97 兄と弟
「メルフィエラちゃん、本当に申し訳なかった。こんなに弟想いの君に、僕はなんてことをしてしまったのか」
アリスティード様の膝を離れ、国王陛下が今度は私の方に向き直る。兄弟そろって顔がいい。しかも今まで遠目にしか拝謁したことのない国王陛下だ。あの夜はあわや一大事といったゴタゴタから私もそれどころじゃなかったけれど、改めて考えると伯爵家の一令嬢がこんな私的な空間でお目通り叶うお方ではない。しかもじっと見つめられているので居心地が悪い。
「その節は私のために御心を砕いていただきましたこと、深謝申し上げます」
私にはもうこれしか言えない。緊急事態とはいえ失礼なことをしでかしてしまった記憶もしっかり残っているし、熱で頭がよく回っていなかったとはいえ言いたいことをしっかり言ってしまったのだ。不敬にも程がある。そんな私の内心を知ってか知らずか、国王陛下が今にも泣きそうな声になる。
「僕の義妹が他人行儀だ……お兄ちゃんは悲しい」
「なにがお兄ちゃんだ。お前は自分の立場を考えろ」
「駄目?」
「……三十三歳にもなってこれとは……はっきり言って正気を疑いたい。クラハ王妃陛下、これは大丈夫なのか?」
「表現方法がアレなだけで貴方のことが大好きなのよ。害はないわ、多分」
アリスティード様にはばっさりと切られ、王妃陛下からも突き放された国王陛下は、床に座ったまま目を潤ませて私を見上げる。深い深い紫色の目が潤み、右の目からポロリと涙の粒がこぼれ落ちるけれど、それを見た王妃陛下があきれ顔で、「いい役者になれるわよマクシム」と一蹴する。
「そうだぞ、騙されるなメルフィ。こいつは涙のひとつや二つくらい出したい時に出せる演技派だ」
「酷い。君が取り付く島もないのがいけないんじゃないか」
「くどい、普通に話せ。というか王が簡単に涙を見せるな」
「あのね、アリスティード。僕は今、君の兄として忠告してるんだよ」
国王陛下は立ち上がると、真面目な顔をしてアリスティード様を見下ろす(涙はすぐに引っ込んだので、やっぱり演技派だと思った)。
「君があまりに自分自身のことに無頓着だから、兄として安心できないんじゃないか」
「自分のことは自分が一番よく知っている」
「この頑固者」
ふいっとそっぽを向いたアリスティード様に、国王陛下が憤慨する。そしてそのまま上から覗き込むようにして顔を近づけた。
「口うるさいかもしれないけどね、僕が君を心配しているのは本当だ。なりふりなんて構っていられないくらいにはね」
すると、アリスティード様がバツの悪そうな顔になる。珍しい。ケイオスさんに言いくるめられる時よりもっと子供のような顔だ。私の視線に気づいたアリスティード様の頬が赤くなる。
「君はちっとも自分を大事にしない」
「それはお前もだ。それに、だからといってメルフィエラを巻き込むな」
「もうっ、そういうんじゃないって! なんでそう口下手なのかな、君は……。どうせメルフィエラちゃんに君の魔眼についてだってろくに説明もせずにいるんでしょ? ね、メルフィエラちゃん?」
国王陛下から急に話をふられた私は、一瞬どう答えるべきか迷った。でもすぐにこれはいい機会なのではと思い直す。
(アリスティード様は自分の生死にかかわることだけは有耶無耶にしてしまうのだもの。私と一緒に生きる意味を考えてくださると、そう約束したのに)
私が国王陛下に、「赤い魔眼のことは知りませんでした」と答えると、アリスティード様が驚愕して、それから少しだけ唇を尖らせた。その反応は、きっと言うつもりがなかったということだろう。
「心配するな。誰かに害があるわけではない」
「誰かではなく、アリスティード様に害があるのでしょう? あの赤い魔力はなんなのですか? それはアリスティード様にどのような影響を与えるものなのですか? いつもいつも、大丈夫の一点張りではないですか」
私はアリスティード様の左手に手を重ねると、手袋の上からそっと指先を撫でる。
「私では頼りになりませんか?」
アリスティード様が信じてくれるまで、私は何度でも伝えたい。
「共にいます」
アリスティード様が必要とされる限り。傍らで支えたいという私の思いが伝わってくれたら。
「私はもう、無力ではありません」
「俺は、一度もお前を無力などと思ったことはない」
「ア、アリスティード様⁉︎」
アリスティード様が急に私を抱きしめてきた。ぎゅうぎゅうと腕の力が強くなり、私は後頭部を抱え込まれて身動きが取れなくなる。
「ど、どうなされたのですか」
「……別に。お前もたいがい心配症だと思っただけだ」
「それは仕方ないじゃないですか。魔力の暴走で命を落とすことだってあるのです。アリスティード様が母のようになってしまったら、私、私は……」
お母様のようになってしまうこともあるのだ。狂化寸前の母天狼を救うことができたからといって、人と魔物ではそもそもの生命力が違う。治療のためとはいえ、人からあんなに血を吸い出してしまえば、確実に死ぬ。
(それだけは、絶対に嫌)
「メルフィエラ、俺が悪かった。きちんと話すから、赤い魔力のこと」
アリスティード様から忙しなく背中を撫でられて、どうやら私は慰められていることに気づく。しばらくしてからポンポンと優しく頭に触れた。
「お前の母親は、魔力の暴走で亡くなったのか」
「……はい。母も魔力過多で、魔眼を持っていたのだと思います」
くぐもった私の声に、アリスティードが小さく「そうか」と答える。話そびれてしまってからずっと引っかかっていた。リッテルド砦でアリスティード様が魔力を制御できなくなって魔眼が反応した時から、私はずっと魔力の暴走を起こす前に魔法でなんとかできたらと、ずっと考えて研究していたのだから。
「母は魔法を使うと目が魔力で輝いていました」
「……俺やヤニッシュと同じだな」
「母は、魔物食の研究で抜き出した魔力を素手で扱っていました。魔力を含んだ血液が、母の手の中でまるで結晶のようになるのです。でも、身体に過剰な魔力が蓄積されてしまって、晩年は寝込むことが多くなりました。そして、魔力の暴走によって儚く」
「それでお前は、俺を心配するのだな」
「はい。魔物の目の色が変化するのは、狂化する時ですから……」
狂化した魔物はその目の色が濁ってしまう。魔毒が血に回ってしまうから。目の血管がその色を顕著に伝えてくるのだ。
「あの夜、俺が狂化しているように見えたか?」
「い、いいえ」
あの夜のアリスティード様の目は、少なくとも濁ってはいなかった。真紅。鮮やかすぎるほど怪しく赤い目だった。アリスティード様の普段の魔力は金色だけれど、何故か赤く染まっていて、お母様ですらそんなことはなかったのに。
「狂化していれば、いくら俺でも理性を飛ばしていただろうが」
アリスティード様の声が穏やかになる。いい加減に身体を離してほしいけれど、アリスティード様はお構いなしだ。ここは王城の国王陛下の私室で、国王陛下と王妃陛下の御前であるというのに。国王陛下の反応はなく、王妃陛下も静かだ。
(そ、そろそろ解放してくださいっ!)
