17 引越しは突然に
「お嬢様、これはどちらに?」
「えっと、割れ物はその木箱の中に入れてちょうだい。それから、そこからそこまでの書物はここにひとまとめに」
「メルフィエラ様、こちらの荷物は確認の後に封印を」
「は、はい! すぐに行きます」
ここ数日、別棟にある私の自室は、まとめた荷物で溢れ返っていた。私の研究室をそのままガルブレイス領に移すおつもりらしい公爵様の指示だ。荷物の仕分けは、マーシャルレイドの使用人たちと、ガルブレイスの騎士たちが手伝ってくれていた。
公爵様がグレッシェルドラゴンでマーシャルレイド領に来られた日。お父様と公爵様の話し合いがあった後、私たちは正式に婚約することになった。婚約のこの字すら話がなかった三年間がまるで嘘のような速さだ。お父様から応接間に呼ばれ、魔法のかかった婚約誓約書を見せられた私は、思わず公爵様の手を取りその甲を確認してしまった。それほどまでに強い魔法がかかった誓約書だったのだ。
「公爵様、こんなことをなされて大丈夫なのですか⁈」
「心配するな、メルフィエラ。この婚約が破られることはないという約束の証だ」
「ですが……」
「お前の誠実さとその覚悟に応えたかったのだ。ケイオスには秘密にしておいてくれ。あれは色々と煩い」
そう言って、私の頬を優しく撫でた公爵様に、私はそれ以上何も言えなかった。遥かに格下の伯爵家の娘相手に、公爵様は気を遣いすぎだと思う。世間一般の婚約がどんなものか知らないけれど、この婚約、普通ではない。
忙しく動き回り、私があれこれ指示を出していると、ガチャガチャという拍車の音と共にガルブレイスの騎士が部屋に入ってきた。黒い騎士服に身を包んだその人は、グレッシェルドラゴンでお土産を運んで来てくれたミュランさんだ。
「メルフィエラ様、ロワイヤムードラーは無事に外に運び終わりました。ご指示通りに凍らせたままの状態で、至急ドラゴンたちに空輸させます」
「ありがとうございます、ミュランさん。カチコチの方がいいから、冷気を遮断する魔法はかけないままで運んでくださいね」
「了解いたしました!」
ロワイヤムードラーの肉は、ガルブレイスの領地に持っていくことにした。どうせこちらでは誰も食べることはないので、置いておくのがもったいなかったからだ。解凍して食べてもよし、燻製にしてもよし、まだまだ色んな方法で楽しみたい。公爵様が持って来てくださったあの香辛料はとても美味しかった。ガルブレイス領にはまだまだ私の知らない未知なる魔物と、珍しい香辛料がたくさんあると聞いている。もしかしたら、肉食系の魔獣を美味しくいただけるような調理法もあるかも。
「それと、あの……ロワイヤムードラーの金毛はいかがいたしますか?」
つい妄想にふけってしまった私を、ミュランさんが引き戻してくれる。まだ年若いというのに、ミュランさんはガルブレイスのドラゴン隊を率いる隊長なのだそうだ。ドラゴンは高高度を飛空する。それなら凍ったままの肉を運ぶのに最適だという私の無茶なお願いを、二つ返事で引き受けてくれたいい人だった。
「あの金毛はここに置いていくわ。これから益々寒さが厳しくなるから、お父様や義弟のために、暖かい上衣を編んでもらうことにします」
「では、こちらの者に預けて参ります」
「ええ、お願いします」
ミュランさんは何か言いたそうにしているけれど、私はこれでいいと思っていた。シーリア様は、ガルブレイス公爵様のお土産だと知ったら意地でも受け取らないだろう。でも、三歳になる義弟のためなら、渋々ながら使ってくれるはずだ。なんと言ってもロワイヤムードラーの金毛だし、マーシャルレイド伯爵夫人ごときが手に入れられる代物ではないのだから。
「メルフィエラお嬢様、お召しものはこれで全部ですか?」
「えっと、それは全部普通のドレス? 作業用のドレスも全部入れておいてね」
「あの汚れたドレスをですか⁈」
「そう、汚れたドレスも全部」
研究資料などを全て箱詰めした後は、自分の身の回りのものだ。ドレスから靴から下着まで。ありとあらゆる私物を、荒い目の袋にどんどん詰め込んでいった。研究資料とは違い、私の私物は少ない。別に贅沢を好んでいたわけでもなく、お洒落よりも研究だったので、普通の貴族の令嬢たちのようなドレスや装飾品は不要だったからだ。シーリア様に婚約者を見つけてくるように言われて仕立てた真新しいドレスが三着。それ以外は、お母様のドレスを仕立て直したものか、見かねたお父様から贈ってもらったものしかない。
(よし、あと少しね。お迎えが来るまでに、荷物は外に運び出さなきゃ)
なんと私は、これからガルブレイス公爵領に移ることになっていた。もうすぐ迎えがやってくることになっていて、私はそれまでに準備を終えなければならないのだ。これは、三日間の短い滞在中に、公爵様が、「マーシャルレイドの冬は長すぎる。私に春まで待てというのか?」とお父様に詰め寄った結果だったりする。公爵様が言われるには、ガルブレイスの土地は特殊なので、私に慣れてもらう必要があるとのことだけれど。
公爵様は一度領地にお戻りになっているので、私は公爵様が残してくれたガルブレイスの騎士たちと、急遽引越しの作業に追われることになってしまったというわけだ。
(それにしても、婚約してすぐに相手の領地へって……婚約者になったらそんなに早く同居するものなの?)
