレッシェルドラゴンの背には、なんと公爵様の姿があった。今日の公爵様は、黒い毛皮の外套に厚手の上衣を着ていて、すっかり冬支度ができている。マーシャルレイド領ではこの七日の間に益々寒さが増した。寒さに強いと言われているグレッシェルドラゴンたちも、吐く息が白くなり、流石に寒そうにしている。
「ああ、先ほど上空から挨拶をされてね。陸路で向かうと十日以上もかかるからと、ドラゴンで迎えに来たのだそうだ」
お父様が、「ドラゴン、いいな」とボソリと呟く。確かに、マーシャルレイド領にはドラゴン種はいないから、羨ましいのはよくわかる。
ドラゴンたちは前よりたくさん来ていた。こちらに残って作業をしていたガルブレイスの騎士たちが、新たにやって来た騎士たちに大声で何かを指示している。自室にあった荷物は、既に搬出してくれていたらしい。ドラゴンを着陸させた騎士たちと共に、太く丈夫そうな縄で編んだ網の中に手慣れた動作で荷物を置いていく。
「迎えに来たぞ、メルフィエラ!」
「公爵様、ありがとうございます。こんなに早くに再会できるとは思いませんでした」
「ぐずぐずしていると冬になってしまうからな。風邪など引いてはいないな? いくら魔法で冷気を和らげることができても上空は寒いぞ。できるだけ暖かくしておくといい」
ドラゴンの背から飛び降りた公爵様が、外套をばさりと鳴らして肩にかける。今日は、黒光りする鎧まで身につけていた。鎧にはガルブレイス公爵家の紋章はもちろん、古代魔法語のような文字が刻み込んである。
公爵様は私の前まで悠々と歩いて来て、あと一歩の距離で立ち止まる。腰には二本の剣をさげていて、まさに今から出陣といった装いだ。その姿があまりに格好よくてドキドキしていると、公爵様がおもむろに片膝をついて私の左手を取った。
「我が婚約者殿、ご機嫌うるわしく存じ上げる」
そう挨拶をした公爵様が、なんと、私の左手の甲に唇を落とした。社交界でよくある、キスの仕草をするだけの挨拶ではない。本当に唇が当たっている。ど、どうしよう、私、手袋してない!
「どうした、顔が真っ赤だぞ?」
「だだだだって、ここ公爵様が」
「私が?」
「もうっ、揶揄わないでくださいませ!」
公爵様が私を見上げ、意味ありげににやりと笑う。絶対、わかってやっている。私、騎士が貴婦人に忠誠を誓うような心ときめく挨拶なんて初めていただいたわ。
「……はっはっは、公爵閣下。よくもまあ、私の目の前でそのようなことがおできになりますな」
「許せ、義父上。私の婚約者があまりにも可愛くてな」
公爵様を半眼で見ていたお父様と、私の手を握ったまま立ち上がった公爵様が、私を間に挟んで睨み……見つめ合う。毛皮の外套を着ているので寒いはずはない。だけれど、何故か流れる空気が冷たい気がする。無言で挨拶の握手をするお父様と公爵様の手に思いっきり力が込められていたように見えたのは……私の気のせいだと思いたかった。