私がアリスティード様の胸を軽く押しても、びくともしない。心臓が早鐘を打ち始め、だんだんと顔が熱くなってくる。
「俺の魔眼は魔力によって金色に光るが、赤くなる時は限界ギリギリまで魔力を放出した時だと判明している。これ以上魔力を放出すれば枯渇するぞという合図だ」
「それはそれで大丈夫じゃないです!」
魔力を有する生き物は、魔力が完全に枯渇すると死に至ってしまう。それは常識で、人は生存本能が働くので、通常は枯渇寸前までいくと意識を失って魔力の回復を優先するのだ。
「では、アリスティード様は、魔力が枯渇する寸前にもかかわらず、ラグラドラゴンを燃やし尽くしてしまったのですね」
アリスティード様の魔法は火力が高く魔力だってたくさん消費する。身体が防衛する前に、魔力が枯渇してしまったら?
「だが、大丈夫だったーー」
「全然大丈夫ではありません」
アリスティード様の胸を押すと今度は簡単に腕が解かれた。もはや心配を通り越して腹立たしさを感じる。国王陛下はアリスティード様に構い過ぎだ、と思っていたけれど、放置してしまえばどうなることか。
「アリスティード様」
「……はい」
私の静かな怒りを感じ取ってか、アリスティード様が反省したように項垂れた。
「今後はオディロンさんに頼んで、一定量の魔力を消費したら強制的に気絶する魔法陣を仕込んでもらいます」
「ちょっ、ちょっと待てメルフィ。そんな魔法はないよな?」
「なければ作るまでです」
「メルフィ!」
アリスティード様が縋り付くように私の両手を握ってきたけれど、私は目を逸らして沈黙する。全部自分で抱え込んでしまうから、こちらが強引に出ないとどこまでも自己犠牲に走ってしまうのだ。そんなこと、絶対に許してはいけない。
と、顔を背けた拍子に王妃陛下と目が合う。とてもいい笑顔で、何故か隣に座る国王陛下の頭を閉じた扇で突いていた。
「よかったわね、マクシム。今回は全面的に貴方が悪かったけれど、いい枷が見つかったじゃないの」
「そうだけどさ、そうだけどさぁ……メルフィエラちゃんも無茶しがちな娘ってわかったから、やっぱり僕が間に入るべきなんじゃないかい?」
私がアリスティード様に怒っている間に、国王陛下夫妻も大変なご様子のようだった。咳払いをした王妃陛下が、ひときわ厳しい声で国王陛下を嗜める。
「貴方は首を突っ込みすぎなの。アリスティードだけではなくメルフィエラさんにも失礼よ」
「でも、クラハ」
「あの二人はお互いの抑止力になれるでしょう? 貴方と十年共に歩んで来ましたけれど、私たちよりずっと良き夫婦だわ」
「そう、見えるよね。もうすでに熟練の夫婦だよね」
「ええ、間違いなく。貴方もこれを機に弟離れしなさいな」
「……うん、そうかもね」
王妃陛下から滲み出る強者の圧に、国王陛下も項垂れる。似ているようで似ていない兄弟だけれど、ふとした瞬間に見せる顔や仕草が妙に似通っている。
「わかったメルフィエラ、魔眼が赤くなるまで魔力は使わない。約束する。だから、な、そんな物騒な魔法を開発するのはやめてくれ」
「駄目です。こういう時のアリスティード様は信用してはならないと学びました」
「メルフィ、頼むから」
「では、私も討伐について行って直接止めるしかないですね」
「無茶を言うな! お前を危険に晒せるわけがないだろう⁉︎」
「魔法陣を仕込むか討伐に連れて行くか、二択です。さあ、アリスティード様、お決めください」
「ぐっ」
どう足掻いても私が折れないと悟ったアリスティード様が選んだのは、一定量の魔力を放出すると気絶する魔法陣だった(ただし、アリスティード様が目が赤くなるギリギリまでは勘弁してほしいと懇願したので、それは仕方なく希望通りになった)。
そして、一連の流れを見ていた国王陛下が、「兄弟そろって尻に敷かれる運命かぁ」と呟いたとか呟かなかったとか。何はともあれ、私は無事、国王陛下と対面を果たしたのであった。