普通であれば花嫁修行だとか、結婚までの支度だとかあるのだろうけれど。私は頼りになるお母様を亡くしているし、マーシャルレイドの女主人であるシーリア様は、公爵様を怖がって本邸の自室に篭りっぱなしだ。使用人は使用人でしかなく、お父様は「公爵様の言う通りに」としか言わない。
私は随分と片付いた部屋を見回して、何か役に立ちそうなものを探してみる。埃をかぶった裁縫箱があったので蓋を開けてみると、中の針はすっかり錆びていた。縫い掛けの手巾はクシャクシャになった状態だし、今さら使い道がなさそうだ。困った。ガルブレイス公爵夫人なんて務まりそうにないかも……何も裁縫だけが公爵夫人の資格ではないと思うけれど、お茶会での洗練された会話など無理だし、何よりも私には威厳がない。
「メルフィエラ様、この箱にも封印をお願いします」
「はい、わかりました」
総出で片付けた結果、お母様が遺した研究書や、私が新たに書いた資料が入った木箱が部屋の外に積み上がった。私はそれをひとつひとつ確認しては、魔法で封印を施していく。封印は公爵様が作ってくださったもので、私以外の人が無理矢理開けようとしたら、開けた本人ごと爆発四散するものらしい。うっかり爆発しては大惨事だ。使用人たちに絶対に開けるなと言い聞かせているけれど、私の荷物にここまでする必要があるのだろうか。
「あっ、それは自分で持っていきたいの」
「かしこまりました。それでは、手荷物の方へ」
「お願いね」
使用人が、お母様と私が描いてある小さな肖像画を柔らかな布で包み、私の鞄の中に入れてくれた。お母様は生前、魔物の研究に勤しんでいたから、着飾ったり宝飾品を身につけていたりという記憶はない。けれど、肖像画の中のお母様はまるで緑柱石のような瞳を輝かせていて、とても美しい人だった。緑の目は私にも受け継がれているけれど、お母様のように美人かといえば、そうではない。お母様の髪は薄紅がかった艶やかな金髪で、私はその真っ直ぐな髪をいつも羨ましがっていた覚えがある。
(このくるくる巻いた赤毛は一体誰に似たのかしらね)
私の赤毛は、手入れを怠るとすぐに爆発してしまうのだ。そういえば、公爵様は私の髪を気に入ってくれているようで、滞在中はことあるごとに髪に手を伸ばしては感触を楽しんでおられた。ケイオスさんが言うには、「閣下は可愛らしいものや、ふわふわした小さな獣が好きなのです」ということだけれど……公爵様的には私は小さな獣枠なのか。ふわふわがお好きなら、少しくらい髪のお手入れが行き届かなくても大丈夫かしら。
「お嬢様、先方からお迎えが参りました。旦那様が本邸でお待ちです」
空っぽになった部屋の中でしみじみと思い出していると、執事のヘルマンが私を呼びに来た。私が生まれる前からマーシャルレイド伯爵家に仕えてくれているこの執事は、いつも変わらず私に接してくれた数少ない人だ。お父様が後妻を迎えてから、家の侍女は全てシーリア様が連れてきた使用人と入れ替わっている。皆、魔物を食する令嬢と積極的に関わろうとはしてくれなかった。
「ありがとう。ゆっくりは話せないから、ここで挨拶をさせてちょうだい。お母様のように立派なこともできずに、中途半端なままで迷惑をかけてごめんなさい。それから、時々料理を食べてくれてありがとう」
「……私は自分の仕事をしたまでです」
「ええ、そうね。お父様をよろしくね、ヘルマン」
私は最後に部屋の扉を閉めると、いつものように魔法鍵をかけそうになりハッとした。そうだ、もうきっと、この部屋に戻ることはない。
(……まあ、この婚約が失敗しなければだけど)
私はヘルマンについて別棟を後にすると、お父様が待つ本邸に入る。通された客間で待っていたのは、お父様ではなく、病気療養中だったはずのシーリア様であった。